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    藍河響

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    藍河響

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    2021年頒布、本編のみWeb再録。
    現パロ社会人杢月小説。
    一度別れた2人が寄りを戻すまでとその後を収録。
    大人のモダモダをどうぞ。
    ハピエンです。



    当時お手に取って下さった方、誠にありがとうございます。

    金継ぎの器【人物紹介】

    月島基(34)
    金神商事第七部署主任。施設育ち。鶴見に引き取られ養子となる。名字は敢えて変えていない。趣味はジム通い。気苦労の星に生まれた。

    菊田杢太郎(41)
    金神商事第七部署課長。弟がいる。珈琲好きで自宅では豆から挽いて淹れている。女性社員からモテにモテている色男。

    鶴見篤四郎(秘密)
    金神商事社長。月島の養父。面白い事が好きでよく月島に無茶ぶりをする。人誑しの天才でもある。

    有古力松(27)
    菊田、月島の部下の一人。菊田によく揶揄われる苦労人。その睫毛の密度と長さに女性社員から羨ましがられ、先日爪楊枝が乗るか遊ばれていた。

























    _#1_ ほろ苦い大人たち




    ────『……想いを伝えましょう!~♪……』
    食堂のテレビから流れる音に顔を上げると、可愛らしい女の子が赤いエプロンを着てチョコを持ち、笑っているコマーシャルがやっていた。
    なるほど、社内の女性陣がめかしこんでいたのはこの為か。
    金神商事、第七部署主任月島は昼飯のカツ丼を口いっぱいに頬張り食堂内を見回す。
    あちこちで女性社員同士が可愛らしい箱を送り合い、その場でキャッキャとはしゃいでいるのが見える。
    心無しか普段より爪やら顔やらに気合いが入ってる気がするが、まぁ仕事をキチンとしてくれれば別に良い。
    「ご馳走様。」
    さっさと昼飯を胃におさめ、食器を返却口へ戻し部署に帰ろうと足を向けたその時──。
    食堂の入り口から聞こえてきた声に気付き、それを認識した瞬間、ぐるりと回れ右を綺麗にキメてトイレへと体を滑り込ます。

    なんで、なんで貴方が食堂なんかに来るんですか!

    トイレの入り口に身を潜め、その人がこちらに背を向けるのを息を殺して待つ。
    「いやぁー、たまには食堂もいいな。有古は何にするんだ?俺にもオススメ教えてくれよ。」
    その人──菊田課長は部下の有古と和やかにメニューを選んでいる。
    菊田は普段食堂を使わず外でランチをとる人だ。お洒落なカフェや知る人ぞ知るという蕎麦屋など大人の余裕感じる佇まいは、店員もウットリとしてしまう姿なのだ。
    何故、月島がその姿を知っているのかというと。

    二人は一年前まで付き合っていた、所謂恋人同士だったのだ。

    そう、恋人同士、だった。

    別れた原因は仕事の忙しさに心の余裕が無くなり、些細な事で苛々したり、中々時間が取れずお互い逢えなかったり、色んな事が重なっていたのだ。

    そして、何より、菊田はモテにモテるので。

    こんな自分には不釣り合いだと自信が持てず月島から無理やり別れを告げ、上司と部下という元の関係に戻ったのだ。
    仕事中なら割り切った対応が出来る。でも、今は休憩時間で菊田が来ない食堂と完全に気が弛んでいる状態では逢いたくない。
    「有古奢ってやるよ。遠慮せず好きなもん頼みな。」
    「は………、しかし…………。」
    「遠慮するなって。こんだけデカけりゃ食べないと保たんだろ。」
    有古の背中をバシバシと叩きながら笑う菊田の、仲睦まじい姿なんて、見たくも聞きたくもないのに。
    「………身の程知らず。」
    胸にドロドロとした物が湧いてきて、先程食べたカツ丼が口から出そうになる。

    何をそんなに嫌な気持ちを抱く必要があるのか。
    自分から別れたくせに。
    今更、そんな権利など無いのに。

    月島は一度キツく目を瞑り、深呼吸を一つする。
    ──ここは職場、仕事をする所、切り替えろ。
    「……よし。」
    仕事モードに切り替えた月島は、菊田達の声が遠のいた事を確認して気付かれないようにそっと食堂をあとにした。


    ◆◆◆◆◆◆


    「───はい、はい。有難う御座います。では、来週木曜日再度確認のお電話を。はい、失礼します。」
    食堂の出来事からずっと仕事に没頭していて、気づいたら定時から二時間も過ぎていた。
    部署内に残っている者は少なく、女性陣は一人も残っていなかった。
    「はぁ………。」
    流石に少し疲れたな。
    目頭をムニムニと揉むと酷使した目がいくらか和らいでいく。
    珈琲でも買ってくるか。
    月島はよいしょ、と掛け声を上げ立ち上がり、自販機コーナーへと向かった。
    「……ブラック、は止めておくか。」
    最近珈琲の飲み過ぎで胃が荒れてきたのを思い出し、せめてもとカフェオレを買おうとズボンのポケットをさぐるが財布が見当たらない。
    「あー………忘れた。」
    そういえば昼飯から帰ってきた時にデスクの引き出しに入れたような気がする。
    はぁ……、と思わず深い溜息をついてしまうがここ最近の忙しさと、今日の昼の出来事が原因なのは明らかである。仕方なくデスクに戻ろうと踵を返すと、そこには、今、一番逢いたくない人がいた。
    「なんだ月島、お前また財布忘れたのか。」
    「……菊田課長。」
    そう、菊田が背後に立っていたのだ。
    全く気付かなかったのは、それだけ疲れているのだろうか。

    逢いたくなかったのに………。

    そんな気持ちなど露知らず、菊田は月島越しに自販機へ小銭を何枚か入れ、ほら、と催促する。
    「好きなもん買いな。残業ばっかしてると体、壊すぞ。」
    「………。」
    しかし月島は体が固まってしまい動けないでいた。
    自分より頭一つ分と少し上から聞こえる、低く色気のある声に、付き合ってた頃から変わらない甘い大人の香りに、どうしようもなく昔を思い出してしまい動けないのだ。
    あの日無理やり別れてから一年。こんな至近距離で菊田と接する事はなかった。

    いや──、接しないようにしていたのに。

    「月島?」
    訝しむ声が聞こえてくる。早く、早く選ばないと。
    月島はやっとの思いで腕を動かし、カフェオレのボタンを押した。

    どうか、菊田が、この煩く鳴る鼓動に気付きませんように。

    動揺を悟られないよう殊更ゆっくりと取り出し口からカフェオレを取り、もう、今日はさっさと帰ってしまおうと、一箇所だけ衝撃でへこんだ表面を親指で撫でる。
    「有難う御座います。では失礼しまっ───!………なにか、御用ですか、菊田課長。」
    顔を見ずに素早く立ち去ろうと足を踏み出したが、菊田に腕を掴まれてしまい、退路を阻まれてしまった。
    それでも菊田の顔を見ることは出来なくて、他人行儀な言葉しか吐けない自分が物凄く矮小に感じて本当に嫌になる。
    「なぁ月島、今晩、付き合ってくれよ。」
    「………。」
    どうしてそんな甘い声を自分なんかに向けるのか。
    再び強ばる体はジワジワと、菊田杢太郎という男に侵食されている気がして仕方ない。
    その証拠に、掴まれた腕が熱くて熱くて適わないのだ。
    この大きく節ばった手に触れられたのは別れてから一年振りなのに、その体温がシャツ越しでも変わっていないのが分かる。この熱を忘れた事なんてない。

    だって、自分は、まだ、貴方の事を─────。

    いや、やめよう。
    とにかく、この場をどうにかしなくては。
    「……どちらへ行くんですか。」
    月島は掴まれた腕はそのままに、とりあえずこの後何処へ行くのか聞いてから対処しようと、努めて冷静な声で問い返す。
    「俺の家。」
    「はぁ?」
    間髪入れずに返された予期せぬ爆弾発言に先程の冷静さなど殴り捨て思わず顔を上げると、そこには昼間食堂で見た部下へ向ける優しい上司の顔は無く、一人のただの男が熱い目でこちらを見ていたのだ。
    「月島、なぁ、一度ちゃんと話がしたい。───ダメか?」
    そんな、大の大人がなぜ捨てられた子犬みたいに縋った声を出せるのか。
    月島はこの顔と声に弱いのだ。
    断ろうとする理性と、絆されそうになる本能が頭の中でせめぎ合い、どうしようかと掴まれた腕はそのままに、眉間に皺を寄せ喉奥でグゥと唸ってしまう。
    「なにもしない。ただ、話がしたいだけだ。………基、頼む。」
    「……ずるいですね。貴方は本当に。」

    名前なんて、体を繋げた時にしか呼ばなかったクセに。
    それに絆される自分も、本当に馬鹿だ。

    月島は苦笑を浮かべ、自分を掴んでいる大きな男の手に手を重ねて少し力をこめて離すよう促す。
    「後片付けをしてきます。駐車場に向かえばいいですか?」
    ──そう、昔と同じ。
    「あぁ。先に車の中で待ってる。」
    ──あの頃毎日交わしたやり取り。
    菊田は掴んでいた手を離し、和らいだ表情と声を残し去っていった。


    さて、どうしようか。
    月島は手の中のカフェオレを転がし考える。へこんでしまった所がなんだか指にしっくりきて、そこを基点に右回り左回りコロコロと。
    菊田から今更なんの話があるというのだろう。
    もう一年も前に自分達の関係は終わってる。──無理やり終わらせたが正しいのだが──それでもまだ菊田への恋慕は燻っていて、完全には消し切れていない自分が居るのも分かってる。
    先程のやり取りで絆されてしまう程に。
    「はぁ………、面倒臭い。」

    もう思い悩むのは飽きた。一年前、別れる前に散々悩んだんだ。
    いい加減、もう嫌だ。
    どうにでもなればいい。

    月島はなかばヤケクソにカフェオレを飲み干すと、デスクへと荷物を取りに戻り、一年ぶりに地下の駐車場へと続く道を歩いていった。


    ◆◆◆◆◆◆


    菊田の運転する車は相変わらず静かで乗り心地が良かった。
    左ハンドルを握る菊田の姿を助手席から見たら、女性陣はイチコロであろう。
    車に乗る前、もう恋人ではないので後部座席へ乗ろうとした月島と、助手席に座らせようとする菊田で一悶着あったが、後部座席に荷物があり乗れないという菊田の手に腰を抱かれ、無理やり助手席に収められた月島は若干機嫌が悪い。

    またそうやって女扱いする。

    月島は女性扱いしてくる菊田の態度が好きではない。
    自分は男だ。
    女として扱うのなら正真正銘女性と付き合えばいい、と別れる前にした喧嘩で散々言ってやった記憶が出てくる。
    ムスッとした顔そのままに、窓に映る運転姿の菊田を見る。

    どことなく緊張して見えるのは、気のせいか…?
    なにを緊張する事があるのか、今更。

    月島は流れる街並みに目を向け、カップルの姿が多い事に気づく。皆何やら手提げ袋を持っていたり、少しばかり粧しこんでこれからディナーでも行くのだろう。
    あぁそうか、世の中はバレンタインデーと昼間テレビで言ってたな。
    じゃぁ後部座席の荷物は、女性社員から貰った贈り物たち、ということか。
    なんだ、相変わらずモテてるじゃないか。
    今晩だって、何が悲しくて男の自分なんかを家に上げるのだろうか。
    部下達が噂してるマドンナでも、受付けの可愛い女性でも、選り取りみどりだろうに。
    暗い気持ちがどんどん全身を襲ってきて、窓に映り込む情けなくて醜い自分の顔を見たくなくて、月島はキツく両目を瞑る。

    もう、ツラい思いはしたくない。

    月島は暖かい車内と気持ちの良い揺れ、過度な疲労がたたり、そのままウトウトと眠りに落ちていった。


    菊田はそんな月島の一部始終を横目で見ており、小さく寝息をたてる体に自分のコートをかけてやる。
    この一年、菊田はずっと月島の事を想っていた。
    あの日、無理やり月島から別れを告げられ、あれよあれよと言う間に深い溝を作られてしまい、社内でも必要最低限しか接する事が出来なかった。
    恐らく月島から意図的に避けられていたんだろう。
    そういう事に関しては何故かこの男は上手くて、捕まえるのに一年もかかってしまったのだ。
    今日だって、食堂のトイレに隠れてそそくさと逃げていったのも実は気付いていたのだ。
    そんなに鉢合わせたくないのかと、情けなくヘコんだ自分に有古が唐揚げを一つ分けてくれた時は、思わず涙を浮かべてしまった。
    菊田は月島とどうしても話がしたかった。

