L.letterきっかけは些細なことだったはず。たまたま急ぎの伝言を頼まれ、メールを送るよりも直接伝えたほうが早いと思ったから、受付のヒバリから適当な紙とペンを借りてそれを書いた。半ば書き殴ったそれはお世辞にも上手いとは言えない。ただ、受け取った彼の言葉は今でも鮮明に覚えている。
―――お前は、こういう字を書くんだな。
なんてことない紙をジッと見つめながら紡がれた、視覚からそれを味わっているような声。
あの時の真意は、わからないまま。
『アーディルへ
先日のサバイバルミッション、ご苦労だった。皆、大きなケガもなく帰還してくれて何よりだ。これも、お前のおかげだな。何か欲しいものはないか? お前の日頃の働きを労いたい。返事を待っている。 ジュリウス・ヴィスコンティ』
あのメモを渡してから数日後、ジュリウスから1通の封筒を渡された。金箔が押された紺色の封筒。自室に戻ったら読んでくれ、なんてひと言を添えて。その場で内容を尋ねても答えてはくれなかったので、仕方なく言われた通りに部屋で封を開けると―――白い紙に青いインクで書かれた文字―――手紙だった。
『ジュリウスへ
突然の手紙に驚いている。これも神機使いの仕事に関係あるのか?
それと欲しいものだが、今は特に思いつかない。強いて言うなら、フェンリルに所属している神機使いや、サテライト住人のデータベースが見たい。妹を探す為にも。 アーディル』
我ながら、律儀だと思う。別に、直接返事をしても良かったはずだ。メールを送ってもよかったはずだ。最後にあった「返事を待っている」の言葉を完全に無視しているわけではない。それなのに―――。
当然、便箋など持っていなかった。手紙など、幼い頃に妹と一緒に両親に送ったこと以外に、書いた記憶がない。前みたいに紙1枚を渡そうともしたが、きちんと封筒に入れて送ってきた相手にそれもどうかと思い、結局ムツミに相談した。アナグラにいるメンバーの中で、便箋を持っている可能性が高いと考えたからだ。幸い彼女は意外にもたくさんの種類を持っていて、やはりと言うべきかピンク色や花柄のものが多い。そんな中、見つけ出した白い便箋。柄も何もない、羅線だけのそれに黒い文字を紡いだ。
ジュリウスへ―――。
『アーディルへ
返事をくれたこと、嬉しく思う。ちなみに、神機使いの仕事には一切関係はないが、たまには良いじゃないか。データベースの件だが、正直に言って難しいと思う。だが他でもないお前の頼みだ。何か手がないか探してみる。妹さんについてもっと詳しく聞いても良いだろうか。 ジュリウス・ヴィスコンティ
P.S. ムツミさんもらった食事のリクエスト券を同封しておく。好きに使ってくれ。』
『ジュリウスへ
無理を言って悪いな、助かる。それと、妹のことだが、知っての通り何年も前に生き別れたままだ。俺と同じで、どこかの施設に預けられたかと思う。生きていればの話だがな。
容姿はあまり似ていないな。歌が好きで、お転婆で、俺もよく振り回された。あんたには、きょうだいはいるのか? アーディル
P.S. もらったリクエスト券だが、ナナがあまりにも羨ましそうに見てきたから譲った。今度ムツミからもらうことがあったら、また頼む。』
『アーディルへ
お前が振り回されているのはなかなか想像できないな。きっと仲の良い兄妹だったんだろう。俺にはきょうだいはいなかったから、少し羨ましい。だが、俺にとってはお前を含めてブラッドの皆がきょうだいみたいなものだ。だから、困ったことがあればいつでも言ってくれ。 ジュリウス・ヴィスコンティ』
気が付いたら続いている、ジュリウスとの手紙のやりとり。何日かに一度のペースで交わされる、ゆるやかな紙面上での日常。
どちらかがそう言ったわけでもないし、特に深い意味もないのだが、誰にも見られないように手紙を受け渡しするのが暗黙のルールになっていた。二人しかいない時に渡したり、報告書の間に紛れ込ませたり。まるでこの時間に他者が干渉してくることを拒むような、それでいて秘密と言えなくもない状況を楽しんでいるかのような。
