彼は夢に非ず、我は雪に非ず「ジュリウスは……死ぬならどう死にたい?」
アーディルからの唐突な問いだった。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
言葉が出てこない。
ここは戦場でもなければ、彼は瀕死の傷を負っているわけではない。
昼下がりのジュリウスの部屋。
榊の厚意で宛がわれた他の面々より広い空間を食後の微睡みが支配していた。
窓際のターミナルのすぐ横に置いたデスクで作業をするジュリウスと、対角線上にあるソファで端末を操作するアーディル。
報告書などの書類業務をこなしつつ、時おり他愛もない話をしていた中での発言。
今日の任務は珍しく午前中だけ、しかも格下の小型アラガミの掃討のみだった。数こそ多かったものの副隊長である彼を中心とした迅速な作戦の遂行で、こちらの被害はほぼ無いに等しい。
死を考えるような要因など、無いはずだ。
「……死にたいのか……」
ようやく絞り出した言葉は、ひどく弱々しい。言葉を発したという自覚さえ薄かった。ジュリウスは机上の資料を見つめたまま。
アーディルがどのような表情であのようなことを言ったのか、その瞳が何を映しているのか、わからない。
「そういうわけじゃない。それより、俺の質問に答えたらどうだ?」
そういうわけじゃない。
その答えを得ただけで安心できると思っていた。とりあえず否定さえしてくれれば、後ろを振り返ることができると思っていた。
否、ますます思考が定まらない。
体が固まったように動かない。
アーディルの声色は普段と変わらず淡々と、しかし己に対する自信に満ちたものだった。
彼の声はよく通る。声そのものに人を動かす力がある。ブラッドに課せられた人々の導き手という立場、それに相応しい素質を持っている。
仲間たちを過去のしがらみから解放し、個人のみならず隊としての戦力向上に大きく貢献した副隊長。
身内からはもちろん多くの人から慕われているアーディル・レイクロウ。
その彼が、その声で、死を問うてくる。
早く言えと、答えを促してくる。
戦場でどれだけ不利な状況に陥っても、後ろ向きな発言など一度たりともなかった。むしろ勝ち気な性格に火がつくのか、いつも以上に敵へ強気な態度をとっていたくらいだ。
いつのまにか穏やかな空気は消え失せ、刺すような冷たさが漂っている。
無数のか細い針が静まり返った空間に散らばっていて、少しでも動けばその全てがこちらに向かって来そうだ。
指先ひとつ動かせない。
呼吸の仕方さえわからなくなる。
暗くなったと錯覚を起こしそうな空気に、場違いな照明と窓からの光。
まるで自分の部屋じゃないみたいだ。
アーディルが端末を置いたと同時に大きく息を吐くのが後ろから聞こえた。
一向に答えが得られないことに痺れを切らしたのだろうか。溜め息とも感じられるそれが薄黒いもやになって鼓膜を冒す。
ゆっくりと、口を開く気配がした。
「俺はな、ジュリウス」
変わらない淡々とした声色。
なぜだろうか、アーディルが笑っているような気がする。
「真っ白な雪に埋もれて死にたい」
刹那、目の前に火花が飛び交った。
いつ振り向いたのか、いつ彼に近づいたのか、今この身に流れているのはどんな感情なのか、自身で少しも把握できないほど我を忘れ―――気がつくとアーディルの胸ぐらを掴んでいた。
このままどうするのかなんて考えはなく、ただ制服を掴む手に力を込めるだけ。
頭が、体が熱くて、内側に火山が存在しているかのようだ。
頭に血が上るとはこういうことか。はらりと舞い戻ってきた少しばかりの理性が語りかけてくる。
それを皮切りにようやく呼吸の仕方を思い出すと、体が急速に冷えていくのを感じた。
そして今自分がどんな顔をしているのか、客観的に理解することもできた。
眉間に皺を寄せ、言葉が出ずに小さく口を開けたまま乱れた息づかいを繰り返すジュリウスと、対照的に口角を上げて笑うアーディル。
彼の瞳には煽るような火が灯っており、まるでこちらの反応を楽しんでいるようだった。
ゆるやかに弧を描いた口元がそっと開かれる。
「降り積もった雪の上に寝転んで、そのまま雪に覆われて死にたい」
「……やめろ」
「ああ、吹雪じゃない方が良い。最期くらいゆっくり空を見ながら死にたいからな」
「やめるんだ、副隊長」
「誰もいない場所で、誰にも知られず、ひっそりと死に―――」
「黙れ!」
思えば、身内にここまで大声を出したのは初めてかもしれない。案の定、アーディルがほんのわずかに目を見開いて、驚いたような顔をしている。
しかし、それも一瞬のこと。
彼がやられたまま黙っているはずはなく、その涼やかな瞳を歪ませて意地悪く笑った。
怒っているのか、なんてわかりきったことを聞いてくる辺り、先ほどからこちらの神経を逆撫でしている自覚はあるようだ。無性に腹立たしい。
どうにかしてその表情をやめさせたかった。これでは自分だけが心を乱され、その言葉に悲観しているようではないか。彼が仲間の気持ちも、己の命でさえも蔑ろにしているようではないか。
そんなことは許さない。
あってはならない。
胸の痛みが段々と憤怒に変わり、無意識に歯を食いしばりながら掴んだ制服を自分の方へ寄せ、これでもかというくらい顔を近づけた。
アーディルは抵抗することもなく、瞳に挑発の火を灯したまま、怒りに震えるジュリウスをただまっすぐに見ている。