    自分は、まだ、月島の事を想っているんだと、伝えたい。

    卑怯な手を使ったことは自覚している。
    基、と名前を呼んだ時の、揺らめいだ海松色の瞳が頭から離れない。
    自宅まであと少し。
    この愛しい寝顔を奪わないように、ゆっくり殊更丁寧に車を走らせて行った。


    ◆◆◆◆◆


    「月島、月島。着いたぞ。」
    「ん……。」
    揺すられる感触にゆっくりと目を開けると、助手席のドアを開けて立つ菊田が見える。
    ふわっと菊田の香水が鼻を擽り、上着が掛けられていた事に気づき複雑な気持ちになる。
    「すみません、お返しします。」
    「あぁ、疲れてたのに悪いな。降りれるか?」
    「はい……。大丈夫です。」
    上着を返すと、そのまま羽織る菊田のなんとも言えない色気に思わず下を向いてしまう。
    寝起きにコレは刺激が強すぎるな。
    顔が赤くなっていないだろうか。
    そんな一人どぎまぎしている月島を上から見つめる菊田の顔は、男の顔になっていた。

    なぁ月島、なんで項まで赤くなってんだ。
    どうして、そんな反応してんだ。
    ──期待、してもいいのか。

    「……菊田、さん?」
    「ん?どうした、寒いから早く部屋に行こう。」
    月島はドア横から動く気配のない菊田を不審に思い恐る恐ると顔を向けるが、菊田は先程まで醸し出していた雰囲気をパッと消し去り、変わりに普段と変わらない優しい笑みを浮かべ車から降りるよう促す。

    警戒心の強い月島に悟られ、この場で逃げられたらたまったもんじゃないからな。

    そして何も疑うことなく、そうですか、と鞄を持ち、自分の後ろをちゃんと着いてくる月島の姿を確認し、自宅へと歩いて行った。


    ◆◆◆◆◆


    ─────ガチャン。

    久しぶに訪れる菊田の部屋は、相変わらずモダンなデザインで散らかること無く整っていた。
    「そこ、座っててくれ。」
    指定された所は、かつて自分が座っていた定位置で。キッチンへ向かった菊田の姿を横目になんともいえない気持ちになるが、家主の言うことには素直に従い座る。

    ───いったい何人の女性がここに座ったのやら。

    仄暗い感情が顔を出してくるが、かぶりを小さく振り消し去る。
    「家に珈琲しかなくて、悪いな。」
    「いえ、有難う御座います。」
    菊田は上着もネクタイも外しており、寛いだ格好でコーヒーカップを二つテーブルに置く。
    先程キッチンでカチャカチャと音がしていたのは珈琲を入れる音だったらしい。
    「…………。」
    「…………。」
    しばし二人の間に無言が続き、壁掛け時計の秒針の音だけが耳に入ってくる。
    菊田のズズ…っと珈琲を啜る音に月島も一口珈琲を飲む。

    ……なんか不思議な味の珈琲だな。どこか、甘くて香ばしい……。

    「月島。」
    「はい……、っ!」
    月島は珈琲に潜む味の正体を探していたが、話しかけられた事で珈琲から菊田へと意識を移し面を上げる。
    その先には菊田が真剣な表情で月島の目をしっかりと見据えていて、その目に捉えられた月島は逃げられず顔を逸らせない。
    「単刀直入に言う。月島、俺はお前の事が好きだ。やり直したい。」
    「………っ!」
    正直すぎる言葉に目を見開き固まってしまう。
    ド、ド、ド、と鼓動が強く脈打つのが聞こえる。
    「別れた時、俺は訳が分からなくて暫く何も手につかなかった。どうしたってお前への気持ちが消えない………、それどころか募る一方さ。」
    菊田の手が、マグカップを握る月島の手を包む。
    「月島………どうか、頷いてくれないか。」
    「………………。」
    包む掌からジワリと汗が滲んでいるのが分かる。

    あぁ、この人も緊張で汗をかいたりするんだな。

    月島はそんな関係の無い事を考えて少し現実逃避をしてみるが、すぐにその熱でこれは現実に今起きている事だ、返事をしなくてはならないんだと、嫌でも自覚してしまう。
    「……俺の話を聞いてくれますか。」
    月島は少し観念したような声色で、すっと菊田の視線から真っ黒な珈琲へと視線を移す。

    「自信がなかったんです……。あの頃仕事も忙しくて中々逢えなかったじゃないですか。それでも、部署は同じだから貴方の姿は見えるんですよ。少し離れた所から見た菊田さんは、とても素敵な人で、あらゆる女性からモテて、仕事も出来て、どうして結婚してないのか不思議なくらいで……。なのに貴方は俺を女性にするかのように接する。女性の変わりにされるなんて真っ平御免です。こんな柔らかくも綺麗でも無い、嫉妬深くて男の自分なんか、俺、なんか──不釣り合いだって。そう、思ったんです。」
    「…………。」
    自傷気味な笑みを浮かべ、訥々と語る月島の言葉を一つも取りこぼさないように、菊田は静かに耳を傾ける。
    「だから、無理やり別れました。もう、あんな惨めな気持ちになりたくないからです。」
    月島は胸の内を全て吐き出したことで、少し気が楽になった。

    これだけの事を言ったのだ、さぁ、呆れ返って先程の言葉を撤回してくれ。

    しかし月島を待っていたのは、月島の言葉を聞いても、尚、熱いままの菊田の手だった。
    「……それで、全部か?」
    「菊田さん……?」
    包まれた手にギュゥと力を込められる。
    「他の女なんかいらねぇ。不釣り合い?結婚?なんの事だ。俺は端っから基以外いらねぇんだよ!」
    「───っ!」
    初めて見る余裕のない菊田の声と表情に、思わず肩が震える。
    「いいか基。俺は、お前が、お前だけが好きなんだ。この気持ちはずっと変わらん。基の中で少しでも俺と同じ気持ちが残ってるなら、………俺の所に戻ってきてくれ。」
    「─────。」

    月島の目から、一筋の涙が流れ落ちた。

    その切実な訴えに、声に、掌に。月島の不安と自己嫌悪にグルグルに巻かれ心の奥底にしまっていた気持ちが、とうとう溢れて止まらない。
    「は、い……。はいっ……!杢太郎さん……、お、おれ、俺も…、貴方の事がっ、好きです………。」

    ずっと、好きなんです。

    涙に濡れた海松色の瞳を揺らして笑う月島を、菊田は掻き抱いた。
    もう離さない。
    あんな、焦がれて焦がれて死にそうになる日々なんて二度と戻りたくない。
    「はじめ、はじめ、もう二度と別れるなんて言うなよ……。」
    「はい……。」
    逞しい菊田の腕の中、月島はゆっくりと頷き背中へと腕を回し抱きしめ返す。
    月島の温もりに菊田は抱きしめる力を更に込め、二度と離さないと言外に誓う。
    しばらくお互いにお互いの体温を確認し合って、ポンポンと菊田の背中を叩く月島の手を合図に二人はゆっくりと体を離す。
    「なぁ、今日何の日か知ってるか?」
    「バレンタインですか?昼間、テレビでやってましたが………。」
    「お前さんに渡したい物がある。」
    菊田はそう言うと奥の部屋へ向かい、何やらゴソゴソと音をたてている。そしてその音が止むと、手だけを出してチョイチョイと月島を手招いてくる。
    甘い物は余り得意じゃないのを菊田は知っている筈なのに、と不思議に思いながらも手招かれた奥の部屋へと足を踏み入れると、そこには小ぶりの花束を持った菊田が待ち受けていた。
    「基、これは俺からの気持ち。」
    受け取ってくれ、そう渡され腕に抱いたのは、チョコレート色をした花たちで、香りもどこかチョコレートに似ている。
    「チョコレートコスモスって言うんだ。」
    「……チョコレートコスモス。初めて知りました。でも、なんでコレを俺に?」
    はじめて見る花に興味深々で見詰めてると、菊田がその花弁の一枚を指でなぞりながら花の名を告げる。
    バレンタインにチョコを贈り合うイベントにちなんで、この名前の花にしたのだろうか。
    不思議がる月島の頬に手を当て、菊田はゆっくりと口を開き──。
    「“恋の思い出”“恋の終わり”そしてな、“移り変わらぬ気持ち”。コイツの花言葉なんだが、俺たちにピッタリじゃないか?」

    一度別れても、移り変わらぬ気持ちはお互いあの日のままで。

    「……貴方は、本当にずるい人だ。」
    赤くなっているであろう顔を花束で隠そうとするけれど、頬に当てた手がそれを許してくれなくて。
    頭上から降りてくる顔に目を閉じ上を向く。
    ゆっくりと二人の唇は重なり合い、その懐かしくも馴染んだ感触に心が喜んでいて。
    「なぁ基。これから、また宜しくな。」
    「……はい、杢太郎さん。」
    そうして再び重なり合う唇に、菊田はもう離さないと、月島は戻ってこれたと、お互いの気持ちを乗せて深め合っていった。




    ────この日の夜、ベッドの脇からチョコレートコスモスの甘い香りが二人を包んでいった───……。




    _#2_ 何も無い特別な夜




    夜───チョコレートコスモスの香りが寝室を包み込み、二人はベッドの中で互いの体温を久しぶりに感じていた。

    懐かしくて
    愛しくて
    離れていた時間が切なくて

    だから俺から月島を抱き寄せた。

    緊張と困惑で全身に力が入ってしまう月島に菊田は気付いていて、そんな初心な反応に菊田の胸は甘く締め付けられる。
    そして月島も久しぶりに感じる菊田の分厚くも広い胸板に顔を埋めるが、素直にこの元いた位置の安心感に浸ってていいのか戸惑う。
    「なんにもしないって言ったろ。」
    抱き寄せた腕の力を抜いて、一年前と変わらない、いや──少し痩せた、自分より小さな背中を落ち着かせるようにゆっくりと優しく撫でる。
    何度か撫でていくと、月島からゆるゆると力が抜けていき、いつの間にか菊田の愛する翠緑の宝石は瞼の奥にしっかりと隠されていた。
    日頃の過労も相まって、菊田の包み込むような体温と、大きな掌から伝わる想いに自然と眠りに落ちていったのだろう。
    菊田は撫でる速度を徐々に落としていき、そっと止め、自分の腕の中で眠る恋人の寝顔を瞬きもせず見つめる。



    やっと、やっと───
    やっと自分の元に戻ってきた

    この一年、どんなに辛かったか。



    別れてからの一年、心も身体も、まるで死んだまま動いていた日々を思い出し、今、自分の腕の中に月島がいることが奇跡なんじゃないかと思う。
    この体温も、規則正しい寝息も、嗅ぎ慣れた久しぶりの匂いも、全部、夢なんじゃないかと思ってしまう。
    菊田は月島が起きないよう慎重に、でもしっかりと両腕で包み込むように、この愛しい恋人を抱き締める。



    もう、離したくない
    もう、離さない
    もう、離れないでくれ

    嗚呼、ここにいる
    嗚呼、触れられる
    嗚呼、本当に、戻ってきた




    その夜───大切なモノを取り戻した男の頬を涙が密やかに濡らし、チョコレートコスモス以外誰の目にもその秘密は知られることはなかった───























    _#3_ 必要不可欠な人




    菊田と寄りを戻して数週間。
    別れたあとの一年間はあんなにも長かったのに、この数週間はあっという間過ぎて正直頭が付いてきていない。

    原因は一つ。

    「じゃぁ下で待ってるからな。」
    「……はい。」

    連日のように菊田に連れ出されているからだ。
    今日は金曜日という事もあり、きっと週末は菊田の家で過ごす事になる。

    ──一年前、別れる前と同じ。

    あの時も、毎週のようにどちらかの家で週末を過ごしていた。
    何をするでもなく、家で海外ドラマを見たり、菊田行きつけの珈琲ショップに豆を買いに行ったり。
    時には、ベッドの中で一日中愛を囁かれ溶かされる事もあった。
    何もかもが別れる前と同じかというと、そうでも無いという所が、余計に月島の頭を混乱させている。

    ──甘えてくるのだ。

    あの、大人の余裕溢れる笑みで、常にエスコートを忘れず卒なく何事もスマートにこなす菊田が、だ。

    前は自分を女扱いする事も多々あったクセに(未だにアレは侮辱されてると思ってる)、何故だか最近は、一人の人間として対等に接してくるようになったのだ。
    勿論、以前がそうでなかった訳ではないが、なんというか、うまく言えないが、取り繕わなくなったと思う。
    大切にされている自覚はある。
    こんな──坊主頭で小さくて筋肉質な男のどこがいいのか全く分からないが、そんな自分がいいと、好きだと、耳に、口に、体に、心に何度も何度も直接囁かれるからだ。

    以前よりも、体も心も近くに菊田を感じる。
    それ自体は嬉しい。
    自分から別れたクセに一年もずっと想っていたし、あの日菊田の元へ戻れた事に後悔はない。

