進化論XYZ暗闇で息をひそめるということ
1.
息を呑んで、司会者が口を開くのを待つ。スタジオに集められたギャラリーもゲストの芸能人たちもため息一つつかずに司会者が答えを叫ぶのを待ちかまえていた。二人一組の回答者は手を組んで正解を宣言されるのを祈っている。張りつめた空気が息苦しい。正解は――司会者がマイクを強く握る。
「CMの後です!」
ええっー、と抗議の声が一斉にダイニングに響いた。提供画面を映したテレビはすぐに車のCMに切り替わる。
「わたし、絶対Aだと思います」
「僕も!」
シンもレオも気が抜けたのか机につっぷしたまま主張する。
「Bじゃないのか?」
「いーや、Cにきまってる! 全知全能のおれが言うんだから間違いないっ!」
「ボクはDだと思うな。香賀美は?」
「さぁ……A?」
「だよね!」
「やったぁ、三対一対一対一です。これは決勝戦進出ですね」
クイズはテストと同じで苦手だ。隠された答えを探すなんてまどろっこしい。明後日には実力テストのはずだったが、みんなは今日はこれが勉強の代わりだと言って一時間だけ現実逃避している。もっとも高校の最高学年になって進路も夏の間に決まった先輩たちにとっては、二学期のテストはあまり意味をなさないのかもしれなかった。オレは逃避もなにもハナからしていないので、ここにいるのもただなんとなくだった。
部屋に戻ろうとして、台所の前を通りがかるとカケルがいた。皿洗いの当番だったらしく、シンクにむかって一人でスポンジを泡立てていた。役のために髪を伸ばしているカケルのまとめられた後ろ髪は犬のしっぽみたいに短くて、癖毛が好き勝手な方向に跳ねている。なんだか知らないやつみたいで嫌だった。ふと耳を澄ますと、食器に水が跳ねる音に混じってブツブツとつぶやく声がした。カケルだけは、明後日からテストではなく地方で映画のロケが待っている。先輩たちはもうすぐ撮影なんだからと当番を代わろうとしたのに、カケルが自分の仕事だからと言ってきかなかったのを思い出した。変なところでマジメでガンコなやつ。
オレは暗い廊下から台所につま先の向きを変えた。
「あっれー、タイガきゅんどしたの? まだ食器のこってた?」
無視して腕まくりをする。
「スポンジ貸せよ」
「お手伝いもありがたーいけど、勉強しといたほうがいいんじゃない?」
むっとしたまま黙って手を差し出していたら、あきらめたのか泡立ったスポンジを手渡した。
「サンキュ。そうだ、おれっちの中学時代のノート、机に置いとくからよかったらシンちゅわんたちと参考にしてねん」
しばらく、狭くなったシンクに食器同士が触れあう音と水音だけが響いた。
「……しねえの?」
「何を?」
「さっきまでやってたろ? 台本読むの」
シンクの上、照明の手前を顎でしゃくった。磁石付きのクリップがひっつけてあるそこには、普段はミナト先輩の料理の本が挟まっている。今日は代わりにカケルの台本が挟んであった。
「聞いてたんだ」
目尻が赤く染まる。こうして照れられるとなんだか秘密を覗いていたみたいで、オレも居心地が悪くなった。むずむずした気持ちをミートソースだらけの鍋にぶつける。
「髪、そうやってると違うやつみたいだな」
「芸術家っぽくなったっしょ。イケメン度アップで惚れ直しちゃったってカンジ?」
「なんで惚れてること前提なんだよ」
「外ですれ違ってもわかんないかもね。別人すぎて」
カケルは肩をすくめて笑った。じゃあつきあってもらおうかな。台本読むの。食器洗ってる間だけでいいからさ。
廊下をシンたちがぞろぞろ部屋に向かって歩いていく。クイズは? 応援してたチームが負けちゃって。手伝いを申し出てくれたが、あとはすすぐだけだからと断った。足音が消えて静かになると空っぽのはずのダイニングからテレビの音がかすかに聞こえた。カケルもオレも消しにいこうとは言わなかった。
「タイガくんはヒロイン役やってね」
「はぁ、ほかのシーンないのかよ」
だってほら、これラブストーリーだしぃ。歌うように言うとカケルは布巾を手にした。しまりが悪くなった蛇口からぴたんと雫が落ちた。
台本を覗く。赤や青のペンでびっしりと書き込みがしてあった。人物の感情や監督と話し合ったこと、ヒロイン役との会話もメモしてあった。こういうところは素直にスゴいと思う。絶対に言ってやらないけど。
いくつか台詞をやりとりしてみる。ヒロインと主人公の会話は、ラブロマンスというより喧嘩みたいだった。互いに整理できない気持ちを言葉で殴るようにしてぶつけあう。カケルも本読みだからといって力を抜くわけではなく、手では食器を拭き続けているものの、口調や表情は役になりきったそれだった。この映画、意外とおもしれえかも――興奮のままページをめくると、ト書きにカケルの役の方から不意打ちでキスをするとあった。
「なっ……」
「ひょっとしてタイガきゅん、照れちゃってる?」
ふっふふと猫みたいな口をしてにやつくカケルの脚にローキックをかます。手が濡れていることを配慮してだ。ちょっやめてとすぐさま抗議の声があがった。
「照れてなんかねえ! チャラチャラしてんなって思っただけだ」
「タイガだってこういう仕事来るかもよ」
「うっ……」
「それで相手役の女の子とつきあったりして」
しゃべりながらもオレたちは手を止めなかった。オレは洗った食器をひたすらすすぎ、カケルは拭いた。きれいになった皿はカケルの横へと積まれていく。
「どこまで妄想してんだよ」
「そうだね……タイガはもし俺がそうなったらどう思う?」
「さぁ、別に。好きにすればいいんじゃねえの」
「そう言うと思った」
その言葉にむっとした。今のそれは信頼じゃなくて諦めから出た言葉に違いなかった。勝手にオレに対してなにかを諦めたのだ。こいつはときどきそういうことをする。なにを期待しているのかも言わずに一方的に諦めるのだ。
「なんだか自分のファーストキスが銀幕に映されるのって変な気分。そういうのって本来『二人だけの秘密』ってかんじするじゃん」
オレの不機嫌を察したのかすぐに話題を変える。こいつは感情の機微には鈍感なくせに、その原因には気づかない。
「お前、秘密シュギだもんな。大事なことは隠そうとするし」
「……そうかな」
やっとシンクが空になる。濡れた肌が冷たい。水が気持ちいい季節は終わって、秋になっていた。
「最後だから」
カケルが自分に言い聞かせるように囁いたと思うと目の前が真っ暗になった。
正解はガイアナです――聞き慣れない単語が耳を通り抜けていく。ファンファーレが鳴って、優勝とか賞金とかペア旅行とかそんな言葉が続いた。そうだ、テレビがつけっぱなしなんだった。頭の隅で考えながら、唇に自分とは違う熱が重なっているのをどうしようもなく感じた。さっきまで、二人ともしゃべっていたから湿っている唇。ほんの一瞬だった。なぁこれ、撮影ならNGなんじゃねえの?
