合図―――AM5:00
ジュリウスの朝は早い。
まず大尉として戦線や各種書類の確認、サテライト拠点への物資の手配。次に隊長としては部隊の戦績や技量の習得具合など、後方部門からの報告に目を通す。前線での指揮は副隊長に任せることも増えたが、まだまだ自分にしかできない仕事は多い。
加えて本日の任務は感応種討伐。しかも連戦が予想されるため、いつも以上に万全の準備が必要とされる。
そう意気込むのは副隊長も同じだったようで、エレベーター前でアーディルと出くわすと、挨拶もそれなりにラウンジで共に朝食をとることになった。
いつも料理を作ってくれるムツミが今日はまだいなかったため、コーヒーと比較的すぐにできる朝食を用意する。なかなかに手際が良いアーディルの横顔を盗み見ると、銀色のピアスがひとつ。
普段であれば賑やかなこの場所も、嘘のように静かだ。コーヒーを啜る、カトラリーが皿に触れるなどの些細な音がよく聞こえる。
時折、体を半分互いの方へ向けて任務の詳細を確認しあっていると、不意にアーディルの目が何かを見つけたように一点に止まった。
彼の視線は、ジュリウスの胸元に結ばれた赤いリボンへ向けられている。
いたたまれない気持ちを顔に出さないように話を進めると、アーディルも視線をジュリウスの顔へ戻した。
口元を僅かに緩ませ、目を細める彼の様子からは、随分と余裕があるように見えた。
* * *
出発する前は、いつも特有の張り詰めた空気が漂う。これはどれだけの任務をこなしても変わらない。
移動用のヘリの前で各々が最後の支度をしているなか、ジュリウスはさりげなくメンバーの顔を観察する。必要以上に力んでいる者や―――これは少ない例だが―――他事に気をとられている者がいないか見るためだ。
緊張感が足りなさすぎるのもいけない。しかし力が入り過ぎているとミスが起こり、それが原因で命を落とす可能性だってある。
地図を見ながら考え事をしているシエル、お互いを励まし合うように明るく振る舞うナナとロミオ。ふと、アーディルの姿が見えないことに気がつく。少し遅れているのだろうか。
最後に、一番経験豊富なギルは―――目があった。どうやら、彼も同じ考えのようだ。顎をクイと動かし、やたらと騒ぐナナ達を指す。
注意して見ていてやれ、という意味だろう。
ギルの気づきの多さと視野の広さには感心する。血の力に目覚めてからより一層周りを見れるようになったのは、さすがの一言だ。
「おい、ジュリウス。リボンが歪んでるぞ」
こういうことにも、よく気がつく。
あらかじめ用意していた言い訳を使おうと口を開いたら、後方から声をかけられた。
アーディルの声だ。
「珍しいな。……まだ時間はある。直して来たらどうだ」
アーディルはそれだけ言うと、未だに落ち着かない様子の二人の元へ向かった。彼がひとことふたこと言葉をかけると、ようやく気持ちが楽になったのか、安心したような表情に変わった。
離れ際に見たアーディルの顔は、当然のことながら些か固い。だが、その口元はどこか楽しそうに見えた。
―――頼もしい限りだ。
―――PM2:30
戻り次第遅めの昼食をとってからは、シエルを交えての三人でミーティング。
エントラス中央の資料が広がった机を挟んだ先に、アーディルとシエルが隣り合って座っている。
議題は、近々行われる大規模なサバイバルミッションについて。この手の任務は複数日かけての遂行になるため移動、戦闘の疲労が溜まりやすく、効率的な作戦の実行と連携が求められる。そして一番重要なのが補給。一日一日の消費量を予想して算出し、申請、各フェーズごとに適切な量の物資が届くようにしなければならない。
朝から厳しい任務を終えたばかりなのに、気が休まる暇もない。それは目の前の二人からもうかがえた。特に戦術理解が深いシエルは、この作戦での自分の立場を自覚しているようで、発言にも熱が入っている。
長丁場になりそうだ。
少し目の疲れを感じていると、アーディルから休憩の提案が出た。シエルも一度頭を整理したいらしく、彼に賛同している。適切な状況判断だ、副隊長。