    でも、どうしたって手放しで喜べない自分がいる。

    菊田は、本当に、自分なんかと一緒に居て幸せなのだろうか。
    月島の頭の中には常にこの疑問が住み着いている。
    だって良く良く考えてみて欲しい。
    こんな、何のメリットも無い自分なんかに時間を使って、菊田の人生の無駄遣いになってやいないかと考えるのが普通ではないか。

    グルグルと仄暗い底に沈んでいく思考は、聞こえてきた終業チャイムにより浮上していく。
    「うじうじしてても仕方ないな…。」
    はぁ、と溜息ひとつ吐き、月島はパソコンの電源を落として帰り支度をすすめる。
    課長デスクに視線を向けると、菊田も上着を羽織って何やら部下に一言二言伝えている。

    ……相変わらず格好良い人だな。

    仕事中の菊田は出来る男そのもので、とても頼りになる。
    かと言って接しずらい訳でもなく、男女問わずフランクな態度に、親しみやすいと人気もある。
    今日だって、ミスをした部下に厳しい指摘をしたあとに、なんて事ない風にサラッと資料を修正して『コレで先方と交渉してこい』なんて事をするのだ。
    尊敬されない訳がない。

    「月島主任、すみません。」
    「──っ、ど、どうした、何かあったか?」
    ポーっと見惚れていた時に声をかけられ思わず焦る。
    「あの……、月曜の資料なんですが。こんな時間にすみません、ちょっと自信が無く………。」
    これで充分でしょうか、と部下から相談されて断れる月島ではない。
    「分かった。見てみるから少し待ってくれ。」
    頭の片隅に菊田を待たせてしまうという気持ちがうまれるが、お互い社会人として仕方ない部分もあると、分かってくれるだろうと踏み、渡された資料に目を通し始める。


    ─────……


    「うん、良く出来てるぞ。ただ、ここの数字の根拠が浅い。コレだとコストが幾ら抑えられてどれだけメリットが出るか分かりずらい。その点を修正したら大丈夫だと思うから、自信を持って月曜行ってこい。」
    「有難う御座います。お時間取らせてしまい申し訳ありません。」
    「いい、いい。気にするな。お前もいい週末を過ごせよ。」
    失礼します、と頭を下げ戻る部下に、自分もこんな時代があったなぁ、なんて微笑ましく思いながら、壁にかかった時計を見ると、すでに終業してから一時間半も過ぎていた。
    資料に没頭するあまり時間を忘れていたことに、菊田をかなりの時間待たせて居ることに今更焦る。
    慌てて携帯を開くと、そこにはメッセージがただ一つ。

    『待ってる。頑張れよ 。』

    「──────っ!」

    なんなんだ。
    この、胸が苦しくて、切なくて、でも嬉しくて、甘い、この気持ちは。
    感情の処理が上手く出来なくて、叫び出したい所を堪えるのに必死で、顔に熱が集まって居ることなんて、気にしていられなかった。

    早く、早く行かなきゃ。

    月島は雑にデスクを片付けると、上着を羽織る事も惜しくて手で引っ付かみ、バタバタと駐車場へ走って向かった。

    「っ菊田さん!」
    「おう。お疲れさん。」
    駐車場にはもう菊田の車しかなかった。
    車内で待っていればいいのに、車に凭れて外で待っている恋人の姿がそこに在った。
    「中で待ってて下さいよ!まだ寒いんですから風邪引いてっ──!あぁ、もうっ!」
    薄ら鼻が赤くなってるだとか、月島の顔を見た途端綻ぶ目とか、寒いのに外で待っていてくれた事だとか。
    嬉しさと恥ずかしさと心配とで、ゴチャゴチャになった感情をそのまま言葉に乗せながら菊田の傍へ近付く。
    「月島も上着、着ないと寒いだろうが。」
    ほら、なんて言って鞄を取り上げられてしまう。
    その時に触れた菊田の指先が冷たくなっていて、ツキンと胸に自責の針が刺さる。

    俺が待たせたからだ。

    「……俺は大丈夫です。それよりも、早く車の中入りましょう。」
    「おいおい、押すなよ。」
    鞄を取り返し、グイグイと菊田の肩を押して運転席へと追いやると、何故か菊田は笑っていて。
    「……なんで楽しそうな顔してるんですか。」
    「いやぁ?月島からこんな積極的に来てくれるなんて、そう無いからな。」
    「なっ──!」
    そう言われ、今自分が凄い体勢で居ることに気付き、勢いよく離れる。
    月島は運転シートに菊田を座らせる為に、上に覆い被さるような格好になっていたのだ。
    「なんだ、離れちまうのか。」
    「あ、当たり前です!駐車場といえど、社内なんですよ!」
    ニヤニヤと笑いながら腕を広げる菊田を一瞥し、指挟みますからね、と一応一言注意してから勢いよく扉を閉める。

    全く、本当にこの人といると心が落ち着かない。

    月島は大きく溜息をついてから助手席へまわる。
    「お待たせしました。」
    「お疲れさん。じゃぁ行くか。」
    月島がシートベルトを締めたのを確認し、菊田はブランケットを渡してから車を走らせる。
    「そんで、あの坊やは月曜うまくいけそうか?」
    「はい、なかなか良い資料でしたし、少し根拠が弱い所を直せばうまくいくでしょう。」
    「そうか。──なんだか懐かしいな。」
    横目に見た菊田の顔には昔を懐かしむ笑みが浮かべられていて、なんとも気恥しい気分になる。
    「そうですね……。私も、よく菊田さんに資料を見てもらいましたね。」
    あの頃、月島がまだなんの役職にも着いていない時。
    当時菊田は主任で、相変わらず気さくな人柄もあり、よく相談をしにデスクへ行っていた。
    それが今日の部下とのやり取りと被って、なんだか懐かしい。
    「あの頃の月島はなぁー。仕事も出来るし真面目一辺倒です、みたいな顔してるくせに。俺の所に来る時だけは緊張した雰囲気で、それが本当に可愛くて可愛くて……。」
    「……揶揄わないで下さい。」
    フイっと窓の方へ顔を背けてしまった月島の耳は、しかし、薄らと赤らんでいて。
    照れてる事がバレバレである。
    そんな月島の態度に、今でも充分可愛くて仕方がない、と目を細める。
    「帰ったら、久しぶりにお前が作ったもんが食いたい。」
    「そんな大した物作れませんよ。……それでもいいなら作ります。」
    未だこちらを向いてくれない愛しい坊主頭は、本当に素直じゃなくて。
    「あぁ頼むよ。俺が、お前の作ったもんを食いたいんだ。」
    「…………。」
    甘さを多分に含んだお願いに、月島の羞恥は限界を達し、思わず渡されたブランケットを鼻まで持ち上げて顔を隠す。
    「駄目か?」

    そんな声で駄目押しなどされたら、たまったもんじゃない。

    月島はただ頷きだけ返し、そのままブランケットの中で物言わぬ茹でダコ状態と化す。

    本当に、この人は狡い人だ。

    菊田は是と返された事に気分を良くし、とりあえず照れ屋の恋人はソっとしておく。
    家に着くまでの車内は無言のままであったが、片や鼻歌を歌いそうな程上機嫌で、片や羞恥に身悶え隠れている二人により、なんとも甘い空間が広がっていた。


    ◆◆◆◆◆


    「着いたぞ。」
    「運転、有難う御座います。」
    通い慣れたマンションに着き、菊田の後に続きエレベーターへ乗る。
    「……基。」
    「……部屋まですぐですよ。」
    乗った途端、耳介に指を走らせる菊田を視線だけで窘める。
    「だってよ……。お前さん、あんな可愛らしい事しといて我慢出来るわけ無いだろう?」
    「別に……。可愛くなんてありません。」

    こんな男でオッサンの自分のどこが可愛いというのか。
    一度本気で眼科にかかるよう勧めてみよう。
    一応自分より歳上であるし、何かしら視力に問題があるのかもしれない。

    うんうん、と一人納得していると、あっという間に目的の階に到達する。
    「ほら、いつまでしてるんですか。行きますよ。」
    「つれないねぇ……。」
    素っ気ない態度に肩を落とすが、しっかりと月島の肩に手を回す所はちゃっかりしている。
    「ちょっと、歩きずらいんですけど。」
    「んー?なーんにも聞こえねぇなぁ。はい、どーぞ。」
    小言など耳に入ってないかのように鍵を開け、促されるがままに家へと入る。
    相変わらずシックな部屋で、綺麗に掃除も行き届いていて実に菊田らしい部屋だ。
    「そういえば、食材なにがあるんですか?」
    「適当に冷蔵庫ん中の使ってくれ。」
    こないだ買い足しておいた、という菊田の言葉に甘え中身を確認する。

    ちなみに、リビングまでずっと回されていた手は、さり気なく荷物を置く時に外させた。

    玉葱、人参、豚肉、キャベツ。あと卵もある。
    肉野菜炒めと卵スープ、かな。

    月島は別に料理上手な訳では無い。炒飯や野菜炒めなど男の料理が殆どである。
    米に合うものであればなんでもいい、という理屈で基本的に味は濃いめでもある。
    「米は炊いてあるからな。」
    好きだろ、米。
    ルームウェアに着替え終え、リビングの定位置に座ると声をかけてくる。
    月島の好みなど、とうの昔に知られているので別にどうってことはないのだ。
    うん。
    なのに、こんな些細なことで喜んでどうする。

    菊田さんが甘いのが悪い……。

    「じゃぁ早速飯作ります。簡単な物しか出来ませんけど。」
    キッチン借ります。
    気持ちを誤魔化すように野菜達をザク切りにし、フライパンを熱して炒めていく。
    野菜に熱が通ってきたところで肉を入れる。
    食欲をそそる肉の焼けるいい音に、調味料の香り。
    家の中に漂う香りは部屋の設えに似合わない、庶民的なもので。

    そんな真っ只中に、菊田が座っている。
    カウンターキッチンの為、作りながらも視界に入ってくる菊田の姿はやはり格好良くて。
    頬杖を付きながら、料理を作る月島を眺めている菊田は本当に絵になる。
    視界と嗅覚にギャップがありすぎて、沸かした中華出汁に卵を割入れながら笑ってしまう。
    「どうした。なんか良いことでもあったか?」
    「いえ。あー………でも、そうですね。良いこと、ですかね。」
    なんとも言えない、暖かな空気が部屋を包んでいるように見えて。
    クルクルと鍋の中で固まっていく卵を眺めながら思う。

    こんな、穏やかで暖かな時間を過ごせるなんてな。

    別れていた一年間。
    職場が同じという事が、あんなにも惨い事だと思わなかった。
    自分に向けられていた優しい笑み、声、大きな手が、目の前で他人に与えられていくのだ。
    そこに感情があるのかなんて分からないけれど、月島から見たら誰でもいいのか、と。菊田がどれだけモテているのか、と。
    まざまざと見せつけられているようで、精神的にかなり参っていた。
    食事を気にかける事も無く、エネルギーさえ得られればいいと、栄養補助食品を流し込む日々が多かった。勿論あまり良く眠れないし、仕事は待ってくれないので増えていくばかりだった。
    それでも。
    それでも、気付いたら探しているのだ。
    あの大きくて広い背中を、柔和に和らぐ眼差しを、低くてどこか甘い心地の良い声を。
    そんな自分に気づく度に自己嫌悪に陥る毎日に比べて、今はどうだ。

    目の前に、求めていた人がいる。
    こちらを見つめる目は、探し求めていた眼差しで。
    幸せすぎて泣いてしまいそうになる。

    火を止め、少しばかり焦げてしまった肉野菜炒めを大皿に盛り付ける。
    卵スープはスープカップへ移し、あとは米をよそうだけ。
    「皿、運ぶよ。お前さんは米よそっててくれ。」
    俺大盛りな、そう言って手伝ってくれる菊田に、また胸が高鳴ってしまう。

    前は手伝う事なんてなかったのに、やっぱりなんか優しすぎないか。

    この動悸が米をよそっている内に治まるように、月島は殊更ゆっくりとよそった。

    「菊田さん、運んでくださり有難う御座います。」
    「いや。……おい、確かに大盛りって言ったけどな、盛りすぎじゃないか」
    「さぁ。気の所為では?」
    茶碗には、昔話に出てくるような山盛りの米がよそってあった。
    もちろん、二つ共、だ。
    「はい、では、いただきます。」
    「……いただきます。」
    食いきれるかな、と少し若さの衰えた胃をさするが自ら頼んだ手前、菊田は意を決して箸をつける。
    「うん。久しぶりに食ったけど、変わってないな。」
    「変わった味付けなんて出来ませんよ。」
    美味いな、なんて本当に美味しそうに頬張る菊田に、漸く治まっていた動悸がまた早まる気配を察知し、自分も食べることで気を紛らわす。
    口にした炒め物は、いつも自分が作ってるものと変わらない筈なのに。