薄目をあけるとぼやけた橙色一色だった。その光景は一枚の写真みたいにオレの頭の中に棲んだ。後頭部からカケルの手が離れて初めて強く頭を掴まれていたことに気づく。オレの濡れた唇を拭っているのはカケルの親指なんだろうか。
ぴたん。
ゆるんだ蛇口からまた雫が落ちた。
「不意打ち成功、なんてね」
台詞の軽さとは裏腹に、カケルの声はうわずっていた。ただ、その不釣り合いに明るいトーンを聞いてオレの脳味噌はだんだんとカケルがしたことを把握していった。
「おま、今、なに」
正解はガイアナです――さっきのクイズの答えが頭の中をぐるぐる回って、なにを言うべきか考える邪魔をする。なにか言わなくてはならないはずなのに、頭は使いものにならないし、肝心の唇はカケルの指が留め金のようになっていて動かせない。手を払いたかったけど、ずぶ濡れだからやめた。
「ウブなタイガきゅんには刺激が強かったかな? でも俺としたことなんてノーカン、ノーカン。浮気にもはいんないよ。未来のカノジョも許してくれるって」
カケルは一人でまくしたてながら、痛いぐらいにオレの唇を拭い続ける。その瞳は照明が反射するくらい潤んでいて、睫毛も湿っていた。
「いてぇ」
やっと、それだけ絞り出すように言うと、手を離した。まるで痛めつけられていたのは自分だったみたいな顔をして。ごめん、全部忘れて。小さな声でつぶやく。それからぱくぱくと口を動かしていたけど、結局なにも声になることはなかった。よろめくようにして台所を出て行こうとするから、とっさに腕を掴もうと手を伸ばしたのに、濡れた掌を思い出して結局やめた。しっぽみたいな髪は歩き方とは裏腹に元気よく揺れながら遠ざかっていく。カケルがうつむいているからしっぽは天井に向かって生えているように見えた。
「ばかやろ」
がらんとした台所に覇気のないオレの声だけが残った。
あれから十日が経つ。カケルとはまともに話をしていない。あの日の翌々日からあいつは映画のロケに行っているのだから仕方なくはあるけど。あの後すぐにカケルは実家に帰ってしまった。出発の日の前日も、荷造りを理由に寮には戻ってこなかった。今はメールも電話もどれも通じない。カケルを見たのは、乾いた食器を棚にしまっている途中でほとんど荷物も持たずに飛び出して行く姿が最後だ。あんなに急いで出て行ったのに、部屋に戻るときちんと定規で測ったみたいにノートが机の上に揃えてあった。
テストはといえばもちろんさんざんで、赤点だらけだった。唯一の救いは補習ではなく課題で済んだということだった。今日は雨の土曜日で外にも出られない。仕方ないからどうにかこうにかプリントの空欄を埋めるために机に向かった。霧吹きみたいな雨が静かに静かに窓を濡らす。数学も英語もすぐに飽きて、あっという間に机につっぷす羽目になった。ほかのやつらはノートのおかげでヤマがあたったらしく、高得点だったみたいだ。パラパラと数学のノートを捲る。四角張ったカケルの文字が目の前を流れていく。きれいにまとめられた数式、蛍光ペンで囲まれたポイント、色分けされた付箋。テスト範囲のページを見つけたので開いてみる。綴じ目の部分に橙色の髪が挟まっていた。しっぽのついた別人みたいな後ろ姿が脳裏をよぎる。唇に手をあててしまっていることに気づいて誰もいないのに赤面してしまった。あの日から思い出す度に唇に触れてしまう。
こんこん。
扉がノックされた。レオと太刀花先輩だった。
「社会のノートを返し忘れちゃってました」
ドアの隙間からノートだけ受け取ろうとしたが、レオは素早くつま先を扉にさしこむと微笑んだままするりと部屋に入ってきた。当然のように太刀花先輩も後に続く。華麗な手さばき――正確には足さばきか――で押し入った二人は悪徳セールスマンみたいだ。レオは机にノートを置くとでは、わたしはこれでと入ってきたとき同様に嵐のように去っていった。必然的に太刀花先輩と二人きりになる。気づけば窓ガラスを叩く音がするくらい雨粒が大きくなっていた。
「な、なんなんすか」
「カケルのことなんだが……」
台所での出来事がチカチカと瞼の裏を走り回った。太刀花先輩が床に正座したので、オレもつられていずまいを正した。ぴんと天井から糸を張られたような伸びた背筋と向かい合う。
「タイガにとって納得のいかないこともあるかもしれないが許してやってほしい。……もちろん、自分が口を出す立場にはないことはわかっている」
湿った唇の感触、濡れた手で掴まれた後頭部、潤んだ眼鏡の奥の瞳。最後に言い放った、全部忘れて。納得なんていかないことばかりだった。
それよりなんであの夜のことを知ってるんだ? まさか話したのか?