内容は他愛のないことばかりだ。
業務についての話題は基本的にはなく―――時々ジュリウスから立ち回りに対するお小言はあるが―――いわゆる世間話。もちろん、これまで通りメールもすれば、時間のある時はラウンジやお互いの自室でコーヒー片手に話をしたりもする。
それでもこのやりとりが―――相手のことを考えながら文字を紡ぐ時間が、いつしか大切な時間になっていた。
彼から手渡される紺色の封筒を見るたび、どこか心が浮き立つのを感じていた。
『アーディルへ
最近、少し食べ過ぎではないのか? ムツミさんの料理が美味しいのはわかるが……お前が大食いだったことに驚いている。だが、ほどほどにしておくように。これは隊長命令だ。先日貸した本はどうだ? あの本は俺も気に入っているから、ぜひともお前の感想が聞きたい。待っているぞ。 ジュリウス・ヴィスコンティ』
ジュリウスの書く文字は美しい。
細く、やわらかく、一見繊細に見えるが芯があり、文字を美しく見せる為の書き方を心得ているように感じる。何より、品が良い。これだけで彼の育ちの良さがうかがえた。ラケルの施設に行く前は、きっと良家の子息だったに違いない。
今まで自分の書く文字など気にしたこともなかったが、やりとりをしている相手がこうも上手いとなると、こちらもそのように書きたいと思うもの。
『ジュリウスへ
職権乱用は良くないな、隊長。まあ、極東支部に来てからよく食べるようになったことは認める。ドンブリ料理、お前も食べてみたらどうだ? きっとハマるぞ。あと、本の感想だが、最初はバラバラだった各々の考えがまとまっていく過程が面白かったな。特に主人公が最後までブレなかったところが良かった。あんたは小難しい本ばかり持っているのだと思っていたから、こういうのは少し意外だった。また他のも貸してくれ。俺もあんたに聞きたいことがある。整った字を書くコツがあれば教えてほしい。 アーディル』
『アーディルへ
お互い、極東へ来てから驚くことばかりだな。文化に関しても興味深いものが多い。今度、榊博士から極東の歴史書を貸していただけることになった。俺が読んだらお前に貸す話をつけてある。楽しみに待っていてくれ。それと、今度カツドンを食べてみるつもりだ。
文字について悩んでいるのか? 人に教えられるようなことはないが……普段は良い意味で力を抜いて書くことを心がけているな。あとは自分の気に入ったペンを使うと、書くことが楽しくなるのではないだろうか。俺も幼い頃に父親からもらったものをずっと愛用している。だが、そこまで気にすることはない。お前の字は癖もなくて、俺は好きだ。
ジュリウス・ヴィスコンティ』
ゆっくり、そっと、青い文字を指で撫でる。
アーディルは我知らずに薄く唇を開くと、そのままやわらかく弧を描いた。
ああ、なんて単純なのだろう。
なんてことない、たったひと言で。
何度も、何度も、その美しい文字をなぞる。
ジュリウスは、どのようにしてこの言葉を選んだのだろうか。
どんな気持ちでこれを書いたのだろうか。
知りたい。知りたい。知りたい。
早く返事を書きたい。
―――アーディル隊長へ
冷たいモニターの無機質な黒い文字。
書かれていたのはアーディルへの謝礼と、ジュリウスの意思。
文字で名前を呼ばれることなどこれまでに何度もあったのに、今はそれが、ひどく重い。
皮肉だ。ジュリウスがどんな気持ちでこれを書いたのか、容易に想像できてしまう。
『ジュリウスへ
元気にしているか? なんて、おかしなことを聞いたな。お前のことだ、場所は変わっても大概のことはそつなくこなしていくんだろうな。俺はようやく隊長と呼ばれるのに慣れてきたところだ。まだ、不思議な気持ちではあるが。副隊長だった頃と比べて、やることもかなり増えた。特に事務作業。シエルの手を借りてはいるが、なかなか骨が折れるな。お前は、いつもこれだけのことをしていたんだな。さすがだ。お互い、無理のないようにしたいものだな。 アーディル』