    それなのに、美味く感じるのはなんでですかね、菊田さん。

    言葉は米と共に咀嚼し、嚥下され、表に出ることは無い。
    だって、こんな事言ったら、きっと貴方はまた幸せそうに笑うんでしょう。

    そろそろ幸せの過剰摂取で寝込んでしまいそうなので、月島は色々と自重する事を覚えたのだ。
    向かいでは、菊田の大きな口に炒め物が吸い込まれていく所だった。
    「菊田さん、口の端。付いてます。」
    「──ん、取れたか?」
    べろりと舌で取ろうとするが、見当違いな所ばかりで、一向に取れる気配がない。
    「いえ、もっと下……、あ、惜しいです。」
    「んー………。なぁ、取ってくれよ。」
    ん、と前のめりになり顔をこちらに差し出す菊田に、月島はどうしたらいいか分からず固まってしまう。

    ──また、だ。
    前はこんな甘えるような事、しなかったのに。

    「なぁ、早く取ってくれねぇと飯が冷めちまう。」
    確かに菊田の言う通りである。
    月島は戸惑う体を叱咤し、手を伸ばして菊田の口元に付いてる汁をなんとか指で拭う。
    「ん。あんがとさん。」
    「ちょっ───!」
    拭った指が戻るその前に、菊田は月島の手を掴み、べロリとその指を舐め取った。
    瞬間、月島の頬が鴇色に染まる。
    敏感な指先を、菊田の分厚い舌で舐め上げられたのだから仕方ないのだろうが、そんな月島の顔が見れて菊田は大いに満足し、自然、眦が下がってしまう。
    「離して下さい! ご飯中に──っ、信じられません!」
    「別に、俺は取ってもらった指を舐めただけだろ?なーんも、疚しい事は無いんだがな。」
    「………。もう、知りません。」
    勢いよく手を払われ、むくれながらもワシワシと飯を掻き込む月島の、なんとも可愛い事ったらない。
    まだ朱に染まったままの頬が愛しくて、ニヤつく笑みを隠しもせず眺めてしまう。
    「めし、冷めますよ。」
    ギロリと睨まれても、今の菊田からしたらなんにも怖くない。
    しかし月島の言うことは尤もなので、菊田もまた、食事を再開した。


    ◆◆◆◆◆


    「食いすぎたなぁー。」
    「少し、多すぎましたね。」
    二人はあの後、山盛りの米に苦戦しながらもなんとか完食し、今は菊田の淹れた珈琲を飲んで寛いでいる。
    ちなみに月島は、ラグの上に座る菊田の足の間に、すっぽりと包み込まれるように座らされている。

    くっついていたいと、まるで幼子のような声と顔で縋られ、散々嫌がったが断り切れなかったのだ。

    「杢太郎さん。」
    「んー……?どうした、はじめ。」
    肩に乗る頭は、重くならないように加減されていて、それでも甘えるように体を擦り寄せてくる菊田に話しかける。
    「なんで今日、飯、作って欲しいだなんて言ったんです?貴方の方が上手だし美味いの、俺、知ってますよ。」
    月島の言葉に、んー……、と煮え切らない返事を返す。
    「──俺がいなくたって、あのくらい貴方一人で出来るでしょう。」
    「できねぇよ。」
    後ろからギュウと腕を回されて、強く抱き締める菊田の声は固く、悲痛の色を滲ませていた。
    「……はじめの居なかった一年、飯なんて作る気も起きなかった。」
    「…………。」
    肩口に置かれた頭は何故か熱を帯びていて。
    月島は何も言えなかった。
    「この前も言ったがな、俺は訳が分からずお前さんと別れたんだ。それからの一年、そりゃぁもう、自分でも驚くほど意欲っつーもんが無くなっちまったんだよ。」
    そこから菊田が話して聞かせてくれた事は、月島にはとても信じられない内容だった。

    何を食べたいとも思えず食べても味がしなかった事、荒れていく部屋を見ても何とも思わなかった事、広いベッドで寝られなくなった事、仕事のモチベーションも下がり実は社長に降格の話を持ち出されそうになった事。
    「それでも会社に行けばお前の姿が見れる。避けられてるって分かってても、居るって感じられるだけで、俺はなんとか保ってたんだよ。」

    情けないだろ。

    「杢太郎さん……。」
    更にキツくなる腕を、月島はソっと手で触れる。
    「あの日、お前に告白するって決めた時。久しぶりに部屋を掃除したよ。まともな飯食ったのもあの日、基が俺の所に戻った後だ。」

    俺も、俺もおんなじです。

    大きな腕の中、月島は唇を噛み締め打ち震えていた。
    まさか、あの菊田も自分と同じだったなんて思いもしなかった。

    「もう、お前の居ない日々なんて耐えられねぇんだよ。」
    「杢太郎さんっ!」
    月島は耐えられなくて、無理やり振り返り菊田を抱き締めた。
    「──だからですか?だから、最近妙に優しかったり甘えてくるんですか?」
    「そうさ、お前に捨てられないようにな。甘えてんのは自覚なかったが、まぁ今迄一緒に過ごせなかった分の反動なんだろうよ。」
    胸の中に閉じ込めた菊田の頭が動き出し、月島が腕の力を弛めると愛しい男の顔が現れる。
    「なぁ基。俺はお前が思ってるほど、大人でも余裕も無いんだ。幻滅したか?」
    胸元から覗く顔からは僅かに不安の色を瞳に乗せ、月島の返事を怖々と待っている。
    そんな菊田の言葉に胸がズクンと疼いて、弱々しく頭を左右に振ってなんとか否定する。
    「幻滅なんて、そんなこと……する訳無い……。杢太郎さん、俺の方がね、もっともっと大人気なくて、いつだって余裕なんて無いんです。」

    おんなじだな。

    はい。

    菊田は泣き笑いみたいな顔をしていて、きっと、自分も同じような顔をしているんだろう。

    自然と顔が近づいていき、重ねるだけのキスをひとつ。
    温もりを惜しみながら離れ、見えたお互いの目にはもう、愛しさしかなくて。
    「基、今日はずっと触れててもいいか?」
    「はい。俺も、今日は貴方に甘えたい時のようですので。」
    お互いの背に腕を回し抱き締め合えば、体温が触れてる所から混じりあっていき、まるで二人は一つである事が当たり前のような感覚になっていく。




    そのまま本当に一つに混じりあったかどうかは、二人だけが知っている─────…。



























    _#4_ 恒久の願い




    菊田と恋仲に戻れたアノ日から一ヶ月。
    バレンタインに贈られた花束は色々調べて、そのまま押花のように保存出来ると分かったので、専門の業者へ依頼して額縁に入れ飾ってある。
    『素敵な花束ですね。プロポーズの記念ですか?』
    『プロっ──いや、ち、ちが……う、と思います。でも、大切な物なので…。お願いします……。』
    プロポーズという言葉の衝撃に首まで鴇色に染め、尻すぼみする言葉をなんとか伝えて、逃げるように託してしまったが、後日配送された物はとても綺麗で満足している。

    ──しているの、だが。

    自分の家に飾った押花を見る度に、あの時の店員とのやり取りを思い出し、ムズムズとした気持ちになってしまう。
    勿論貰った時は嬉しかったし、幸せな日々を過ごす二人を象徴する大切な物だ。
    「……プロポーズ。」
    自分の口から無意識にこぼれた言葉にハッとし、誰も居ないのに慌てて口元を抑えてしまう。

    いやいや、冷静になれ。

    今現在、日本での同性婚は認められていないし、何よりも──
    「俺なんかが、あの人の姓を名乗るなんて……。」

    そんな、夢みたいな事、あるわけない。

    あまりにも烏滸がましい考えを消し去るため、夜風にあたりにベランダへ出る。
    三月ともなると夜も過ごしやすいが、やはり少し肌寒い。
    でも、今はそれくらいが丁度良くて。
    月島はベランダの柵にもたれかかり、特に何を見るでもなく外を眺める。


    ホワイトデーに贈る物は、もう買ってある。
    『バレンタインのお返し』をする、という意味をあまり深く考えていなかったが、菊田に贈るとなると中途半端な物に出来なくて、何がいいのか凄く悩んで決めたのだ。
    菊田杢太郎という人は、自分の上司で、お金もあるから欲しい物は大体自分で買えるだろうし、なによりセンスがいいので滅多なものを贈る事は出来ないのだ。
    結局インターネットで検索に検索を重ねて、漸く納得する物を見つけ、今、それはキッチンにひっそり隠してある。
    「喜んで、くれるだろうか。」
    毎週のように菊田の家で過ごしているので、たまには家で過ごさないかと、先週の内に伝えてある。
    菊田は久しぶりに月島の自宅へ行けると喜んでいたが、正直菊田の部屋に比べたら狭いし古い。人を呼べない、という程ではないが、1DKの間取りにあの人が居ると何もかもが小さく見えて、窮屈なんじゃないかって申し訳ない気持ちになってしまう。

    それでも、自分の生活空間に恋人がいるという光景は特別で、格別だ。

    月島はベランダの窓から自室を改めて眺めて思う。そこらじゅうに菊田と過ごした景色が鮮明に蘇る。別れてた間は思い出すだけでも辛かった。
    色違いの箸や茶碗、菊田が良く飲む珈琲用のカップに身支度用の整髪料。それら全てが、熱を伴った彼の声や仕草で再生され、その度胸が軋んで仕方なかった。

    何度も捨てようとした。

    でも、出来なかったのだ。

    もう二度と、自分に笑顔が向けられる事など無いのに。
    未練たらしく、菊田の残滓に縋り付いている自分が『捨てるな』とブレーキを踏ませるのだ。

    流石に朝まで共に過ごした布団だけは、なんとかカバーを変えたけれど。それでもなかなか寝付けなくて、寝不足の日々を過ごしていた。

    そう。

    つい、この間までは。

    それが、恋人として寄りを戻してからどうした事だろう。
    『早く一緒に食卓を囲いたい。』
    『寝起きの、少し気怠い顔で珈琲を飲む姿が見たい。』
    『またここで、あの人の大きな体に寄り添い眠りたい。』
    そんな贅沢な考えばかり浮かんできてしまう。
    今度菊田と過ごす週末が、あの辛かった一年間を幸せな思い出へと上書きしてくれるのだろうか。
    「冷えたな……。」
    ふるりと小さく身震いし、冷たくなった肩を摩り部屋の中へ戻ると、携帯の通知ランプが点滅しているのが目に入る。

    『起きてるか?』

    たった一言。
    それだけなのに、冷えた体が暖かくなるのは何故だろう。

    布団へと移動し『起きてますよ』と返すとすぐに電話がかかってきた。なんだか勿体ぶってしまって、三コール分名前を見つめてから通話画面をタップする。
    『基?珍しいなお前がまだこんな時間まで起きてるなんて。』
    「そんなことないですよ。最近まで、もっと遅くまで起きてましたから。」
    電子の波に乗り届いた声はどこか少し固く聴こえるけれど、心配を含んだこの声はまさしく恋人のもので、布団にくるまって目を瞑るとすぐ傍に居る錯覚になれる。
    「杢太郎さんこそどうしたんですか。明日、朝イチで会議があるって言ってませんでしたか?」
    『あぁ……。資料読みも終わったし、寝る前に、な。なんとなく、基の声が聞きたかったんだよ。』
    駄目だったか、なんて、そんな事思ってもないクセに。
    それでも、甘えるような言葉に口元が緩んでしまうのは、自分でも分かりやす過ぎるだろうか。
    電気を消し、モゾモゾと布団を直して、いつでも寝れる体勢を取っていると、電話口から名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
    「すみません。布団に潜ってました。」
    『……切られちまったんかと思った。』
    ぶっきらぼうな言い草に、はて、と首を傾げる。
    「………もしかして、拗ねてるんですか?」
    『──悪いか。』
    ちっ、と遠くで舌打ちする音が聞こえてきて、コレは本当に珍しいことが起きている。
    基本的に菊田は格好良く渋い大人だ。
    そんな人が、少しの間会話が途切れただけで子供じみた声を出して、あまつさえ、舌打ちまでしている。
    一年前付き合っていた頃は、一度だって聞いた事がなかったのに。
    いまだに電話の向こうでは低く唸る声が聞こえて、きっと頭を掻いてバツの悪そうな顔をしているんだろう。
    そんな、普段では考えられない菊田の表情がありありと目に浮かんでしまって、思わず笑ってしまう。
    「っふ……。杢太郎さん、本当に貴方、可愛らしい人だったんですね。」
    『こんなの、基にしか見せねぇから。……いいんだよ、別に。』
    ますます拗ねた声を出すこの人は、本当にあの菊田杢太郎その人なのだろうか。
    つい先日、自分なんかに捨てられないよう行動したり、無意識に甘えてしまうと菊田本人の口から知ったばかりで。
    今、電話口の向こうにいる菊田杢太郎は、月島しか知らない、恋人の菊田杢太郎なのである。
    その事実が甘く胸に広がり、早く恋人に逢いたくて堪らなくなってしまう。
    「杢太郎さん、明日、仕事終わったら一緒に家に帰りましょうね。」
    『あぁ、楽しみにしてる。』
    そろそろ寝るか、と言われ、本当にただ声が聞きたかっただけらしい。
    「おやすみなさい、杢太郎さん。」
    『おやすみ。……また、明日な。』
    低く柔らかな声で告げられて、通話終了をタップする。