「カケルもこの半年ずっと悩んでいたんだ。ミナトとも三人で話をしたし――」
半年? 話?
「プリズムショーをやめるというのも仕事に専念するためで――」
「待ってください、話が読めないんすけど」
「もしかして聞いていないのか?」
太刀花先輩は目を見開いて、そこで初めて姿勢を崩した。開けてくれと言わんばかりに、雨に加えて風も窓を叩きつける。がたついたガラスが窓枠の中で震える。最後だから。カケルはそう言ったはずだ。最後。ほら、やっぱり秘密シュギだ。
「あの、携帯貸してもらっていいすか」
2.
金曜日の朝の国内線は出張へ向かう勤め人か外国人観光客ばかりだった。観光客と言ってもシーズンでもないからバックパッカーがほとんどだ。移動するときの孤独に慣れた人たちがぞろぞろと列をなして飛行機に乗り込んでいく。その中の一人に自分もはいっていた。
離陸を知らせるアナウンスが流れる。奥歯で飴玉を転がしながら座席にもたれた。隣席はもの静かな老婦人で飴玉も彼女がくれたものだった。振動が浮遊感に変わる頃、巨大な鉄の鳥は目的地に向かって飛翔していく。手元の鞄から台本を取り出した。正直、今はあまり目にしたくなかったがそういう訳にもいかない。耳の奥が気圧の変化におびえてキーンと嘶きつづける。治まるまでは大人しくしていようと、ページをもてあそんでいると覚えのないメモを見つけた。
「好きなもの作ってみんなで待ってるよ ミナト」
キッチンに台本を忘れたことに気づいたのは夜中に自宅に帰ったときだった。ノートをタイガの部屋に運ぶのは忘れなかったくせに、自分の台本についてはすっぽり頭から抜け落ちていた。暢気なんだか余裕がないのか自分でもわからない。その後、慌ててミナトに連絡をして翌日に学校で手渡してもらったのだ。そのときはメモには気づかなかった。
タイガの様子についてそれとなく尋ねようとすると、撮影が終わったら話し合ったほうがいいと先に諭されてしまった。だからちゃんと帰ってくるんだよ、とも。厳しくも優しい朋輩に感謝しつつも、何回目か数えることも面倒なほどの後悔と懺悔をまた繰り返した。後悔はいくつもあった。キスをしたこと、それを冗談にしたこと、謝りもせずに逃げ出したこと、メールにも電話にもだんまりを決め込んでいること。このままリストを追加していけば、最終的に生きていることまで後悔しそうなくらいネガティブな方へと思考の渦はねじれていった。安定し始めたエンジン音がぎゅるぎゅると窓の向こうでがなり続けた。
自分がファーストキスに憧れるほどのメルヘンチックな感情を持ち合わせてるとは思わなかった。台本を渡されたときも、自分がしなければならない諸々のことの確認をされたときも。
「俺は撮影で初対面の女優と初めてキスするのが怖くってさ。本番の前日に同じ事務所の好きだったモデルの子に告白してキスしちゃったんだよ」
それが今の嫁さんなんだけどね。共演者のベテラン俳優は照れくさそうに笑って俺の肩を叩いていった。普段はそんなことを言うような人ではないから余計に印象に残ったのかもしれない。俺の中でそこで初めてファーストキスと自分の恋愛感情が結びつけられた。そういったものは誰かが選んだどこかの十王院の姓がふさわしい知らないお嬢さんに捧げることになるんだろうと諦めていたから。好きな子――口の中で鸚鵡返しにつぶやいてみる。伸びた前髪で隠れがちな眠たげな瞳と白い肌。しなやかなのに力強い若木のような体。からかうたびに低めの大きな声で怒ってくる。単純で素直でときにそのまっすぐさが痛くて。だからこそ、「秘密シュギ」な俺は惹かれるんだと思う。こんなふうに、自分の感情に理由をつけようとしていることだってタイガには野暮だと叱られそうだ。
濡れた唇に触れたとき――端から見れば触れたかどうかも怪しいぐらい一瞬――味なんてなにもしないことに驚いた。初めてのキスはレモンの味なんていうけど、舌の上で小さく溶けていく飴玉のように甘くもなかった。甘かったのは自分の認識だった。タイガが誰かの唯一になっても、俺が誰かの唯一になったことをタイガが何とも思わないとしても、耐えられる。ずっとそう思いこんできた。いや、言い聞かせてきた。それなのに、あの夜キッチンで面と向かって「好きにすればいいだろ」と言われてしまって、自分でもどうしようもできなくなってしまった。プリズムショーをやめてしまえばきっと会うことなんてない、なんの共通点もない俺とタイガ。感情が奔流となって体を突き動かそうとした。体が熱くなるのがわかる。なのに指先は冷えていく。好きにすればいい。ああ、好きにしてやる。絶対に悟られまいとしていた感情をそのままタイガの唇に押しつけた。そして、薄い肉に触れてすぐさま後悔した。緑色の見開かれた瞳が瞬きも忘れて俺を凝視することが耐えられなかった。必死になって親指で唇を拭う。濡れた唇を乾かしたぐらいで、なかったことになるはずがないのに。今にして思えば、なにも言わせないようにする枷のつもりもあったのかもしれない。身勝手も甚だしいけど、あのとき、真っ向から否定の言葉を浴びせられることだけは嫌だった。だから、否定される前に自分で言い訳をした。
飛行機が着陸態勢に入る。空なんてろくに眺めないままフライトが終わろうとしていた。耳の奥が針で突かれたように痛む。老婦人がまた飴を差し出してくれる。琥珀色のそれはべっこう飴だった。半分溶けた飴は頬の裏側にはりついて気持ち悪い。お礼を言おうと思ったけど巧くしゃべることができなかった。いっそ、このまま嘘もつかず本当のことも口に出さないで済むように溶けないでいればいいのに。