白い紙に黒で紡がれた文字は以前と比べてバランスが良くなったように思える。
手には、一本の万年筆。
ジュリウスがブラッドを抜けてすぐの頃、多忙ではあったがなんとか暇(いとま)を作り居住区へ買い物に出かけた際に手に入れたものだ。
せっかくなので少し値が張っても良いものを買おうと決めていたものの、そもそも筆記具を扱っている店がほとんどない。このご時世だ。簡易的なペンこそあれど、万年筆ともなれば話は別。たとえ品物があったとしてもアーディルが思い描くようなものはなかなか見つからなかった。
限りある時間が無情にも過ぎていき、毎日の任務の疲れがじわじわと体を蝕み、足取りが重たくなっていく中でも自分がこれだと思うものを見つけ出すという意志は消えることはなかった。
ようやくたどり着いたのは路地裏の小さな店。老主人が古い友人から譲り受けたうちの1本を、今度はアーディルに譲ってくれた。しかも無償で。
店主にとって大事なものであることは明らかだった。さすがに悪いと思い、断ったが店主は引かず、ならせめて金を払うと言っても店主は首を横に降るばかりで、聞く耳をもたなかった。
困惑するアーディルに店主はそれなら、と条件を提示した。
自分に手紙を書くこと、そしてそれを届けにまた店に来ること―――。
少しでもジュリウスに近づくためにも、彼が愛用していたものに類似しているものを選ばせてもらった。
記憶の中に浮かぶ、金色の繊細な装飾が美しいまるで絵画を見ているかのようなそれは、そちら方面に疎いアーディルでもすぐに高価なものだとわかった。
なんでも、幼いころ実父に誕生日祝いとしてもらったのだという。
話をするジュリウスはとてもやわらかい表情をしていた。あんな顔は、これまで見たことがない。あの顔を思い出すと、今でも胸の中にあたたかい風が通ったかのような気持ちになるから不思議だ。
極東を離れる際、あらかたの荷物はまとめていたが、あの万年筆は持って行ったのだろうか。
『ジュリウスへ
先日のマルドゥーク掃討作戦、改めて無事に終わって何よりだ。久々にあんたのお小言が聞けなかったことだけが残念だな……なんて、冗談だ。あんたは相変わらず動きが洗練されていて、無駄がない。作戦前に時間を取らせて悪かったな。話せて良かった。体には気をつけろ。 アーディル』
いわゆる“朧月の咆哮”作戦の前夜、他のメンバーが寝静まった頃、アーディルはジュリウスと二人だけで話をした。濃紺の空を月と星が散らばる、静寂の時。互いの声が、やけにしっとりと、そしてゆるやかに耳に届いていた。何を話していたのだろうか、ぼんやりとしか覚えていない。話したいことはたくさんあった。聞きたいことも、もちろんあった。
今思えば、柄にもなく浮かれてしまっていたのだろう。重大な作戦前に不謹慎だということは承知していた。ましてやロミオのかたき討ちの意味合いも含まれている戦いの前に、個人の感情など邪魔になるだけ。
それでもジュリウスの金色の髪が夜風に揺れる度、美しく縁どられた瞳が自分を映す度、薄い唇が言葉を紡ぐ度—――己の立場も、肩書きも、今ここにいる使命も全て手からこぼしてしまいそうになる。焦燥感にも似た心がゆらぎ。だが、どこか心地良い。口元が自然とほころぶ。
ジュリウスは終始、とても穏やかな表情をしていた。
さすがに作戦の確認をしている時は厳粛な色が表に出ていたが、他の―――特にアーディル自身の話をしていた時が一番顕著だったように感じる。
迷った末に持ち込んだ、手に入れたばかりの万年筆。
―――良い物だな。
そう言って、ジュリウスは微笑んだ。
熱を孕んだ声音を、夜風が攫っていく。
『ジュリウスへ
このペンもようやく手に馴染んできたところだ。書き心地も良い。今では文字を書くことも楽しいとさえ思える。まさか、ペンひとつでここまで変わるとはな。先日、これを譲ってくれた店主に会いに行って来た。約束通り手紙を書いて行ったら、とても嬉しそうにしていた。お前とやりとりしていたことを思い出す。
体には十分気をつけろ。 アーディル』