    また、明日。

    未来の約束を出来る、それだけでもう───胸が一杯で。

    耳に残る菊田の声を何度も何度も反芻して、この日月島が眠りについたのは日付を一時間も超えた頃だった。


    ◆◆◆◆◆


    「ぁふ………。」
    「どうした月島、欠伸なんかして。」
    「っは、申し訳ありません。少し、寝付けなかっただけでして……。鶴見社長にご心配おかけする程ではありません。」
    午後の会議も終わり、今後展開する新企画の打ち合わせを鶴見と月島の二人は社長室でおこなっている。
    なぜ二人きりなのかというと、鶴見からのお使いで甘味を調達してそれを届けたまま、そういえばアノ件はどうなった、と振られ思いがけず話が進んでしまったからなのだ。
    「最近は目のクマも薄くなってきて、漸く元鞘に納まったと思ったが……。ん?違ったのか?」
    「…いえ、その。……鶴見社長にご心配おかけする事はなにも………。」
    音もなく距離を縮められ、スリ、と目の下を指で撫でられる。あまりにも自然な仕草で触られた衝撃よりも、鶴見に菊田と寄りを戻した事を知られている事実に歯切れの悪い受け答えをしてしまった。

    まずい。
    この御方は、こういう面白い事を見逃さない人だ。

    思った通り、ニンマリと形の綺麗な口の口角を器用に上げ、目の下に当ててた指を、頬から顎下へと移動させて、クイっと持ち上げられてしまう。
    「鶴見社長、何か。」
    「ふふふふ………。久しぶりに、大事な部下を愛でようかと、な。」
    鶴見の悪ふざけは、人によっては甘露にも毒にもなる危険な所作である。

    ──いったいどれだけの人がこの毒牙(当人は気付いてないだろうが)にかかったのだろう。

    しかし、長い付き合いの月島には、毒にも蜜にもならない。
    その証拠に麗しの鶴見社長─社内外での通り名である─に顔を持ち上げられ、間近に見つめられた所で、この心の臓は微動だにしないのだ。
    「悪ふざけは程々になさった方が宜しいかと。」
    「そう冷たい事を言うな。お前のこの眼は、俺も気に入ってるんだ。」
    独り占めするには勿体無いだろう、そう言って顔を斜めに傾けられ、両の眼を凝視されても抵抗はしない。
    「……鶴見社長、今は業務時間内です。私の眼なんて見飽きた筈では?」
    場を考えて欲しいと言外に含ませ、チラリと壁にかかった時計に視線を投げる。

    今日は定時で帰れるだろうか。

    「見飽きる程独占しているのは、私じゃないんだがな。──まぁいい。そろそろ月島を返してやらんとな、もう一人の可愛い部下に睨まれてしまう。」
    鶴見に視線だけで社長室の外を見るよう促され、横目でガラス越しに部署を見ると、課長のデスクに座った菊田と眼が合い、一気に気まずさが全身を巡る。

    アレは完全に怒ってる時の眼だ。

    「お前達、戯れ合うのはいいけれど、ちゃんと月曜日は出勤してくれよ。」
    最後に顎先の髭を一撫でし、月島から離れた鶴見はデスクに置いてある甘味─大福─に手をつけ軽々しく言ってのける。
    「……失礼します。」

    面倒くさい。

    一礼して社長室から出ると、部署内の体感温度が真冬に戻ったかのような幻覚に陥る。元凶は、課長デスクを人差し指で一定のリズムで叩いている、菊田その人だ。

    もう一度言う。
    面倒くさい。

    月島はため息を吐き、わざわざ菊田のデスクの前を通ってから自分のデスクに着いた。
    不思議なことに、月島がパソコンを開く頃には、部署内の温度が通常に戻っており、他の社員は何が起きたのか分からず頭上に?マークを浮かべているのが見える。


    ──ここだけの話。


    課長デスクの前を通る時、月島は菊田机を叩く指に一瞬だけ触れ、不機嫌を隠さない菊田の眼を見ながら、触れた自分の指に口付けて見せたのだ。
    会社では滅多に接触してこない、月島の大胆な接触に菊田は目を見開き、さっさと自分のデスクに戻る月島の後ろ姿と触れられた指を交互に眺め、自分の機嫌が途端に好転していくのを感じてニヤつく顔を隠すように珈琲をあおる。
    主任デスクに戻り、資料を打ち込む月島の耳だけが紅く染まっている事に気付いた人は、鶴見と菊田、そして気の毒に一部始終を見てしまった有古の三人だけだった。

    ◆◆◆◆◆

    あと五分で終業時刻という所で仕事の区切りがつき、月島はパソコンを閉じてチラリと課長デスクを見やる。
    菊田も殆ど本日の業務を終えているのか、明日の引き継ぎ用メモを書いてるのが見える。
    頭も良い菊田にはメモなど必要無いのだろうけど、『俺だけが分かってても駄目だからな』と誰が見ても進捗状況が分かるようにしている姿は、上司として尊敬している。
    きっと、少しだけ斜めに上がった菊田特有の文字で丁寧に書いているのだろう。
    実は昔、役職にも着いていない頃に、菊田へ相談した時、アドバイスを書いたメモを貰った事がある。そのメモは今も月島のデスクの引き出しに大切に保管されている。これは自分だけの秘密で、誰にも教えることは無い。勿論菊田本人にも教えない。
    そんな初心な気持ちを懐かしみ、メモの入っている引き出しに鍵をかけて携帯を取り出す。
    『先に駐車場へ降りてます。』
    一言メッセージを飛ばし、帰り支度を済ませる。
    「お疲れ様、お先に。」
    「お疲れ様です!」
    「お気をつけて。」
    何人かの部下に挨拶をして、お前らも程々にして帰れよ、と一言足して部署を出る。
    駐車場は地下なため、自販機の前にある駐車場直通のエレベーターに乗らねばならない。

    ここでアノ時、声をかけられなかったら、今の俺たちは居なかったんだよな。

    一ヶ月前、菊田に声をかけられた時の事を、エレベーターを待つ度に思い出すのだ。
    今を思えば、月島が自販機に向かう姿を捉えてから後を追ってきたのだろう。
    菊田が自販機を使う事は滅多に無い。珈琲を好んで飲んでいるが、缶珈琲ではなく必ず珈琲ショップでテイクアウトした物を、タンブラーに入れて持ち歩いているのを知っている。
    それだけ菊田は月島と話がしたかったのか、そう考えると胸がじんわりと熱くなる。

    チン──

    エレベーターの到着音に振り返り、乗ろうとしたその時。
    「月島、俺も乗るから待ってくれ。」
    「菊田さん。」
    廊下の少し先から菊田が早足で向かってきた。
    脚の長さを活かし、あっという間にエレベーター前に着いてしまった。
    二人同時にエレベーターに乗り、地下駐車場の行先ボタンを押す。
    「お疲れ様です、早かったですね。」
    「そりゃぁお前さん……。」
    早く二人きりになりたかったんだよ、と後ろから壁に手をついて月島を腕の中に囲い、頭上から囁く。
    その低い声と菊田の香りに、思わず夜を思い起こしてしまった月島の耳が紅く染まっていく。
    その様を眼下に見た菊田の眼は、獣のようにギラついて獲物を捉えて離さない。
    「おいおい…。そんな可愛い反応するなよ。」
    「ちょっ、社内ですよっ!」
    鴇色に染まった耳介に舌を這わせると、荒らげる声とは反対に肩をビクつかせ息を荒らげる月島のなんと愛いことか。
    「監視カメラだって、あるんですっ……!」
    「そんな怒るなよ。大丈夫さ、俺の体で見えねぇよ。」

    だから少し、こっち向いてくれよ。

    確かに菊田は月島よりもかなり背が高いし、この角度なら殆どカメラに映らないだろう。
    尚も耳介を舌でなぞり続けられ、そろそろ白旗を上げざる得ない状況になってきた。
    観念した月島は おずおずと振り返ると、影が色濃く落ちた焦げ茶の眼を見上げる。
    「その眼、俺以外に見せるなよ。」
    「んっ──………!」

    やっぱりまだ気にしてたか。

    普段ならマナーとして─あと羞恥心から─眼を閉じて口付けを受け入れる。
    でも、今、この獣の眼から逃れたらいけない気がして。
    雄の気配を纏う両の眼を見続けるが、吐息を奪うような口付けがどうしたって快楽を生んでしまう。
    徐々に瞳に涙を抱く月島の瞳は、まるで陽が差し込む海原のように揺蕩っている。
    快楽に溺れつつも、健気に眼を逸らさない月島の姿に、菊田の雄としての欲望がフツフツと湧き上がり、口腔内を貪る舌が止められない。
    「っはじめ…。」
    「ァ…、ゥんっ……!」
    口蓋を舐めあげれば嬌声を上げ、縋るようにスーツを掴む月島の腰を抱き寄せて、もっと、深く、境界線が分からなくなる程求め合おうとした時──
    『お待たせ致しました』
    「ちっ……!」
    無情にも、目的地に着いたエレベーターのアナウンスにより、強制的に行為を止めなければならなく、派手に舌打ちをしてしまうが許して欲しい。
    腕の中で酸欠と快楽によりクタクタになっている愛しい恋人を見やると、菊田のスーツにもたれかかり荒い息を小さく繰り返している。
    「基、車連れてくぞ。」
    「え、わっ!も、杢太郎さんっ」
    決して軽い訳でないのに、荷物諸共月島を姫抱きにして、スタスタと車へと向かっていく。
    逞しい胸板越しに見える菊田の顔は、まだ欲に飢えた雄の残滓が隠しきれていなくて。
    そんな顔を見てしまうと、自分が求められてるんだと如実に分かり、なんとも恥ずかしくて俯いてしまう。
    長いリーチを存分に活かし、最短で車に辿り着くと、助手席へ優しく月島をおろして頬を撫でる。
    「あの、杢太郎さん…。」
    「基、家着いたら抱かせてくれ。」
    「だっ……!」
    なんとも過激な発言を至近距離でされ、ボンっと火がついたように顔が紅くなる。
    「泊まる用意なら後ろに積んである。どこにも寄らないで、真っ直ぐ基の家に行こう。」

    いいだろ?