スタッフに手渡された紙コップには焦げ茶色のコーヒーがなみなみと注がれていた。ミルクも砂糖も遠慮してブラックのまま酒を飲むようにあおった。こういうときに酔えたらいいのになと心から思う。あとは撮影の準備さえ整えばキスシーンだ。
普通は川なら川でのシーンを部屋なら部屋でのシーンを実際の映画の流れに関係なくまとめて撮影するが、今回の監督はなるべくストーリー順に撮りたいと主張していた。このやり方は演技の初心者だったヒロイン役の子にはちょうどよかったらしい。
やっぱり歯ブラシは持ってきておいて正解だった。ただ、肝心の水がない。着々と作られていく現場をうろついていると、側溝の縁に腰掛けて一心不乱に歯を磨く彼女がいた。溝は幅は大してないものの、深さは一・五メートル以上はあるだろう。どうしてそんな危ないところにいるのか気になった。
「なんでこんなとこで歯磨きしてるの?」
後ろから声をかけるとこっちが驚くぐらい彼女は肩をびくつくかせて振り向いた。
「ふへふひゃん。ひょひょ、ひへえなふぁひひずひゃへへふんひぇふ」
肩にジャンパーを羽織った彼女は、唇まで泡で真っ白にしながら説明(たぶん)してくれるが全くわからない。それを察したのか側溝の向こう側にあるコンクリートの崖を指さした。崖の壁から細いパイプが突き出て、そこからちょろちょろと水が流れている。横にかすれて消えかかっているが、それを湧き水だと示すプレートが貼りつけられていた。
「じゃあおれっちもご相伴しよっかな」
自分の歯ブラシを振ってみせると、彼女は泡まみれのまま微笑して地面に敷いたタオルを叩いた。
湧き水は心地よい冷たさで、歯磨き粉のミントとは違う爽快感がする。口をゆすぎ終わってもなんとなく俺たちは黙っていた。名前も知らない鳥の鳴き声や植物同士がこすれる音がする。九月の風は残暑を連れ去るかわりに涼しさを残して吹いていく。ここでロケをするようになって気づいたことだけど、山には静寂がない。いつでも何かが動く気配がする。防音加工が施されたタワーマンションにはないざわめきが常にどこかにあった。それは優しい音楽のようで、だからか沈黙も苦にならなかった。
「今のはヒヨドリですね」
鳴き声の一つがそうだったらしい。俺にはどの音のことを言っているのかさえわからなかった。
「ヒヨドリって街にもいるやつでしょ」
「詳しいんですね」
歯を磨き終えてから、初めて目が合った。けれどすぐに逸らされる。
教えてもらったんだけどね。俺はアスファルトにゆっくり倒れ込んだ。秋の空は澄んでいて落ちてしまいそうなほどに青かった。いや、空なんだから飛んでしまいそう? 鳥の列が楔形になって飛んでいくけれど、やっぱり名前はわからない。
「もうすぐ撮影始まりますね」
「緊張してる?」
「カケルさんって、キスしたことありますか?」
俺は頭の下で腕を組む。伸ばした髪が肌に触れた。タイガに別人みたいだと言われた髪。早く切ってしまいたいような気もするけど、このままいっそ伸ばし続けて別人になってしまうのもいいかもしれない。少なくとも、無理矢理キスしてジョークにする男よりマシだろう。キッチンでしでかしたことは忘れたいし忘れてほしかった。目を見開いて何も言えずにいたタイガ。絶対に困らせるまいと思っていたのに、一番ひどい形で別れてしまった。
「あるよ」
寝ころんだまま彼女を見上げる。むき出しの腕を投げ出して彼女も空を見上げていた。白い肌がきれいだと思った。この十日で何度も彼女に触れて、何度も囁きあった。時には怒鳴りあった。一緒に来て。忘れないでね。離したくない。泣かないでよ――演技は初めてだと言っていたけれど、彼女は魅力的役者だった。それでも大事な場面で脳裏をよぎるのはいつもタイガだった。我ながら役者失格だ。木漏れ日の下で昼寝をする彼女を揺り起こしたときは、寮の木の上で眠るタイガを思い出した。川でわざと服のまま泳いだときは、雨に降られてびしょぬれになって帰った時を思い出した。あの日は持って来ていた折り畳み傘をこっそり隠したっけ。傘があるとわかってもタイガなら走ってしまいそうだと思ったから。もしかしたら、断られるのが怖かったのかもしれない。そんなはずはないのに。
「キスしたときってなに考えてましたか」
「ずっと謝ってた。心の中で」
彼女は空を見るのをやめてこちらを振り向いた。初めてまともに目があった気がする。泡だらけの両手を宙にさまよわせて呆然としていたタイガはこの十日間、思い出そうとしなくてもいつも瞼の裏にいた。どこかでまた知らない鳥の声がした。
「……なんでか聞いてもいいですか」
「不意打ちでしたから」
彼女の視線が強くて思わず今度はこちらから目を逸らす。ビジネス上はうまく振る舞えても、感情をぶつけあうにらめっこには弱い。湧き水が側溝に流れ落ちる様をみつめるふりをした。二度とあんな弱々しい「ばかやろ」は聞きたくない。
遠くでスタッフが呼ぶ声がする。俺たちは立ち上がると少し声をひそめて歩き出した。
「カケルさんのことだからスマートにファーストキスも済ませたのかと思ってました」
「違うよ。もう最悪。大大大大失敗」
俺のことをなにも知らず、彼女のことも俺は知らないんだと思うと誰にも言えなかった苦い話がするすると口から出た。
スタッフの一人に歯ブラシを預ける。その間、二人とも口をつぐんだ。風がひときわ大きく吹いて彼女の髪を乱した。黒い糸がほどけるように髪が揺れる。
彼女の射るような瞳がタイガに似ていると思った。
「でも、初めてが大大大大失敗ならもうなにも怖くないですね」
そのとき、ポケットの携帯がここにいるぞと主張するように鳴り始めた。
3.