温かい飲み物を飲みながら一息ついていると、通りかかる他の神機使いたちから声をかけられた。その中に感応種討伐についての興奮と称賛が含まれていて、誇らしい気持ちになると同時に、あの種の脅威を再確認する。
今後、ブラッドにかかる期待はますます高まるだろう。
そして、アーディルへの期待も。
極東の神機使いに囲まれながら質問に答える彼は堂々としていて、すでに貫禄がある。ついこの間まで新入りだったのが信じられないくらいだ。
羨望を浴びるその横顔。黒い髪の間に見える耳に―――銀色のピアスがふたつ。
不意に、喉に圧迫感を感じた。
勢いよく咳き込めば、シエルが驚いた様子で具合を聞いてくる。コーヒーでむせた、なんて言いたくなかったので心配ない、とだけ伝えると、今度は隣のアーディルが同じように具合をうかがってきた。
いつのまにか、彼を囲んでいた神機使い達はいない。
銀色の光が、やけに目につく。
「……問題ない。さて、そろそろ再開するぞ」
今日の仕事を早く片付けなければ。
―――PM11:45
ジュリウスはアーディルの自室の前にいた。
夜も更けてきたため照明は暖色を灯しており、白い壁をその色に染め上げている。
静まりかえった廊下。まるで、音のない世界。
ゆっくりとドアホンを鳴らすと、聞こえてくる声。名前を告げれば入ってくれ、と短い返事。心臓が、音を立てる。
ジュリウスは自らの首元に手をやる―――いつも着けている黒いチョーカーがなく開かれた襟の先の喉元に触れると、手の冷たさが伝わってくる。
部屋へ入ると、アーディルはベッドに座って読書をしているところだった。
彼の着ている襟がV字に開いた黒い服が、普段は制服姿しかほとんど見ないせいか、いつも新鮮に思える。つい、露になった首筋に目がいってしまうのだ。隆起した部分が動く度に、気持ちがざわつく。
視線を反らすためにアーディルが読んでいる本に目をやると、何やら変わったものを読んでいるようだ。
『極東むかしばなし』
あまり聞き馴染みのない響きが、これまたあまり見たことのない書体で表紙に書かれている。
厚さからして詩集を思わせるが、一体。
「それは、どのような内容なんだ?」
「極東の古い……所謂お伽噺をまとめたものだ。ムツミに借りたんだが、なかなか面白いぞ。桃から生まれて成長した子どもが、鬼を退治しに行ったり。」
「桃から……それは、どのような偏食因子が関係しているんだ? まさか、まだ発見されていない次世代の―――」
「こいつは神機使いじゃない。しかもだ、この桃太郎という奴は団子をやった動物を仲間にして、鬼の所へ行く」
「団子で、動物を……何か特別な成分が含まれているはずだ。そうでなければ動物と意志疎通など、考えにくい」
「残念ながら、ただのうまい団子のようだ」
他にもあるぞ、と話をするアーディルはなんだか楽しそうで、この本が彼にとって興味をそそられる存在であることが伝わってくる。現に、またすぐ読書に集中してしまい―――少し、拍子ぬけしてしまった。
一人分の間を空けて同じようにベッドに腰かけ、じっと横顔を見つめる。これだけで、今日何度目かわからない。
端整な顔立ちに、力強い瞳。
今や自分を含め誰もが一目を置く神機使い。
多くの人に慕われる男。
常に輪の中心にいる、自慢の恋人。
ジュリウスは頭上で結わえていた髪をほどいた。パサリと、弱々しい音。静かに口を開く。
「……アーディル」
思っていた以上に小さく、かすれた声が出た。
もう一度、その意志を込めて呼びかけると―――彼の瞳が、今日一番穏やかな色を宿していた。
思わず見とれていたまま押し倒されると、スプリングが頼りない音を立てる。
冷涼な瞳が熱を帯び、ジュリウスを射抜く。
ーーー本当にいいのか?
彼はそう言っているのだ。
返事の代わりに手を伸ばして二つのピアスに触れれば、その手をとられ、短い口づけが落ちてくる。
どちらからともなく笑みをこぼせば、アーディルの手は胸元へ。
真っ赤なリボンを解けば―――それは始まりの“合図”