    欲をたっぷりと含ませた目線と声で請うクセに、首まで鴇色に染まったまろい肌を、大きく節ばった手が確かな意図を持って撫でさする。

    そんな事をされて、月島が断れる筈がない。

    菊田の欲が伝染った蕩けた顔で、コクリと頷き、菊田の手に頬を擦り寄せる。
    「安全第一で、なるべく早く運転するからな。」
    「はい……。」
    月島の返答に満足気な表情を浮かべ、運転席へ移動し、エンジンをかける。
    「揺れたらゴメンな。」
    今迄一度だって、揺れたことなど無いのに。
    菊田はナビすらつけずに、月島宅への最短ルートを進んでいく。
    恋人として寄りを戻してから初めて行くのだが、菊田は会社からの道順を忘れる事などなかった。
    それだけ何度も通ったし、なにより大切な月島の事について忘れる物事など、菊田には一つも無いのだ。


    ◆◆◆◆◆


    幸運にも信号に引っかかる事無く、ものの十数分で月島宅最寄りの駐車場へ車を停める。そこから一~二分ほど歩くと月島の家がある。
    車を降りて、菊田は片手に泊り道具、もう片手に月島の手を握り、大股で月島の家へと向かうから、月島はどうしたって少し小走りになってしまう。
    それでも文句の一つも言わないのは、月島自身もこれから待ち受ける甘い時間が待ち遠しいからだ。それに──余裕のない菊田の行動が自分を求めているからこその行動だと分かって、それが嬉しいのだ。
    部屋に辿り着き、逸る気持ちを抑えてなんとか鍵を開け、二人は雪崩込むように玄関へと上る。
    靴を脱ぐ暇もなく、両頬を包みこむように上を向かされたと思うと、熱いキスの雨を降らされてしまう。
    「まっ──!」
    「待てねぇ。」
    静止の声などお構い無しに、顔中にリップ音を鳴らされる。
    月島は後ろ手になんとか鍵を閉め、唇にやってきた菊田の下唇に噛みついて、痛みに一瞬怯んだ隙をつき、両手を眼前に突き出して無理やり静止する。
    「げんっ、かんっ、ですっ!」
    「……。」
    指の間から見える眼からは、不満をありありと訴えてくるが、せめて布団で混じり合いたいと願うのは我儘なのだろうか。
    「……はじめ。」
    「─────っ!」
    手を掴まれ、べろり、と指の股に舌を這わされる。その刺激に背中が震えてしまうが、それ以上に官能的な仕草など横に置いておいてしまうほど、甘えた声で自分の名を呼ぶのだろう。

    本当に、狡い人だ。

    「……布団、行きましょ。」
    靴を脱いで、荷物を足で横にずらして、手を引いて。
    なにも言わないけれど、素直に誘われる菊田を寝室へと連れていく。
    「──基の部屋だな。」
    一年前から変わらない寝室の匂いと空間。懐かしさと、別れてから自分以外に誰も入れていない様子に、菊田はせり上がってくる喜びを噛み締める。
    チラリと今だ手を握る月島を見ると、頬は羞恥と期待に色付いている。

    これから、此処で、基を、抱く。

    漸くだ。

    自分のマンションではアレから数度混じ合ったけれど、菊田の中では此処─月島のテリトリー─で混じ合う事をなにより重要視している。
    月島は元々他人を内側へ入れないたちだ。
    警戒心が強くて、臆病で。
    そんな性質を持つ月島が、自分のテリトリーに招き入れ、聖域とも言える寝室で混じり合う事を許諾するのだ。
    その意味を、一度別れを経験したからこそ、大きな意味に感じてしまい、今、この場に経っているのに大人気もなく泣いてしまいそうになる。
    「杢太郎、さん………?」
    グッと感情の波に襲われるままに後ろから月島を抱き締めると、腕の中で少し困惑する声が聞こえてくる。
    「漸く……、漸く取り戻せたんだ……。嬉しすぎて、泣きそうなんだよ……。」
    「…………。」
    回した腕に、そっと手が添えられるのを感じる。
    月島も、きっと同じ気持ちを感じてるのだろうと、本当に涙が滲んでしまいそうで、少し腕に力を込めてしまう。
    そんな菊田の熱に、月島の胸には愛しさが広がり、早くこの人と一つに混じり合って、幸せを噛み締めたくなる。
    「杢太郎さん、布団、行きましょう?」
    「嗚呼、そうだな……。」

    それは菊田も同じで。

    既に少し皺の寄ってしまったスーツを脱がせ合い、久しぶりに月島の布団で混じ合った二人は、このままこの時間がずっと続けばいいと、温もりを感じながら微笑み合った───。


    ◆◆◆◆◆


    シャワーを浴び終えて、ゆったりとした時間が二人の間を流れている。
    情事後の少しだけ気怠い体も、狭いソファーに座ってる菊田の姿も、自分の家で嗅ぐ久し振りの珈琲の香も、その全てが尊くて。

    また、この光景が見られるだなんて、思ってもなかったな。

    じんわりと体を巡る幸福感に顔が綻んでしまう。
    用意していたモノを渡すなら今がいい、と、月島はキッチンからふたつ、ソレを皿に乗せてテーブルへと運ぶ。
    「杢太郎さん、コレ、俺からのバレンタインのお返しです。その珈琲に合うと思いますので、どうぞ一緒に食べてください。」
    「バームクーヘン、か?」
    「はい。」
    ホワイトデーに用意したのは、仄かに感じる甘さ控えめの、玉子と小麦粉の味がしっかりしている焼き菓子であった。
    「杢太郎さんから貰った、あの花束に見合う物をと思い、コレを選びました。」
    「………。」
    一口大に切ったバームクーヘンをフォークで刺し、菊田の口元へゆっくりと運ぶ。
    「意味、知ってますか?」
    ふに、と唇に押し付けられた焼き菓子の甘い香りだとか、照れて頬を染めたまろい肌だとか、持ってるカップを落としそうだとか、そんな、色んな情報が脳に入ってくるけれど。
    そんな事より、なにより、この焼き菓子に含まれている意味を知ってる菊田は、全身を駆け巡る歓喜の波に打ち震えてしまいそうなのだ。

    実は菊田、バレンタインのお返しに月島から何か貰えるだろうかと、密かに楽しみにしていたのである。
    貰えなかった時のダメージを考えると、深く期待をしないようにしていたが、月島と同じく贈る物によって意味があるという事を調べていて。
    もちろん、この焼き菓子の意味も調べて知っている。
    だからこそ、今、その焼き菓子が口元に運ばれてる事実が嬉しくて仕方ない。

    しかも、月島自らの手で、だ。

    「………すみません。いらないですね。」
    「いるに決まってんだろっ!」
    離れようとしたフォークを月島の手ごと掴んで、慌ててバクりと喰らいつく。先程まで微動だにせずいたのに、急に動いた事にも驚いたが、なにより菊田の大きな口が洋菓子を軽々一口で食べた様を見て、その豪快さに目を瞬かせてしまう。
    「──良かったです。受け取って、くれますか?」
    「返せって言われても無理な話だな。」
    あ、と口を大きく開けて次を催促する。
    そんななんだか子供じみた仕草にクスクスと笑いながらも、もう一口切り取った洋菓子を口に運んでやる。
    洋菓子を咀嚼しながら珈琲を啜る菊田の顔は幸せそうに綻んでいて、こっちも嬉しくなってしまう。
    「美味いですか?」
    「甘すぎない所がな。お前の言う通り珈琲に良く合うよ。」
    ありがとな、微笑み含んだままに、珈琲の香りを纏って月島に口付けをひとつ贈る。
    ゆっくりと口を離し、頬を両手で包み込んで瞳をジッ……と覗き込む。

    海松色の小さな海には、いつになく幸せそうな自分が映ってて。
    きっと、自分の鷲色の瞳にも幸せそうに微笑む恋人が映っているに違いない。

    「………基の返事、ちゃんと受け取ったから。」
    「はい。きっと、貴方となら叶え続けられると信じています。」
    月島も菊田の頬を両手で包み返し、お互いの温もりが愛しさを増していくのを目だけで感じ合って。


    漸く想いを伝え合えた二人の幸せは、これからずっと、長く、永く、続いていくのであった─────。

    _#5_ 桜月の誓い




    「よし、着いたぞ!」
    「はぁ?ここ、です…か……?」
    菊田に促され降りた先、目の前に立ちはだかる景色に、月島は、ただただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった──


    ◆◆◆◆◆


    明日四月一日は、月島基の生誕日。寄りを戻して初めて二人で迎える生誕日という事で、事前にスケジュールを調整し有給も合わせて一週間程休みを取った。
    鶴見からは「お土産は甘いもので頼んだぞ月島。嗚呼、仕事の事は気にするな。例え年度始めに役職の二人が居ない状態だとしても回せるように、お前達が下を育ててくれたのは知っているからな。なに、俺の世話は適当に見繕っておくさ。お前が自分の生まれた日に休みたいだなんて言ってきた、その事の方が俺にとって大切なんだからな。」などと養父としての顔を覗かせながら言われてしまい、臍の辺がモゾ痒くて「…おやつは一日一回までですからね。」と顔を見ずに言うことしか出来なかった。




    張り切って予約したという旅館へ、二人を乗せた菊田の車が目的地へと滑らかに走り出す。
    「社長、なんか言ってたか?」
    「……お土産を強請られただけです。それより、どこの旅館を予約されたんですか?」
    「んぅ?俺の地元から少し行ったとこにあるんだが……。山の中にあってな、飯が美味いんだわ。」
    そう言って高速道路へと入っていく先には、菊田の生まれ育った土地方面の案内板が出ている。
    「それは楽しみです。でも、宿泊費とか全部杢太郎さんが持つのはやっぱり納得いきません。俺にも少しは出させて下さい。」
    「ダーメだ。何度も言ってるだろう?別にお前さんを下に見てるって訳じゃねぇよ。今回は、基の誕生日だから俺が格好つけたいんだよ。な?」
    「……はい。」
    そこまで言われてしまったら引くしかなくて、月島は菊田の誕生日には同じ事をしてやろう、と心の中で決意する事でなんとか自分を納得させたのである。
    そしておよそ二時間弱、山の中腹まで登りあと数分で目的地につくとナビが教えてくれる。途中ドライブスルーに寄り、やっぱりソフトクリームだよな、と普段なら珈琲を頼む菊田が、嬉しそうにアイスを食べる姿はなんだか貴重で、こっそり写真におさめたのは月島一人だけの秘密である。
    『目的地に到着しました。案内を終了します。』
    ポーンという音と共にナビが伝え、木々を抜けた先にある旅館の入口に車が止まり、菊田に降りるよう促される。助手席から降りた月島の目の前には、重厚感漂う老舗の旅館が佇んでおり──冒頭のやり取りに戻るのである。



    「……杢太郎さん、俺、こんな凄い所泊まれません。」
    「何言ってんだここまで来て。ほら、行くぞー。」
    「あ、ちょっと!自分の荷物くらい持ちます!」
    呆然と立ち尽くしていた月島は、二人分の荷物を持ってさっさと旅館へ入っていく菊田の背を慌てて追いかけ、旅館の中へと入っていく。
    「予約してました菊田です。」
    「はい。この度は御予約有難う御座います。お部屋は離れになります、"千日紅"というお部屋を御用意させていただきました。お荷物をお預かりしますので、こちらへどうぞ。」
    すぐに菊田に追いつくも、受付けをはじめてしまっていた為に声をかける事も出来ず、荷物は旅館の人に渡ってしまうし「お連れ様も、遥々ようこそお越しくださいました。お二人にとって良き時間を過ごせるよう、何か御座いましたら何時でもお申し付け下さいませ。」と、あれよあれよと離れまで案内されてしまった。
    「では、失礼致します。」
    「あ、はい。ありがとうございます。」
    スっ──と、音もなく戸口を閉めて去った旅館の人へ月島は頭を下げる。キョロ、と内装を伺えば、上がり框の先に畳の部屋が広がり座布団と味のある一枚板のテーブル、床の間には部屋の名前通り千日紅が飾られている。窓際には一段下がって椅子が二脚と丸テーブルがこじんまりと並んでおり、寛げるスペースになっている。その先には外へと続くのか格子扉がある。
    菊田は、と目を向ければ、荷物を部屋の隅に置いて早速備え付けの浴衣に袖を通そうとしているところであった。
    月島は一度溜息をつき、菊田の分まで靴を揃えてから部屋へ上がり、浴衣の袖を引いてこちらに意識を向けさせる。
    「……杢太郎さん、俺、まだ頭と心がついてきてないのですが?」
    「ん?なんだ、まだ呆けてるのか。いいか。今日から三泊四日、ここの離れで美味い飯食って温泉につかって、基の誕生日をゆっくりと過ごす。二人っきり、でな。」
    「………。」
    ウィンクと共に告げられた内容に、照れていいのやら喜んでいいのやら、月島は結局困惑したような顔になってしまった。そんな月島の頬を撫で、菊田は嬉しそうに眦を下げ見つめる。
    「ずっとな、楽しみにしてたんだぜ。基とこんな長い時間二人きりで過ごせるなんて、初めてだろ?」
    「まぁ……、その、俺だって別に楽しみにしてない訳じゃないですし?こんな、凄い旅館で驚いただけです。……感謝してますよ。」
    月島は少し照れ臭そうに顔を逸らすが、耳先が赤く染まっていて隠しきれていない。そんな月島にニヤつく顔を隠さず、菊田は月島の耳に口を寄せる。
    「この部屋な、露天風呂付きなんだよ。」
    「っ──」
    「だからな、時間とか人目も気にせず入り放題だぜ。」
    菊田の低く甘い声を直接耳に吹き込まれ、思わず耳を手で押さえて距離を取るが、続いた菊田の言葉は風呂好きとして聞き逃す訳にはいかなかった。
    「入り放題、ですか。」
    「おう。しかも源泉かけ流し、ビールも日本酒も頼み放題だぜ。」
    「……なんですかそれ、最高ですね。」
    「だろ?な、基も浴衣持って早速入ろうぜ!」
    同じく風呂好きな菊田も浮かれているのか、浴衣の帯を雑に結ぶと、外へと続く竹製の格子扉を開けさっさと脱衣所へと向かって行った。月島も恐らく自分用に用意されたであろう浴衣を持ち、露天風呂へと向かう。
    脱衣所の籠には菊田が既に脱いだ服が入っており、湯気で曇ったガラス戸の向こうからは水音が聞こえてくる。月島は着ていた服を脱ぎ、備え付けのタオルを一応腰に巻いてガラス戸を開ける。
    そこには大人二人が入っても伸び伸びと足を伸ばせる大きな檜風呂と、手入れの行き届いた見事な竹林が広がっていた。
    「……凄いですね。」
    「おう、すげぇ気持ちいいぞ。基も早く入れよ。」
    温泉に胸までつかり、檜風呂の縁に腕を乗せて寛ぐ菊田に促され、月島も掛け湯をしてからゆっくりと湯に入る。
    「───っ、あぁ〜………。これは……、やばいですね……。」
    「だろ?」
    少し熱めの源泉かけ流しの湯からは硫黄の匂いがする。肩までつかり、深く息を吐きながら目を閉じて、慣れるまで湯に体を任せる。この休暇をもぎ取る為に少し無理をして仕事を終わらせた頭と体に、温泉特有の匂いと湯触りがじんわりと染み渡ってくるのが分かる。
    チャプン、と水音がして、菊田がこちらに近づいてくるのが目を閉じていても分かった。ゆっくりと瞼を上げると、穏やかな顔をした菊田が両腕をこちらに伸ばし自分を引き寄せてくるので、特に抵抗もせず恋人の逞しい足の上に乗る。向かい合った菊田は髪の毛が濡れて下りており、普段より雰囲気が違っていて、少し、色気というか抜けた印象になる。──実は月島、髪を下ろした恋人を見るのが好きなのである。

