神父と淫魔 №13 伸ばした手は届かなかった。
すでに扶揺の背が見えなくなって大分経つのに手を上げたまま南風は立ち尽くしていた。
漸く諦めがついて、のろのろと腕を下ろし、南風は途方にくれる。
具合の悪くなった扶揺の様子が突然変わって……そこまで思いだして、南風は自分の唇に触れた。
「扶揺……」
眉尻を下げて四阿の机に置いてあったお弁当を入れていたピクニックバスケットを持って、とぼとぼと家路についた。
「ただいま」
「お帰り」
教会の裏手にある住居の扉から南風の声が聞こえたので、たまたま玄関近くの台所に居た風信が顔をだす。
「……何かあったのか?」
ひどく暗い顔で肩を落としている南風に風信は怪訝な顔をした。
朝から張り切って作った昼食用のサンドイッチをピクニックバスケットに詰め込んで、扶揺を庭園に誘うんだと嬉しそうにうきうきしながら出かけていった弟が、まるで雨に打たれた仔犬のように項垂れている。
「どうした、扶揺と喧嘩でもしたのか?」
風信の問いに南風は首を横に振ると
「兄さん……」
ぽろぽろと涙をこぼした。
「何があった」
南風の様子に渋い顔をする。
「扶揺が」
南風は涙を手で拭いながらぼそぼそと庭園であったことを話し出した。
「そうか、びっくりしたな」
そう言って南風の頭を撫でる。
「子供扱いしないで欲しい」
不服そうに言いながら、それでも風信の手を払おうとはしない。
「まぁ、大体状況は分かった。お前は何も悪く無いから気にするな」
「そうはいかないよ。俺が扶揺の具合の悪いのに気がつかないで連れ出したせいで……」
「いや、それは違う」
「えっ?」
「扶揺は目算を誤ったんだ」
腕を組んだ風信の確信がある様子に南風は難しい顔をした。
「兄さんは何か知っているの?」
「……まぁそうだな」
「じゃぁ、扶揺になにがあった教えて欲しい」
「それは構わないが……お前は後悔するぞ」
「なんで?」
「俺から聞くんじゃ無くて、扶揺から聞けば良かったってな」
風信の言葉に南風は大きく目を見開いた。
「それでも良いなら教えてやるが……どうする?」
「…………やっぱりいい。兄さんの言うとおり扶揺から聞く」
「そうしろ」
風信はそれだけ言うと台所に向かった。しばらくしてカップを二つもって戻ってくると右手に持っていたカップを差し出した。
南風はそれを受け取って口をつけた。
少し熱めのスープだった。
「温かい」
冬でもないのに、身体がすっかり冷えていたことに南風は今更気がついた。
少し時間をかけて南風がスープを飲み終わると、風信が空になったカップを取り上げる。
「具合は悪くないか」
「なんで? 俺は全然どこも悪く無いよ?」
兄が何故そんな事を聞いてくるのか分からなくて、具合が悪いのは扶揺なのにと南風は首を傾げた。
「今日の夕飯は俺が作るから、食事が出来るまで横になってろ」
「本当に具合は悪くないんだって」
「いいから、俺の言うことをきけ」
少し強めの口調で言われて南風は肩を竦めた。
「分かった」
まだ何か言いたそうにしながら南風は風信に背を向けた。
「南風」
呼ばれて振り返る。兄が何やら難しい顔で自分を見ている。
「どうかした?」
小首を傾げる南風に風信は小さくため息をついた。
「お前、扶揺が好きか?」
『好きだよ』と返そうとして南風はその言葉を飲み込んだ。
兄の目が怖いほど見据えてくる。
南風が答えようとした『好き』とは違う意味なのだと察した。
言いよどむ南風に風信は苦笑した。
「まぁ、いい、早く部屋で休め」
「うん」
引き留めたのは兄さんなのにと思いながら南風は自室へ続く階段を上った。
定期的に修繕されて綺麗な教会とちがって隣接する住居は古ぼけている。南風の部屋の扉は軋んで音を立てながら開いた。
そのまままっすぐベッドへ近づくと南風は着替えもせずに飛び込むように横になった。思いだして靴から足を引き抜いて、靴をベッドの脇へ落とす。
仰向けになって少しの間天井を見つめてから右腕で目を覆った。
さっきまで平気だったはずが、なぜだかひどく身体が重い。
――お前、扶揺が好きか?――
南風は風信に問われた事を思いだしていた。
兄の言う好きが『友情』ではなく『恋情』かと言うことだと南風は理解した。
――どうなんだろう――
ぼんやりと扶揺の事を思いだす。
――扶揺と一緒に居るのは楽しいし、これからも一緒に居たい。近くに居て欲しい――
その気持ちが何というものかは南風にはまだよく分からない。
そっと自分の唇に触れる。
今、確実にわかっている事は、扶揺としたキスは嫌では無かったと言うことだけだった。
コンコンコンと扉を叩く音で南風は目が覚めた。
いつの間にか眠っていたらしい。
コンコンコンともう一度音がする。
南風は慌てて飛び起きると扉を開いた。風信が眉間に皺を寄せて立っていた。
「ごめん兄さん、寝てた」
南風が申し訳なさそうに言うと、風信は少しの間南風の顔を見てから頭に手を置いた。
「顔色がよくなった」
「え?」
「夕飯が出来たぞ」
安心したような風信の様子に、南風は自覚は無かったが具合が悪そうに見えていたんだなと知った。
歩き出した風信の背を追って、
「兄さん」
と声をかけると、風信は立ち止まって振り返った。
「扶揺がなんで急にあんなことしたのか気になるんだ」
「そうか」
「それと、俺は扶揺の事多分好きなんだと思う」
「随分ぼんやりした答えだな」
「正直よくわからないんだ」
「そうか」
「だから、確かめようと思う」
「確かめる?」
「うん、明日扶揺に会いに行ってくる」