夏に停電が起きた日があった。
ジャンプを跳ぼうと体を捻り宙に浮いた瞬間に目の前が真っ暗になった。まるでスイッチでも押したみたいに一瞬で暗くなったから、どっちが壁で床で天井なのかもわからなくなって体のバランスを崩した。なんとか着地はしたものの、スピードをうまく殺せない。悪態をつきながら手足を闇雲にふりまわす。て、停電? みんな動かないで、その場にじっとして。大丈夫ですかユキ様。そこここから誰かの声がするけどどこにいるかはわからなかった。ぶつからないようにと焦れば焦るほど脚は言うことを聞かない。紙に乱暴に鉛筆で線を引いたみたいな音を立ててブレードがリンクを滑っていく。
もしかしてタイガ?
自分の名前が呼ばれたのを聞くのと誰かにぶつかったのはほぼ同時だった。ごちん、と大きな音がしたけど音の主はオレではなかった。それでも、衝撃は大きくて思わずうめき声が漏れた。
「った……」
オレが掴んでいる練習着の主も同じようにうめきながらももぞもぞと動いて、何かを確認するようにオレの体のあちこちを軽く叩いた。
「タイガ、だ、よね?」
「カズオか?」
カケルだと言い直すいつもの挨拶を繰り返しつつも、その手は休まず動いていた。
「怪我してない?」
「ああ」
「すぐこっちに向かってきてるのわかったよ。ヤンキーってば口が悪いんだから」
「んだと、お前」
離れようとして勢いよく手を突っぱねてから、ここがリンクなのを思い出した。しかも真っ暗な。また体勢を崩しかける。本能的に前にバランスを戻そうと、今度はさっきよりも密着する形でカケルを掴んだ。掴んだと言うよりは抱きついた、に近かったかもしれない。
「あんまり暴れちゃ危ないよ」
言葉が息と一緒に耳に届いて思わず体がふるえた。声がいつもより穏やかに聞こえたのは暗闇のせいなのか。体温に少しだけ安心してしまったからそう思ったのか。
「怖いからってひっつきすぎじゃない、タイガきゅん?」
やっぱり今のはナシ。いつも通りのカズオだ。ただ、耳にかかった髪が息でなびいてくすっぐたかった。肌が粟立つ。カケルの右手が左肩から腕に沿って肘、手首へと這ってくる。まだ鳥肌が立ってるってことに気づかなきゃいいけど。ちょっと、手かしてて。少し動くからね。手首を軽く握るとカケルはそっとオレをひきはがした。さっきまで体全体で感じていたカケルの体温が急に消えて不安になった。宇宙に一人取り残されたみたいだ。唯一つながっている手首だけが最後の命綱のように思われて、空いた手で手首に添えられたカケルの手を探した。なめらかな肌に触れると、息をのむカケルの声が聞こえた気がした。
「引っ張るよ」
「ん」
力を抜くとブレードがリンクの上を滑る。もう片方のカケルの手も重ねられて、四つの手だけが暗闇の中で信じられるものになった。
「ほら、ここが壁だから」
カケルの手ごと、壁に掌が押しつけられた。煉瓦の堅い感触が暗闇の中ではほっとできた。さっきは壁にもたれていたカケルにオレがぶつかってしまったのだろう。もし、ここにカケルがいなければ大怪我をしたのかもしれないと一瞬ぞっとした。
「カケル、タイガ、大丈夫か?」
ユウの声がする。
「大丈夫だよん。タイガくんも一緒だから。みんなは?」
あちこちから声が聞こえる。声を掛け合った結果、オレたちが一番、出入り口から遠い壁際にいることがわかった。運が悪いことに全員がリンクにいたから携帯も手元にない。とりあえず、暗闇に目が慣れるまでその場でじっとしていることになった。その間に山田さんが来るか、また明かりがつけばラッキーだけどね。話し合いの最後にカケルはそう締めくくった。
「待っている間、なにかしましょう!」
そう言いだしたシンの提案で結局しりとりがはじまる。二人で固まっているのはオレたちだけだったので、先頭がカケルで最後がオレになった。
「しりとりなんて小学生のとき以来かも」
壁に背中を押しつけてオレたちは並んで腰をおろしていた。なんとなく手は重ねたまま。豆粒ほどの光もない空間で誰かが傍にいるとわかるのは正直心強い。
「め、だ、か!」
リンクにカケルの声が響く。どこまでが壁かわからないリンクはいつもより広く感じる。気を抜けば闇に吸い込まれそうだ。シンたちがどこにいるかわからないから自然と声も大きくなる。
右手の方からシンの声でか、ら、すと叫ぶ声が聞こえた。どこに誰がいるかなんとなくわかるこの提案は案外よかったのかもしれない。
テンポのよかったしりとりも十何周目かにさしかかるとさすがに途切れがちになった。目も少しずつ慣れてきて安心しているのもあるだろう。張りつめていた空気が和らいでいっているのがわかった。むしろオレたちはちょっとした非日常的な出来事を楽しもうとさえしていた。しりとりはオレの番だったけど、次はどうせカケルなので勝手にタイムをとる。だいたい「ぬ」ではじまる言葉なんてそうそう思いつかない。
「さっきはごめん」
「何が?」
「からかって。タイガくん、怒ったし転びそうになったでしょ」
「んなこといちいち気にすんなよ」
