移り香ジュリウスが自らの戦いを選択してから早数ヶ月―――緊迫状態にあった極東支部もいつもの様子を取り戻しつつあった。
そんなある日の夕暮れ時、アナグラ全体がなんだか浮き足立っている。特に、女性の明るい声が多い気がする。
なんでも本部の研究員が神機使い用の香水を持参しているのだとか。
アラガミの注意を操作するフェロモン系アイテムを応用し開発され、一般的なものとは違い持続時間は30分程度。閉鎖的な空間での使用を考慮して香りは広がりにくく、余韻もほぼ完全に残らないという。
開発班曰く、職務上香りを身にまとうことが許されない神機使いでも気軽に使えることができ、気が滅入りがちな戦いの日々に少しでも潤いを与えたい。
まだ試作段階だが、実用的なデータを集めるべく各支部を訪問し、気に入ったものがあればサンプルとして手渡しているようだ。
言われてみれば、今日すれ違い際に花や柑橘類の香りがしたことがあったような。
やたらと気分の上がっている人間が多いが、アーディル自身は香水にあまり興味はない。
しかし、同じように心が弾んだ様子のナナとシエルに誘われ、試作品があるというラウンジへ来ていた。
窓際のテーブルに白衣に身を包んだ極東出身と思われる女性。そして男性用、女性用、性別問わずに分けられたそれぞれ10種類ほどの小さな小瓶。ここだけが花畑かと思うくらいに、様々な色がある。
「うわあ、いっぱいあって迷っちゃうね」
ナナが大きな瞳をキラキラさせながら次々と香りを比べている。正直、彼女がこの手のものに興味があることに、いささか驚いてしまい、言葉を選びつつ尋ねてみた。
「香水、好きなのか?」
「んーよくわかんないけど、こんなにいっぱいあったら、いつかはおでんパン香水とかできるのかなーって!」
満面の笑み。ただでさえナナらしい発言、肩を震わす研究員の女性に加え、シエルが真剣な表情で「それは、とてもお腹が空く香水ですね」なんて言うものだから、思わず笑ってしまった。当の本人は少し照れくさそうにしながらもちゃっかりとリクエストすると―――頼まれた女性もしっかり頷いていた―――香水選びを再開する。
「シエル、お前も選んできたらどうだ?」
「そうですね、せっかくですし。君は、いいのですか?」
「……俺は後で選ぶさ」
楽しそうに感想を言い合う二人が、この時だけは普通の少女に見える。それが戦う自分であり続けるための道具を選んでいるのだとしても、今はこれで良いと思う。
アーディルは人知れず笑みをこぼした。
「あっ! 私これにする!」
ナナが選んだのは濃いピンクの小瓶。
瑞々しいベリーがはじけたような甘酸っぱい香り。少女時代のきらめきを詰め込んだような甘さの中に、一瞬ピリリとしたパンチがあって、気分が高揚してくる。
「お前によく合うな」
「えへへっ。そうでしょ、そうでしょ!」
「隊長! あの、私はこちらにしました」
頬を染めたシエルが負けじと差し出してきたのは、透明な小瓶。角度を変えると、うっすら空色にも見える。
清楚な花にほんのりとやわらかい甘さが含まれた、繊細な香り。まるで実直な少女が見つけた小さな宝物のようで、彼女が編入されてから今までのことを思い出した。
頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細めるシエル。本当に良い顔をするようになった。
「さて、それでは隊長さんは何にしますか?」
研究員の女性が嬉々とした視線を向けてくる。後で選ぶとは言ったものの、これといって普段から好みの香りがあるわけではないし、実際に使うかどうかもわからない。
やはり断ろうと口を開けば、大きく首を横に振られてしまった。
今日初めて会った目の前の女性が、確固たる意志を持って見つめてくる。
「いいえ、あなたにこそ選んでほしいのです。……フライアでのこと、とても大変だったのは私のような末端の研究員でも知っています。でも、だからこそ、一番の功績者であるあなたに、どんな形であれ休んでほしいのです。この香水が、あなたの力になれるはずです! 騙されたと思って、ほらほら!」
あまりの勢いに一瞬だけたじろいでしまった。今回は折れるしかなさそうだ。
「あんた、人が良いんだな……」