    恋人の自分しか見る事の出来ない、特別な姿だから───

    そんな恋人の前髪からポタリと雫が落ち、菊田が髪を掻き上げると、鳶色の優しい瞳が現れてこちらを見詰めてくるからドキリとしてしまう。
    「爽やかな風に晴れた空、檜風呂には愛する恋人。はっ、最高だな。」
    「ふふ……、そうですね。」
    湯の中で手を握り、本当に幸せそうに微笑まれるから、こちらまで自然と笑みが溢れてしまう。
    「夕飯まではまだ時間あるか……。どうする基?館内の庭も確か鯉とか泳いでて少し歩いてもいいし、本館にある大浴場の方でまた違った風呂に入ってきてもいい。」
    菊田は自分より短く、だが確かに男の太さを持った指を曲げたり伸ばしたり好きに弄りながら今後の提案をする。

    ──正直に言えば、このままもう少し二人きりでイチャイチャしていたい。あわよくば、お天道様が昇っている時間だがこのまま湯船で体を繋げたい。

    素直に己の足の上に乗った恋人は心地良さそうに顔を緩ませているし、湯によってほんのり桜色に上気した肌は、とてつもなく唆るのだ。しかし、今回は恋人の誕生日を祝う為に来ているのであって、最初からガツガツと己の欲を優先させるのは違う、と勃ち上がりかけている愚息を鎮めようと、月島の指を無意味に遊ばせる事で意識をそちらへ逸らす。
    「そう、ですね……。」
    「……はじめ?」
    しかし、菊田の指からすり抜けるように片手を湯の中から出した月島の指が、菊田の濡れた前髪の一房をスルリと撫でる。その動作を目で追うが撫でられた拍子に雫が目の近くに落ち、菊田は反射的に目を閉じる。

    そして──眦に柔らかな感触が一つ、リップ音と共に贈られ、驚愕に目を見開く。
    眼前には、欲の熱を揺蕩わせた翠緑の宝玉が二つ──。

    ゴクリ、と無意識に喉が鳴り、その瞳に目が釘付けになって動けないでいると、「杢太郎さん」と間延びしたような甘さを多分に含んだ声で名を呼ばれ、今度は小さくて何度も貪った唇に目を奪われてしまう。
    「俺としてはこのまま……。駄目ですか?」
    「──駄目な訳、ねぇだろ。」

    まさか、まさか、アノ基の方から体を繋げようと誘われるとは──。

    菊田は興奮から喉に絡まったような声を搾り出し、拳二つ分ほど離れていた体を引き寄せて、湯でしっとりした項に鼻先を埋める。
    「折角……、お前さんの誕生日だからガッツかねぇようにしてたんによぉ……。」
    「ふふ…。雰囲気に流されたくなったんです。それに、こんなに硬くしたの、どうやって誤魔化す気だったんですか?」
    「言うなよ。これでも必死に抑えてたんだからな。」
    「あっ─ ! ちょっと、見える所に噛み跡つけないで下さい、って、んァっ!」
    菊田は項に軽く噛みついて、少しばかり罰が悪いのを誤魔化す。
    「一週間あるから問題ねぇよ。」
    「そういう問題じゃな、アァっ!」
    ジュゥ、と歯型のついた所を吸い付きながら腰を押し付ければ、緩く立ち上がりかけていた月島のモノを突き上げたらしく、突然の刺激に嬌声があがる。
    「はじめ……、逆上せそうになったらすぐ言えよ。」
    「はい…。」
    ゆっくりと唇を重なり合わせ、そこから貪り喰らうようにお互いの熱を交換していく。
    そうして数刻、浴室に響く水音は二人の間から聞こえてくるものなのか、はたまた湯の水飛沫なのか。

    ──その答えを知るのはお天道様のみであった。


    ◆◆◆◆◆


    「杢太郎さん、お茶どうぞ。」
    「おぅ、あんがとな。」
    二人はあの後体を清め、浴衣に袖を通して座布団に座り寛いでいた。
    「それにしても、よく杢太郎さんのサイズありましたね。」
    その浴衣、と指摘された浴衣は、他人より体格の良い菊田が着てもゆとりのあるサイズで、濃紺に灰色の縦縞が入っており落ち着いた雰囲気を醸し出している。
    「嗚呼、最近は外国人とかも来るだろ?だからデカいサイズもあるんだとよ。」
    「そうなんですね。」
    頷きながら自分で淹れた茶を啜る月島も、菊田と同じ色と柄の浴衣を身に纏っている。
    「んー、この茶請け美味いな。」
    「たまには家で茶でも飲みますか?売店でどうせ売ってるでしょうから。」
    月島も菊田に続き茶請けの花豆を口に放り込み、その甘さと煎茶の渋苦さを味わい目を細める。
    「そうだなぁ。んじゃぁ茶は基が淹れてくれよ。」
    「え、俺ですか?熱湯一択ですが……、それでもいいのなら。」
    菊田はテーブルに頬杖をついて、どこか機嫌良く愛好を崩している。
    「ははっ!いいさ、いいさ。熱い茶を啜るの、嫌いじゃぁないからな。」
    「はぁ。渋すぎても文句言わないで下さいね。」
    「言わねぇよ。」
    月島は、なんだかやたらと機嫌の良い菊田を不思議に思いながらも、これから運ばれてくる美味い飯はなんだろと、軽く鳴る腹に熱い茶と茶請けを入れた。


    ──リィィィン


    「お、来たな。」
    離れの入口から鳴る呼び鈴を聞き、菊田が戸を開けに腰を上げて外に居るであろう女中さんへと声をかけるのが聞こえる。
    「御食事をお持ち致しました。」
    運びこまれる料理が一枚板のテーブルに並べられていき、その美味そうな匂いに心が沸き立ってしまう。
    「最後に、こちらのお櫃に白米が入っております。もし、足りないようでしたら内線にて連絡して下さい。すぐにお持ち致します。」
    「そうしたら、もう一つすぐに持ってきてもらえますか?」
    「そうだな。こんな美味そうな飯が沢山あるんだ、折角なら米と一緒に食べたい。」
    「承りました。それではすぐにお持ち致します。」
    お辞儀をした女中さんは、また音もなく部屋を後にする。
    「さて、山の幸フルコースいただくとするか。」
    「その前に、ビールと日本酒どっちにしますか?」
    月島は備え付けの冷蔵庫から両方を手に取り、菊田にどちらにするか訊ねる。
    「とりあえずビールだな。」
    ビール瓶の栓を開け、お互いのコップにビールを注いで掲げ持つ。
    「それじゃ、基の誕生日前夜祭ってことで。」
    「ふふ、乾杯ですね。」
    軽くコップを合わせ、月島は一口、菊田はゴクゴクと半分ほど飲み、美味そうに唸っている。
    コップを置いた月島は、お櫃の蓋を開けて中に収まっている艶々とした炊きたての白米を早速お椀に盛り付け始めた。
    「はい、ご飯どうぞ。」
    「ありがとな。」
    山盛りに盛られたお椀を受け取り、菊田は並んだ豪華な料理に手を伸ばす。
    山菜の天婦羅に塩を少しつけて齧れば、サックリとした衣に採れたてだからこそ味わえる、青さと苦味が口の中に広がる。その旨味が分かる年齢になってて良かったと、頷きながら白米を口に頬張り咀嚼する。そして残り半分になったビールを流し込み、至福だ、と次の料理へと手を伸ばす。
    「ん、杢太郎さん、この魚美味いです。なんでしょう……、川魚でしょうか?」
    「今の時期ならイワナだな。やっぱり美味いよなぁ〜、塩焼きが一番だわ。」
    月島が箸で解しながら食べているイワナを、菊田は手で掴んで腹から豪快に齧り付き食べ始める。
    「ガキの頃は弟連れて、よく川に釣り行ってさ、釣れたイワナとか塩焼きにして食ったの思い出すわ。」
    「へぇー。うちの方は海で素潜りか、たらい舟でしたから。川釣りとかしたことありませんね。」
    月島は菊田の食べ方を見て、真似するように手に取り齧り付いてみる。塩気がダイレクトに舌にくるのが箸で解して食べるよりも美味しくて、目を少し見開きもう一口と、すぐに齧り付いている。そんな月島の可愛らしい行動に菊田は目を細め、指についた塩を舐めながら昔の記憶を掘り起こす。
    「んじゃ今度夏に行くか。確か、手ぶらで行って全部貸してくれる所があったはずだから。」
    そこから菊田の地元近くということもあり、小さい頃の遊びや家族との思い出、次に長期休暇を取る時はどこに行くか、鶴見や有古達部下への土産は何がいいのか等、料理に舌鼓を打ちながら話に花を咲かせていると、あっという間に時間が過ぎていった。


    ◆◆◆◆◆


    「いやぁ〜、食ったな。」
    「はい。肉が入った鍋と、やっぱり米が特に美味かったです。」
    「俺はイワナの塩焼きが一番だったな。」
    二人はあれから数時間かけて、酒を飲み交わしながら全ての料理を食べ尽くしていった。お櫃も三回ほど持ってきてもらい、下膳時には女中さんから「こんなに気持ち良く召し上がっていただき、きっと料理長も喜びます。代わって、お礼申し上げます。」と嬉しそうに言われてしまった。少しばかり恥ずかしかったが、とにかく全ての料理が美味かったと伝えられたのは、なんだか気持ちが良いやりとりであった。

    腹も心も満たされ、二人は食後のお茶を啜る。もちろん、菊田のリクエスト通りに月島が熱湯で淹れた渋味強い煎茶である。
    「基。落ち着いたら腹ごなしに少し外歩かねえか。」
    「えぇ、別に構いませんが……。どちらへ?」
    「んぅ?見せたいとこがあんだよ。ま、行ってみてのお楽しみだな。」
    片側の口角をニンマリと上げ、なにやら楽しそうな雰囲気を出す菊田に、月島もつられて少しばかり心が沸き立つ。

    見せたいものとはなんだろうか。
    蛍……、にしては時期が早すぎるし、夕食の時に話してた位だから川とかか?