「お前には、目的があるはずだ。生き別れた妹を探すのはどうした」
初めて、アーディルの瞳がぐらついた。
過去を思い出すように遠い狭間にいた瞳に一瞬だけ憂愁が映るもすぐに消え、恨めしそうな表情でジュリウスを睨んでいる。
鋭利な視線。口にはしていないが、今この話題が出たことに対して彼が強い憤りを感じているのは確かだった。冷涼な瞳に怒りと悲しみが混ざり合い、紫色の炎を宿している。
そうだ、それで良い。馬鹿な考えは早く捨てるんだ。
「お前がそれを諦めるはずがない。……だから、発言を撤回しろ」
「……」
「アーディル!」
静寂が空気を染め上げた。
しん、と静まり返った昼下がりの部屋。
冷たい針も、二人分の感情の熱も消え失せ、まるで時が止まったかのように無が全てを支配している。
ジュリウスはその何もない中でひたすら目の前の男を見つめ続けた。
アーディルは頭(こうべ)を垂らして唇を噛みしめている。わずかにだが、小刻みに震わしながら。
何も言わない彼に、今度はこちらが痺れを切らす番だった。
何か言ったらどうだ。彼がそうしたように淡々と音を発しようとして―――言葉を失った。
再び見つめ返してきたアーディルの瞳が、揺れている。
つい先ほどまで轟々と燃えていた炎は色を無くし、今にも消え入りそうなほど弱々しいく、苦しそうに眉間に皺を寄せ、それでも口元に弧を描こうとしているが、それはあまりにも歪で。
いつもは凜としている姿からは想像もできないほど、泣くのを我慢する幼い子どものような不安定で痛々しい表情。
困惑。今の正直な気持ちだった。
こんなアーディルは、今まで見たことがない。
あの強い彼が、弱っている。必死に虚勢をはろうとしている。
目の前にある事実を受け止め切れない。
心を太い蔓に絡めとられて身動きがとれない。
アーディルの口が小さく動いた。力のない音が耳に届く。
「このまま戦い続けて……俺たちはどこに行くんだ?」
鈍器で頭を打たれたかのようだった。
絡みついた蔓にそのまま心臓を止められたのかと思った。
ただ、見つめることしかできなかった。
孤独にすがりついているような、アーディルの顔を。
何か言わなければ。
何か、慰める言葉を。奮い立たせる言葉を。弱さを吹き飛ばす言葉を。
ジュリウスにはわからなかった。なぜ、アーディルがこんなことを言うのか。
思考がぐちゃぐちゃになるどころかバラバラに割れて、なんとかして破片を掴もうとしても手に取った瞬間に粉々になってしまう。
サラサラとこぼれ落ち、埋もれ、芽吹く。
やがて、一つの思惑が花開いた。
―――いつからそんなことを考えていた?
―――もしかすると、ずっと感じていたのか?
―――俺たちが思っている以上に、アーディルという人間は弱さを抱えた人間だったのか?
知らない。知らない。知らない。
こんなことを言うアーディル・レイクロウは、知らない。
「お前は……誰だ?」
火が消えた。
花が枯れた。
静寂が息絶えた。
気がついた時にはもう、遅かった。
アーディルは笑っている。
心底おかしいといった様子で、声に出して笑っている。
「随分と、ひどい言い草だな」
淡々とした声色。
そこには何もなかった。ジュリウスへの非難も、己の発言への後悔も。
ただ“いつものアーディル”がそこにはいた。
紛れもなく、求めていた彼の姿だった。
体から一気に力が抜けていく。アーディルもそれに気がついたのか、ジュリウスの手に触れると「いい加減に離せ」と言いながらやんわりと押し戻してきた。行き場をなくした手は虚空を掴むこともなく、ダラリと体の横へ戻ってくる。
絡み合う視線。
アーディルは目を細めてはいるが、その瞳には何も映していないように思えた。どこか、果てしなく遠い場所を探しているかのようだった。
彼は自身が持ち寄った端末と資料を一つの束になるようにまとめると静かに立ち上がり、ジュリウスに背を向けた。残りの業務は自室でやるのだという。
震える声で小さく名前を呼ぶと、どうしたと短い返事。
「……すまない」
それしか言えない自分を罰してやりたくなった。
アーディルは振り返らない。
「何に対して謝っているんだ?」
「俺は、お前のことを何ひとつわかっていなかった。……隊長として、恥ずべきことだと思っている」
「……ハッ。真面目な奴だな。全部冗談だ。あんたが気にすることなんて、何もない」
「しかし―――」
「くどいぞ。……邪魔したな、ジュリウス隊長」
遠ざかっていく背中。
頼もしいはずのそれがなんだかとても脆く見えて、思わず大声で名前を呼んだ。
歩みが止められる。
今度は、返事はなかった。
「一つだけ聞かせてくれ。お前は、なぜ神機使いになる道を選んだ?」
「……力が欲しかった。それだけだ」
アーディルの姿が扉で完全に見えなくなると同時に、ジュリウスは糸が切られたかのように膝から崩れ落ちた。
一人残された空っぽな体に、後悔と沈痛が注がれていく。
吐き出してしまいたい。だが、それは許されない。
胸を押さえつければ心臓がドクドクと音を立てている。その音だけが、自分とこの世を繋ぎ止めている唯一のものに思えて、もっと聞きたくなって、目を閉じた。
灰色の空の下、白い雪に体を覆われたまま静かに微笑むアーディルの姿が浮かぶ。
ああ、今なら望む最期について答えられそうな気がする。
それを伝えたら、お前は少しでも許してくれるだろうか。