なぜか慰めるみたいに重ねていただけの手を強く握ってしまった。掌にカケルの甲の骨が食い込む。ただ、さっきの反省なのかなんなのかカケルは何も言わなかった。いつもなら絶対にへらへら笑ってからかいの言葉を投げてくるのに。何も見えないと人は変わってしまうんだろうか。実際、オレだってカケルの手を離すタイミングを見失っている。そっと指をゆるめるとカケルはオレの手の中でくるりと手をひっくり返した。掌同士が重なって、手をつなぐ形になる。今度はカケルの指がオレを捕まえた。
「怖い」
「すぐ誰か来るだろ」
「こうやって顔も見ずに手だけ握ってたら思ってること全部言いそうになる」
「たとえば?」
なれてきた目がカケルの輪郭を捉えた。握った手だけこちらに伸ばして、体は体操座りでうずくまっている。頭の位置がいまいちわからないのは、膝の間に顔を入れているからか。表情が見えないのに瞼の裏には唇の両端をくいとあげて笑うカケルがいた。
「なぁ、なんとか言えよ」
普段はうるさいくせに。
力の抜けた指を払って隣のぼんやりとした影に手を伸ばす。肩――だと思う――に触れた。そのまま揺さぶる。つぶやきともうめきともつかない声が漏れた。よく聞くために顔を近づけた。
「タイガ」
さっきみたいに吐息が髪にかかる。でも、さっきみたいに肌は粟立たなかった。顔をあげたカケルと闇の中で瞳があったと感じた。はっきりとは見えないけど確信があった。カケルが深呼吸する。
目の前が真っ白になった。
痛いぐらいの白さにぎゅっと瞼を閉じた。両手で目に庇を作る。そっと瞳を開けると、照明が何事もなかったかのように眩しく光っていた。リンクを見渡すとみんな眩しそうな表情で転がっていた。カケルはオレが手を離した隙に素早く立ち上がると、何も言わずに滑っていった。
停電の日だってあいつはなにかを言おうとして言わなかった。言うべきことも言わなかった。停電の後で、カケルは一人だけ時間をずらして風呂に入った。オレが左肩に紫と青の斑模様ができていたと知ったのはほとんど治ったあとだった。掴んだ肩にそんなものがあるとは知らずにオレは揺さぶり続けた。痣ができてるからやめてと言えば済むのに、カケルはそれを絶対に言わないやつだった。壁にぶつかったときの重い音がこだまする。暗闇で嵐が過ぎるのを待つみたいにじっとしていたカケルがなにを言おうとしたのかが知りたかった。
4.
プリズムショー以外での大きな仕事はこれが最後だろうな。映画の話が決まったときに真っ先に思ったことはそれだった。駆け出しの監督はまだ若くて真面目そうな人だった。
「映画は一人でも誰と観てもいいんですけど、感想を聞いてくれる相手がいるともっといいなと思ってるんです。恋人でも友人でも猫でもいいから」
一緒に受けた対談式のインタビューで彼はそう言っていた。
「自分がどんな冗談で笑ってどんな場面を観て泣いたのか知っている人がいると思えるだけで少しだけ心強くなりませんか」
こんなことをいう人がどんな映画を観てきたのかが気になって、おすすめの映画を教えてもらった。西日が射し込むタクシーの中で、彼はひとつひとつ丁寧にそれがどんな作品でどこがいいのかを教えてくれた。自宅のスクリーンじゃなくて寮のテレビで観よう。彼と別れて一人で歩きだしたときにこっそり誓った。
はじめはミナトっちとユキちゃんを呼んだ。ほかのみんなは学校の行事でいなかったこともある。プチ映画鑑賞会は見始めると止まらなくなって、気づいたらタイガたちも帰ってくる時間になった。七人でテレビを食い入るように見た。ダイニングのテーブルを端に寄せて折り畳み式のローテーブルをおいた。クッションなんかもかき集めて、寝ころんで観られるようにする。夕飯の時間になると、誰かが映画にはピザだなんて言い出して宅配ピザを頼んだ。
焼けたチーズのジャンクなにおいが舐めた指先からもした。ジュースとコーラが並んだ食卓はちょっとした背徳とそれ以上の高揚であふれている。心地よい喧噪が映画のアクションシーンにあわせて展開される。
「なんかいいなーこういうのって」
「坊ちゃんは寂しがりだもんな」
些細な独り言に反応が返ってくると思わなくて咄嗟に口をつぐんでしまった。言った本人は気にする風もなく、すでにテーブルの向こう側のユウと最後の一枚を取り合っている。弟くんはそれ食べなよ。タイガにはおれっちのをわけたげるからさ。タイガの口に手元にあったピザを押し込むと大人しく咀嚼し始めた。ただ、自分でピザを持つ気はないらしくあくまで俺に全部食べさせる気らしい。
「虎って言うより馬の餌やりみたい」
「ふるへー、ははってほっへろ」
チーズが糸を引いて皿の上に落ちる。タイガはぽろぽろと口元からこぼれる生地の屑も指で拾って口に入れた。耳の手前まであっという間に平らげると、最後の一口で俺の人差し指ごと耳を食べた。
「イブツコンニューだな。弁償しろよ」
「勝手に食べたのタイガくんでしょ!」
屑と涎がついた指を拭くふりをしてこっそり舐めた。映画とピザに夢中になって誰も気づいていませんようにと祈りながら。間接キスなんて子供じみてる。でも、しばらくはチーズの脂とトマトソースの味に胸を高鳴らせてしまうんだろう。