アーディルが観念したとでも言うように大袈裟に肩をすくめて見せると、女性はもちろん、ナナとシエルまで笑顔になった。
これはこれで、悪い気はしない。
さて、何を選ぶか。
できれば強すぎない香りが良いのだが。
アーディルの目が、ひとつの小瓶に止まる。
淡い黄色はどこか品が良く、照明に透かすとまるで光が閉じ込められているようで美しい。
上品かつ高貴な香り。しかしそれを誇示するわけでもなく、花びらがそっと手の平から離れていくような、淡いぬくもり。
ーーー俺は、この香りを知っている。
何も言わないアーディルを不思議に思ったのか、ナナが一言断りながら試作品を取り、自らの顔に近づける。
「良い匂いー! ほら、シエルちゃんも!」
「なんだか……優しい気持ちになります」
「これ、金木犀の匂いに似てるね」
聞いたことのない名前だった。
無意識の内にぽつりと呟くと、ナナが得意気に口を開く。
「うん。オレンジ色の小さい花がいっぱい咲く木で、すっごく甘くて良い匂いがするんだー!」
「よくおわかりで! 確かにこれは、金木犀の花をイメージして作りました。もっとも、本物は香りが強すぎるので、ちょっとアレンジしてますが。」
「そうか。……良い香りだな」
「金木犀の香りにはリラックス効果もあるんですよ! 隊長さんにぴったりかもしれませんね!」
確かに、どこか気持ちが安らいでくる。
それと同時に、言い様のない焦燥と渇望が渦巻いていることからアーディルは目を反らした。
「ところで、金木犀の花言葉は皆さんご存知ですか?」
金木犀の花言葉は謙遜、気高い人。
そして―――初恋、誘惑。
自室に戻ったのは夜の始め頃だった。
手には、淡い黄色の液体が入った小さなアトマイザー。迷いに迷ったが、結局もらってしまった。
空っぽなベッドはあれから埋まることのないまま、数えきれない夜を越えた。それでも、ふと抑えようのない喪失感に襲われることがある。
ジュリウスからは、様々なものを託された。
ブラッドの仲間、こちら側の戦い、彼自身の意志。
立ち止まることが許されない身であるのにも関わらず、ずっと心の中ではくすぶっているばかり。
こんな俺を見たら、お前は何て言うのだろうか。
自嘲気味に笑みをこぼしても、心は晴れることはない。暗い海に身を投げ出され、己の未練に溺れていく。胸が苦しい。
―――金木犀の香りにはリラックス効果もあるんですよ!
凪いだ水面に突然大きな気泡が浮かび上がった。そんな一瞬の閃き。
アーディルは一度、手の中のものへ目をやると、そのまま取り憑かれたように整えられたベッドに向かい、ゆっくり3回、それを噴射した。
品のある花の、懐かしい香り。
静寂の空間が一気に彩られて―――我に返った。
「……馬鹿馬鹿しい!」
吐き捨てた言葉に力はない。
胸の痛みから逃げるようにベッドに横たわれば、甘い香りに全身を包まれている感覚に陥る。
こんなことしても、焦がれる想いが強くなるだけなのに。空しいだけなのに。
目を閉じれば、濡れた瞳を思い出す。
シーツを握りしめれば、混ざり合った体温を思い出す。
耳をふさげば、交わした言葉を思い出す。
唇に触れれば、最後の口づけを思い出す。
何度夜を越えても忘れられない。忘れられるわけがない。
「……本当に、良い香りだ」
苦悶と、どこか満たされたような安らぎ。二つが大きな波となってぶつかり合う。
優しい金色の海。辿り着く場所もわからない船出。一人の夜。
いっそ飲み込まれてしまえば、楽だろうな。
昨日はあのまま眠ってしまったらしく、目が覚めるともう朝だった。
いつもより体が軽い。それに、頭もすっきりしている。
録に夕食も摂らずに眠ってしまったため、さすがに空腹だ。足早にラウンジへ向かおうと一度エントランスまで降りると、ターミナルを操作するナナと出くわした。
彼女はアーディルを見るや否や、にこにこしながら昨日の香水をつけているかと聞いてきた。
つけていない、と嘘偽りなく答えれば目をぱちくりさせて首をかしげるナナ。確かに、金木犀の香りを感じたのだという。
アーディルは目を細めた。
驚くほどやわらかい表情をしているのが、自分でもわかってしまう。
「香りが移ったのかもしれないな」
そして、ずっと消えなければいい。