以前、何かの本で読んだことがある。
手紙を書くという行為は相手のことを考える時間だ、と。
アーディルはベッドサイドの引き出しからひとつ、黒い箱を取り出した。端末と同じくらいの大きさのそれを開けると、いくつかの白い封筒が入っている。
ゆっくりと頭(かぶり)を振り、できあがったばかりの白を入れる。
ジュリウスは今、何をしているだろうか。
休息は取れているだろうか。
無理はしていないだろうか。
考えるほど、体の奥が脈打つ。
熱くて、痛くて、少しだけ虚しい。
顔が見たい。
声が聞きたい。
名前を呼んでほしい。
『お前が何を考えているのか、俺にはわからない。だが、何の為に行動しているのかは理解しているつもりだ。はき違えるな。もっと周りに目を向けろ。お前が針のむしろに座る必要はない』
今日は、極東支部がいつもより騒がしい――理由は明白だ。
フライアのクーデター、ジュリウスの独立宣言。
怒り、軽蔑、避難、諦念、惑乱。
様々な声が、至るところから聞こえてくる。大きな渦ができたかのような湿った空気に、胃がもたれそうになる。
どいつもこいつも、自分の気持ちを表に出しすぎだ。
『俺たちはお前を止める。なんとしてもだ。だから、一度殴られる準備をして待っていろ。俺たちを信じろ。必ず行く。俺を、待っていてくれ』
『頼む。妙なことだけは考えるな。俺たちが会いにいくまでは』
『お前に、俺たちの声は届いているか』
『お前に伝えたいことがある。聞いてほしい』
宛名のない手紙が増えていく。
白い便箋を見つめる時間が増えていく。
本当は、恐れていたのかもしれない。どこかで諦めてしまっていたのかもしれない。
ジュリウスを取り戻すことは不可能ではないか。取り戻したとしても、もう同じ道は歩むことはできないのではないか。
目的は同じはずなのに、遠く離れた彼は、まるで別の場所を見ているようで。
―――手紙を書くという行為は相手のことを考える時間だ。
初めてその言葉を見たときは、確かな幸福を感じた。
例え離れていても、手紙を書いていればジュリウスのことを想っていられる、繋がっている。そう思っていた。そう、思っていたはずなのに。
時間が過ぎていくにつれ、決して届くことのない手紙が増えていくにつれ、自分の気持ちがただの一方通行にすぎないことを思い知らされた―――否、本当はわかっていた。
わかっていても、いつか手紙と一緒にこの想いが届くと信じていたかった。
ジュリウスは、どんどん離れていく。
『あの時、本当は行くなと言いたかった。ずっと戦い続けることになっても構わない。お前の側にいれるなら。だが、お前はそれを望まないだろうな。本当に、強情なやつだ』
天に向かって伸びる白い大木。
ひとつの戦いが終わった証。
手を伸ばす、歩みを進める、届かない。
彼は、あの場所で戦っている。
たった一人で。
『こちらのことは気にするな。俺ろたちがお前の分も戦う。だからお前も、自分の想いの為に戦ってくれ』
『以前、お前に伝えたいことがあると言ったな。ここでなら書けると思ったが……』
紡がれた黒い文字は、今日も行儀良く白い紙に並んでいる。
我ながら上手くなったものだ。彼が言ったことは本当だった。
愛用している万年筆も、そろそろインクが少なくなってきたところだ。インクは貴重なものだから、どうしたものか。また、あの店主を訪ねてみようか。
なかなか続きが並ばない白い紙を撫でる。
今日は、もう書けそうにない。
小さく息を吐いて、これまた見慣れた黒い箱を取り出す。
蓋をしたままなんとなく横に振ってみると、ガサガサと紙がこすれる音が静かな部屋に響いた。ずいぶんと、増えたものだな。
中断した便箋を二つに折り、箱に入れた。
その上に、万年筆をそっと乗せた。
ゆっくりと蓋をする。
先ほどよりも重く感じる理由を、認めたくなかった。
唇が痛い。無意識に噛みしめていたようだ。
吐き捨てる息。胸が苦しい。
ゆっくりと、舌の上で空気を味わうように息を吸う。
「お前を、愛している……」
親愛なる、もう会えないあなたへ―――。