脂でべとついた空き箱を片づけ終わると鑑賞会は後半戦に突入した。ただ、さすがに行事の後だったからだろう、腹も膨れた後輩たちはしばらくすると寝息を立てはじめた。
最後の映画は静かな映画だった。ストーリーというストーリーはなく、少女が荒涼とした風景の中を歩くだけ。そこで誰かに出会ったりまた別れたりを繰り返す。なぜ少女が歩いているかもなぜ世界があんなに殺風景なのかも明かされぬまま映画は幕を閉じた。淡い青色に統一された画面は美しくて、動く絵のようだった。なにも起きなかったはずなのになんだか悲しくなって、涙が目尻にたゆたった。泣いていることが気恥ずかしくなって隣をみたら、二人ともいつの間にかかすかに寝息をたてて眠っていた。
「次はあっち行こうぜ。サメがみたい」
クッションをかかえて真っ先に寝ていたはずのタイガがいつの間にか寝ぼけまなこでこちらを窺っていた。今日行った水族館の夢でも見ていたんだろう。
「タイガきゅん、ここ寮だよ。映画鑑賞会の真っ最中。みんな寝ちゃったけど」
とろんとした瞳は焦点が合っていない。緩慢なまばたきを繰り返している。さー部屋にいこ。後ろから抱えて無理矢理立たせようとする。エンドロールはピアノの伴奏に合わせた少女の歌声だった。英語でもない知らない国の言葉は子守歌みたいだ。
「おまえ、泣いてんのか?」
抱えられながら振り向くから顔が近くて、タイガの鼻先が眼鏡に触れてしまいそうだった。
「泣いてない」
「嘘つけ」
じょじょに目が覚めてきているのか呂律がまわるようになっている。青い光に照らされて睫毛が頬に影を落としていた。緑色の瞳の中にも同じ青い星が浮かぶ。白い肌が青く染まるとはかなく見えた。それ以上見つめていられなくなって眼鏡を外した。口を噤むと雨音みたいなピアノと舌足らずな歌声だけになった。
「やっぱり泣いてる」
「あんまりこっち見ないで」
「喧嘩して泣いたわけじゃねえんだから恥ずかしくないだろ」
「……なんでそう発想がヤンキーなの」
ぼやけた視界でもタイガの視線ははっきりとわかった。見えてはいないけどしっかり感じられた。タイガは自分も感情をむき出しにしている代わりに相手にもむき出しにさせる。隠すことはないと促すのだ。本人に自覚はないんだろうけど。だからなにもかも打ち明けそうになる。
タイガの指が頬に伸ばされる。咄嗟に払ってしまった。なにすんだよぐらいの罵声はあると思ったのに、存外大人しく指をひいた。
「まつげとってやろうとしただけだろ」
憮然とした表情で言われて罪悪感がインクの染みみたいに広がっていく。
「どんな話だったんだよ。なんかずっと歩いてるだけだったから途中で寝ちまった」
「それだけだよ。歩いて、人と話して、別れる。それだけ」
ふぅん。タイガは俺の腕の中に収まったまま静かに耳を傾けていた。言えない言葉を飲み込む代わりになにを観て泣いたかを説明する。吐息が寝息にかわっていくのを聞きながら俺もまた眠りに落ちていった。
5.
自分の携帯とは違う発信音を聞きながら、オレはコールの数を数えた。一、二、三、四、五――いつもなら五コール以上で出ないときは仕事中だった。逆にいえばそうじゃないときは五コール以内でいつも出ていたということだ。
「出ろ、出ろ、出ろよバカ」
祈りだか悪態だかわからない。ブツっと穴の開くような音がしてスピーカーがつながった。
「……ユキちゃん?」
「カケル」
「タイガ……」
息を呑む声がはっきり聞こえた。慌てて絶対切るなと念を押す。
「なに?」
固い声だった。きっと眉根を寄せてうつむき加減に首を傾けているはずだ。手に取るようにわかった。後ろで人のかけ声や鳥の声がする。
「もうすぐ撮影始まるんだけど」
ただ、よく考えれば話したいことなんてないのだった。それよりもオレは聞きたい。カケルが飲み込もうとしていることを。乱暴かもしれないけど、こっちはキスまでされてるんだ。話を聞くぐらいなんてお釣りが来る。
「お前、オレに言うことあるだろ」
「ないよ、別に」
「ある」
一人で怪我をしたこと、勝手にいなくなろうとしたこと、最後だからなんて言って一方的に――とにかくたくさんある。
「お前が言いたいこと全部聞く」
「ごめん」
「なんで謝んだよ」
「怒ってるから」
「怒ってるよ」
「だからごめんってー」
「諦めんな。他のことはともかくオレのことは諦めなくていいから」
「なにそれ、告白みたい」
沈黙。雨がすでに去ろうとしていた。雨雲越しに金色の太陽が透けて見える。
「ごめん」
「だから、謝んなって言ってんだろ」
「ううん、これだけはちゃんと謝らせて」
カケルが深呼吸する。
「大事なことをジョークにしてごめん」
「ん」
「ね、タイガ。俺が話すことに全部イエスって答えなくてもいいから、だから、全部話し終わったら……俺を許さなくてもいいから叱って。ふざけんなチャラチャラしやがってって、殴ってよ」
「わかった」
「じゃあ、いってきます」
十日前に聞きそびれたいってきますとともに通話は切れた。
6.
