神父と淫魔 №16「何が『思いだせ』だ」
心あたりの無いことを責められて慕情はひどく不愉快に思って道を歩いていた。
――大体あいつはいつもそうだ。勝手に動いて、勝手に進めて、そのくせ私のせいみたいに言う――
そこまで思って慕情は咄嗟に足を止めて振り返った。
「いつも……?」
思わず呟いて風信と別れた裏道へ続く建物と建物の間の暗がりに目をやる。
自分でそう思ったのに何故そんな風に思ったのか理解出来ず慕情は思わず口を右手で覆った。
何も思い出せないし、心あたりもない。ただ違和感が何かあると訴えている。
その違和感が思い出せないような何かに対してには大きすぎて、でもそれほどの大事なら忘れるわけはない。何がどうなっているのかどう受け止めてどう考えればいいのか、ただ、風信に会いたくないのに離れがたい気持ちにもなって、自分の中の矛盾に慕情は混乱した。
忘れたくない人がいた。
ずっと一緒に居たいと愛していると気付いた時にはもう今生の別れだった。
かの人は必ず戻ってくると言った。
それを信じてずっと待っていた。
いつ再会できるのか、ひたすら待って数百年。
悪魔といえど長く生きていけば記憶は薄れていく。
いつの間にか声が思い出せなくなって。
いつの間にか顔も思い出せなくなって。
それに気付いた時、一人で待つ孤独に耐えられなくなった。
それでも誰か別の人間と共に居ることも考えられず自分の分身を作った。
分身に『扶揺』と名付けて、『弟』とした。
兄弟二人で時を過ごす。
けれど孤独は薄れはしても無くならなかった。
さらに数百年たって共に過ごした僅かな時間の記憶も思い出せなくなったのに、かの人への思いだけは薄れなくて。
会いたいと思えば思うほど寂しくて弟を大事にすることで寂しさを埋めようとした。
己の分身とはいえ、時を経れば個としての存在となる。生まれたばかりの頃は慕情そのものだったが今ではもう似てはいるが全くの別人だ。
自分ではない扶揺と共に過ごした時間は寂しさを忘れることは出来なかったが、孤独を紛らわせてくれた。
かの人とは違う思いで慕情は扶揺を愛している。
だから扶揺を助けるためなら何だってする。
例えそれが己の身を危険にさらすことになっても。
「慕情!」
裏道を歩いていたら風信に腕を掴まれた。
すっかり既定路線になっている。
「またか、いい加減にしろ暇人神父。神父のストーカーなんて最低だ気持ち悪い」
「ずいぶんな言われようだ」
「自覚が無いのか、最悪だ」
心底軽蔑した目で風信を見る。すると風信の表情があからさまに暗くなった。
「今、喰らったら危険だ」
慕情は思わず目を見開いた。
「さっぱり意味が分からないな」
「恍けなくてもいい。俺がお前の正体を知ってる事に気付いているのは分かっている」
一瞬、鎌をかけられているのかと思ったがどうやら違うらしい。
「……分かっているのに喰らうなと? お前は私に死ねと言っているのか?」
「違う、そうじゃない」
そう言って、風信は腕を引いて慕情を抱きとめた。
「顔色があまり良くないな」
「誰のせいだ」
眉間に皺を寄せる風信に慕情は刺々しく応える。
「俺のせいか」
言って風信は慕情の頭に手をやって慕情の唇に自分のそれを押し当てた。
「……っ!」
顔を背けようにも頭を押さえられていてできない。強く閉じた唇を舌でこじ開けられる。差し込まれた舌を噛みきってやろうかと思った瞬間、風信の唾液が流れ込んできた。
濃い精気を含んだ唾液を空腹の慕情には拒めなかった。
舌を擦り合わせ口腔をくすぐられる快感と甘露のような唾液に慕情は我を忘れた。
満たされてはいないが飢えているほどでもなくなった頃、慕情は我に返って身体を押しのけようとしても腰に回されている腕も、後頭部を支える手もびくともしない。
好き勝手にされてることに腹が立って、今度こそ風信の舌に歯を立てた。
当然噛みきられる前に風信は顔を離す。
唇を濡らす血の混じった唾液を親指で拭うとその手で睨み付けてくる慕情の頬を包んだ。
「なぁ、慕情。誰かを探すのじゃなく、俺にしておけ」
「はぁ?」
「俺の精気なら……。俺一人からだけでお前を満たしてやれる」
確かにそうだろうと慕情は思う。ほんの数分の口づけで普通の人間一人が動けなくなるほどの精気を得たのと同じぐらいだったからだ。
けれど。
「それでお前に何の得がある」
「損得の話じゃない」
「神父様は悪魔にも慈善を施すと?」
「そうじゃない」
「じゃあ何だと言うんだ」
「俺はお前を守りたいだけだ」
思ってもいなかった言葉に慕情は思わず笑い声を上げた。
「祓魔師のお前が悪魔の私を守りたい? それを信じろと?」
「信じてくれ」
「理由は?」
慕情に問われて口を開いた風信だったが数度口を開いたり閉じたりしただけだった。
「くそたれっ。これも言えないのか」
苦々しく顔を歪める風信に慕情は冷めた目を向けた。
それから風信の胸を強く拳で打つ。
痛みに風信の腕の力が抜けたところで慕情は身体を離した。
「祓魔師に守られ無ければならないほど私は弱くない」
「そういう話じゃない」
風信が伸ばしてくる手を慕情は払う。
「うるさい!」
まだ追いすがろうとする手を避けて上空へ飛んだ。
少し離れた所で黒い飛膜の翼で浮いている。
「もういい。お前と話すのはうんざりだ」
それだけ言って風信に背を向けると慕情の姿は掻き消えた。
玄関の扉が閉まる音が背後からした。
風信が眉間に皺を寄せて扉の前から動かないでいると、
「お帰り」
と、台所から眉じりを下げた南風が顔をだした。
心配そうでいてなにやらしょんぼりしている弟に風信はますます眉間の皺を深くする。
「何かあったのか?」
風信が訊ねると、南風は風信の側まで来て
「扶揺に会わせてもらえなかった」
と風信の服を掴んで言った。
扶揺の様子から長らく精気を摂取していないのは明らかだったし、南風から聞いた話ではおそらく限界が近い。そんな扶揺に慕情が自分の精気を分け与えているのは簡単に想像がついた。
会うたびに慕情が弱っていっていることにも気付いていた。
二人の命を繋ぐためにも誰かから精気を奪わなければならない。
だがそれは見逃してやれない。
――今、俺以外の誰かから精気を奪えばこの街に慕情がいることが教会に知られてしまう――
一月前に風信の元に届いた手紙。それはこの街と近隣のいくつかの街のどこかに悪魔が潜んでいるという知らせだった。
目的は慕情と扶揺だ。
二人は長く生きているから当然多くの被害者がいて、教会も二人を滅するのを重要視している。
事実、手紙には慕情達を見つけ次第殺すように書かれていた。
今、近隣の街には祓魔師がいる。
幸いこの街にいる祓魔師は風信だけだ。慕情が大人しくしていれば匿ってやれる。
さっき注いだ精気で凌いで欲しい。足りないなら自分から奪って欲しいと風信は思わずにはいられなかった。
それに、慕情が自分以外の誰かと交わるかと思うと気が狂いそうだった。
――頼むから……――
自分に縋る南風の頭を撫でながら、どうしても拭えない悪い予感に風信はきつく目を閉じた。