    やや斜め上を見ながら、何処に連れていかれるのか頭の中で考えているのであろう恋人を眺め、菊田は熱さも気にせず煎茶を啜る。


    ──実は菊田、この旅行で月島にプロポーズをすると決めているのである。


    寄りを戻して二ヶ月でプロポーズとは、早すぎるんじゃないかと思う気持ちもあった。
    でも、別れていた一年間の、あの身も心も死んだような生活は二度と味わいたくない。
    もう、月島が隣に居ない生活など、想像すらしたくない。
    もちろん、自分だけの幸せを求めてる訳ではない。
    月島を幸せにする自信があるし、お互いを尊重し支え合える関係性を築くための努力も惜しまない。
    唯一、月島の養父─鶴見─に一生弄られ続けるのだという事だけがネックだが、月島と【家族】になるということは鶴見とも家族となる事なのだ。それくらい受け入れられないような器では、男同士で結婚など夢もまた夢である。


    チラり、と時計を見ればまだ日付けが変わるには早いが、少しゆっくり歩いて向かえば丁度いい時間である。


    「茶、ごっそさん。」
    湯呑みをテーブルに置き、衣紋掛けにかかっていた羽織りに袖を通して、月島にも羽織りを渡す。
    「基も着ていけよ。春っていっても夜は冷えるし、山だからな。」
    「ありがとうございます。」
    月島も受け取った羽織に袖を通す。
    「少し歩くからな、草履じゃなくて靴履いて行こう。」
    靴を履いて戸口を出る菊田の後を、月島も靴を履いて追い掛ける。
    「ふふ。」
    「なんだ、どうした?」
    その後ろ姿が少しだけちぐはぐな感じがして、いつも格好よくキメている菊田とのギャップに、なんだか嬉しくなってしまい笑ってしまった。きっと自分も菊田と同じく少しだけちくはぐな格好になっていると思うと、胸が擽ったくなったのだ。
    「いえ。さ、どこに連れて行ってくれるんですか?」
    「まぁまぁ、ゆっくり歩いて行こうぜ。」
    いつの間に持ち出したのか懐中電灯を手に持ち、旅館の外へ出て車で来た道を下っていく。暫く舗装された道を歩いて行くと、山の方へ入る未舗装の道が脇に見えてくる。どうやらこの先に目的の場所があるらしい。
    「ここから少し山道に入るからな。ん、基。」
    「え、あ……、はい。」
    差し出された手に、別に繋がなくともはぐれたりしないのに、と思いながらも、きっと菊田なりの気遣いなのだろうと思うと邪険に出来ず、手を重ねる。
    「よし。んじゃぁ足元気をつけろよ。」
    菊田は自分より小さな、でも確かに男の手をしっかりと握り締め、月島へニカッと笑いかけて歩き出す。
    こういう時の菊田は素の表情というか、飾りっ気のない笑顔で月島の心臓はいつも跳ね上ってしまい、ドコドコドコと煩く主張してくるので困る。

    握られた手が変に汗をかいてやいないだろうか。それとも、この煩く鳴っている鼓動が伝わっていないだろうか。

    そんな、変な心配をしてしまうほどの破壊力なのである。
    ──つまりは、笑った顔に弱いだけなのだ。

    そんな一人勝手に明後日の方向の心配をしている月島とは裏腹に、菊田はまた別の事で頭がいっぱいになっていた。

    こんな日付けも変わる時間に外に連れ出して、月島に変に思われていないか。いや、特に疑いもせず着いてきた感じからそこは大丈夫……。いや、でも、もし、断られたら………。いやいや、そこは考えるな杢太郎。男だろう。もし、断られたら何度だって伝えたらいいじゃないか。そうさ、別れるわけじゃ………、いや、プロポーズ断られるって事は、そのまま破局するってことか………?

    などと、それこそ握った手に緊張でじんわりと汗が滲んでくるほど、内心激しい不安に駆られていた。
    「も、杢太郎さん。水の音が聞こえますけど、川が近くにあるんですか?」
    「お、おう。そうだな、暗くて見えねぇけど近くに渓流下りも出来る有名な川があるから、多分それじゃねえか?」
    「……ふふ。」
    「……ははっ。」
    二人とも何故か吃ってしまい、そんな自分達がなんだか可笑しくて、お互いの顔を見たら耐えられず噴き出してしまった。
    「はぁー……ぁ。なんか、夜の山って不思議ですね。静かだと思ったら色んな音が聞こえてくるんですね。」
    「そうだな。川の流れに虫の鳴き声、木の揺れる音とか意外と賑やかだわ。」
    「佐渡は全部波の音が攫っていってしまうので。……杢太郎さんは、こんな夜の音を聞いて育ったんですね。」
    月島は小さい頃、夜に聞こえてくる波の音が苦手だった。耳を抑えても、どうしてだかずっと頭の中で波音が響いて、身の置き所がなくなってしまうあの感覚が、今思い出してもどうにも好きになれない。
    「ガキの頃はそんな気にしたこと無かったけどな。でも確かに木とか虫の音を聞きながら寝た記憶はある。あぁ、藤次郎がな、まだ小さい頃風がすげぇ音で鳴るもんだから、お化けが叫んでるって泣いてたなぁー。こっちはさ、風が強くて窓が揺れる時とかしょっちゅうあんだよ。」
    きっと幼かった頃の自分も怖かったと思うのだが、弟を守らねばと兄としての記憶しか残っていない。
    「藤次郎さんって、今はどちらに居らっしゃるんですか?」
    「ん?あー……、地元に残って板前やってる。美味い飯作って、それ食って喜んでる人の顔見るのが好きなんだとよ。」
    「いつか、藤次郎さんの作った料理食べてみたいです。」
    「そうだな。─まぁ、いつか、な。基、次のとこ右に曲がった先がお前さんを連れてきたかったとこなんだが、目ぇ瞑ってくんねぇか?」
    「目、ですか?」
    菊田は改めて繋いだ手に力を込めて、月島の目を真っ直ぐ見つめる。
    「転ばないようにちゃんと誘導するから、そこは安心してくれ。」
    「今更、貴方に体を預けるのに躊躇なんてしませんよ。」
    「───っ!」
    月島はそう微笑み返して、両目を閉じ菊田の手をしっかりと握りしめる。目を閉じた月島には見えないが、月島からのその言葉と信頼に、菊田は感極まって泣きそうになっていた。

    あの、警戒心が高くて人に弱みを見せるのも嫌う月島が、自分には無防備な体を預けてもいいと言うのだ。

    菊田はグッと気を引き締め、月島の手を引いて歩みを進める。
    数分ほど歩いた先、目的地へと辿り着いた。
    歩いている感覚が砂利道から草や土の上に変わった事で、月島もその事には気付くが、まだ目を開けていいと言われないので、閉じたまま菊田に手を引かれるままに歩みを止めない。
    菊田はゆっくりと月島の手を引いて、ある場所の前で立ち止まる。
    緊張で高鳴る鼓動を少しでも落ち着かせようと、一度深く息を吸って吐く。
    そして懐中電灯の明かりを消し、月島の両手を取り緩く握り締める。
    「……はじめ、目、開けていいぞ。」
    「……──桜?」
    月島の目に入ってきたのは、それは見事な枝垂れ桜だった。辺りは月光の青に草がさざめいているのに、この一本だけは控えめにライトアップされており、頭上を桜色の世界に包まれていた。
    「この一本だけな、毎年早咲きで、この時期は日が沈んでから明けるまでライトアップされてんだよ。これをな、基に見せたかったんだ。」
    「……凄いです。」
    口が半開きになってしまっているのも気づかずに、月島は頭上に広がる桜色の世界に圧倒されていた。
    桜の影が月島の周りを彩って、色白の肌と翠緑の瞳に淡い桜色が混じっている。──綺麗だ、と。男の恋人に思うのは変かもしれないが、不思議と綺麗という言葉が一番しっくりくるのだから仕方ない。

    この、綺麗な男と、ずっと───……。

    「はじめ。」
    「杢太郎、さん…?」
    菊田は握っていた月島の手を自分の左胸へと持っていき、上から手を重ねてその翠緑の瞳を見詰める。
    月島は何やら真剣な表情の菊田に困惑するが、手を当てた所から早鐘のように鳴る鼓動が伝わり、何も言わず鳶色の瞳を見上げる。
    「俺、な。基と寄りを戻せて、今、こうして一緒に居られる事がなによりも幸せで、大切なんだよ。」
    「………。」
    「基の笑った顔が何よりも好きだ。安心して素で居られるのも基にだけだ。勿論、一人の男として頼りにもしている。」
    「………。」
    腕時計をチラりと確認した菊田は、手を一旦離して跪き月島を見上げる。
    ドクドクと、自分の煩い鼓動を無理くり無視し、月島は菊田の言葉を一つも聞き逃さないようにただ黙って耳を傾ける。
    ひとつ、大きく息を吸って、菊田は小さな宝石箱を取り出し、中身が月島に見えるように開く。
    「────っ!」

    ───そこには銀色に光る指輪が鎮座していた。



    「はじめ。俺と、家族になってくれないか。」



    月島は泣いていた。
    まさか、自分の人生において誰かにプロポーズされるとは夢にも思っていなかった。今は恋人として付き合っているが、心のどこかで、いつかはきっと、菊田に振られて孤独な余生を過ごすのだろうと思っていたからだ。
    孤独には慣れている。鶴見に拾われた事が奇跡みたいなもので、自分なんて存在が、誰かに求められて認められる事は滅多にあることでは無いと思っていた。菊田と別れてからのアノ一年間、身も心も死んだような生活も経験しているし、寄りを戻してからの幸せな記憶だけを大切に細々と味わいながら、惨めったらしく生きていければそれで満足だと思っていた。

    なのに、まさか。──家族になってくれ、とは。

    自分だけの家族。憧れた事がないと言えば嘘になる。でも、そんなものは幻であって、早々に諦めていた。鶴見の家は確かに家族ではあるが、どうしたって遠慮が生まれてしまう。鶴見と美人な奥様に可愛らしいお嬢様。そこにこんな自分が並んでも明らかに異質なのは明白だった。
    菊田と恋人になったとしても、所詮は男同士で日本では婚姻関係を築ける訳ではない。それに世間の目というものが常にある。そんな負い目を菊田に一生背負わせるなんて、こんな、素晴らしい人の未来を汚してしまうなんて出来ないと思っていた。


    それを、この人は、全て受け止める覚悟でいるのだ。


    「杢太郎さん……。俺、おれ、は……。男です。女性みたいに貴方の子供を産むことも出来ません。それに、施設育ちで実の両親も知りません。卑屈ですし、料理も上手くありません。正直言って、全く釣り合ってません。それでも……、それでもっ!こんなっ、俺でもいいと言うのなら……。こんな、おれでも……、杢太郎さんの家族になれますか……。」
    月島は流れる涙はそのままに、いまだ跪いたままの菊田へと震える声で心の底からの叫びを吐露する。
    「──嗚呼、勿論だ。基がいい。基以外、考えられない。だから、なぁ頼むよ。イエスって言ってくれねぇと涙も拭いてやれねぇ。」
    「──はいっ!杢太郎さん、これからも、宜しくお願いしますっ!」
    月島の返事を聞いた瞬間、菊田はその体を抱き締めて涙を指でぬぐってやるが、翠緑の瞳からは涙が溢れて止まらない。
    「俺からも、宜しくな。あ〜あ〜、そんな泣くと目が溶けちまうぞ。──笑ってくれよ。」
    涙が止まらない月島が愛おしくて、たまらなくて、瞼に口づけを一つ贈って蕩けるほどの甘い笑顔をむける。
    「止まらっ、なくて…。ふふ……、ねぇ杢太郎さん。おれ、嬉しくて涙が止まらないの、初めて知りました。」
    「──そうやって、二人で初めての事増やして生きていこうな。」
    「はい。」
    いまだ涙の滲む瞳を細め、今迄見たことのないほど幸せに月島が笑うから、菊田はこの笑顔を一生忘れないように目に焼き付ける。
    「なぁ基、指輪嵌めてもいいか。」
    「はい。」
    月島は差し出された菊田の大きな手に左手を乗せると、先程見た指輪がゆっくりと薬指を通っていき、ピッタリと嵌った指輪はキラキラと輝いて見える。
    「それでな、こっちは基が嵌めてくれ。」
    そう言って渡されたのは、自分に嵌められた物よりも少しだけ大きな、同じデザインの指輪だった。
    月島は菊田がしたのと同じように掌に左手を乗せてもらい、薬指に指輪を嵌めようとするが緊張で手が震えてしまう。それでもなんとか根本まで嵌め終え、そっと手を離す。
    「っふー……。」
    いつの間にか息を止めていたらしく、大きく息を吐き出してお互いの左薬指に嵌った指輪を見詰める。
    やはりキラキラと輝いて見えるから不思議な気持ちになる。
    「これで俺たちは夫夫ふうふだ。」
    「夫夫…。」
    菊田は月島の左手を握り、頭上を指さして「今夜は満月だ」と伝える。
    「証人、というのか分からんがな。─生涯の伴侶として添い遂げる、その努力を惜しむこと無く、お互いに尊重し合うことを、この桜と月に誓おう。」
    「はい。俺も、──杢太郎さんと生涯の伴侶で居られるよう努力し、尊重し合うことをこの桜と月に誓います。」
    目と目を合わせ誓い合う二人の距離は自然と近ずいていき、やがてその唇は重なり合い、ゆっくりと離れていく。

    そこに居たのは、もう恋人同士の二人ではなく、夫夫としての二人が微笑み合っていた。

    「さて、じゃぁ残りの六日間、ゆっくりと過ごしていこうな。」
    「そうですね。とりあえずもう一度風呂に入りましょう。勿論、二人一緒に。」
    「嗚呼。」
    二人は手を重ね、残りの六日間をどう過ごすか話しながら来た道を戻って行く。その足取りはゆっくりと、でも、明るい二人の未来へと繋がる、しっかりとした力強い足取りだった。




    ──その後ろ姿を月と桜が静かに見守っており、月明かりに照らされた二人の左手からはキラリと指輪が輝いていた─────……。

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