撮影は無事に終わった。打ち上げは別の日に帰ってからやるという話だ。その前に一つだけスタッフの人にわがままを聞いてもらった。役のために伸ばしていた髪をその場で切ってもらったのだった。別れ際、ヒロイン役の彼女は大大大大成功だといいですね、と背中を叩いて笑った。十日間だけの彼女は爽やかに去っていった。
飛行機の遅延で寮に着いたのは夜中だった。重い扉を開けて、いちおう挨拶する。ただいま。この言葉を口にするのは久しぶりだ。みんな寝ているだろうと思ったらキッチンの明かりが廊下の床を四角に切り取って照らしていた。消し忘れかと思って覗くと、シンクの照明だけが薄青く光っていて、その下に椅子の背もたれに抱きつくようにして眠るタイガがいた。
「風邪ひくよ」
ジャケットを脱いで肩にかけてやる。タイガは手が肩に触れたとたんに野生動物みたいに飛び起きた。
「おかえり」
「ただいま」
寝ぼけ眼をこすりこすり、いずまいを正す。
「待っててくれたんだ」
「別に」
「素直じゃないなぁ」
「お前ほどじゃねーよ」
「ああ、なんか今思ってることを一言で表したいんだけど、そんな便利な言葉……思いつかないや」
ん。タイガは羽織っていたジャケットをシンクの傍に放って、椅子から降りると両手を広げてこちらを向いた。薄青い照明が頬を濡らす。前髪の奥で瞳がちらちらきらめいた。
「なに?」
「叱って殴る」
鞄を床に置く。
じっとしていると、首と背中に腕が回された。
「これホントにお仕置き?」
「うるせえ」
スウェット越しに冷えた体を撫でた。俺も外から帰ったばかりで体は冷たい。どうしようもない二つの凍った体。
「髪、切ったんだな」
「誰だかわからなくなったら困るから」
「わかるに決まってる」
「うん」
蛍光灯がきりりと音を立ててその光を揺らした。
<了>
進化論XYZ
踵が鳴る靴なんて履くと思ってなかった。前髪をあげて露わになった額を自分で見るのもなんだか妙な気分がした。カケルはスーツもおそろいでと言ったけど気恥ずかしくてそれはつっぱねた。その代わりに靴を同じものにしてもらう。動かせない首はそのままに、目線だけを下にやって自分の足元を見る。まだ真新しい革靴は、鏡みたいに表面を光らせてオレの足を守る鎧のようにどっしりとしている。
「制服、着崩してないの見るの初めてになるね」
同じように前髪をあげたカケルが鏡に映る。カケルは三つ揃えのスーツを着て襟元に社章のついたピンを留めていた。薄い眉がはっきりと現れていつもより表情が大人びて見える。よそいきの顔だ。カケルはスタイリストに何か話すと、また去っていった。鏡越しに後ろ姿を追う。女性スタッフに囲まれて笑うカケルを遠くに感じた。正直、慣れない場所に緊張している。
こちら、外しますね。唯一らしい男性スタッフがオレのケープを外す。首元のマジックテープが剥がされる音を聞きながら、これもあいつが手配したことなんだろうかと考えた。三十代ぐらいだろうスタッフはケープを畳みながらオレをカケルが待つ待合まで案内すると、小さく微笑んだ。その大げさでない笑みに少し肩が解れた。カケルはあまり何も言わずに店を出た。羽織ったコートの黒さと吐き出す息の白さが目を惹く。
「車、向こうに停めてもらったからさ、少し歩こう」
カケルはオレと二人でいるときは歩きたがる。裸の枝にイルミネーションを巻きつけた街路樹が飾る遊歩道を二人で歩いた。二歩ほどカケルが前に出る。というより、オレがさがった。並んで歩くのはやっぱり照れるから。薄い色の入ったサングラスをかける。イルミネーションが眩しいふり。煤色の闇を通してカケルの黒いコートが見える。イルミネーションの明かりはその光を弱くして星みたいにカケルの周りに散っていた。ふと、カケルがこっちをふりむいた。
「そんなに情熱的に見つめられると僕ちゃん照れちゃうにゃあ」
マフラーが触れ合うぐらい近づいて耳元で囁く。みてねえという否定も無駄なことはわかっている。レンズ越しにばっちり目が合ったから……
仕方なくサングラスを外すとコートのポケットにさした。結局、並んで歩く。バレてないって思ってるとこがタイガらしいけどね。白い息がカケルの産毛に結露をつくる。石畳の遊歩道は歩くたびに音が鳴る。同じ靴なのに、音は全然違っていてそのちぐはぐさがオレたちみたいでなんだか笑えた。なんで笑ってるの、なんて聞かれたけどぜってえ教えねえ!
遊歩道の先、公園に隣接する広場でマーケットが開かれていた。ココア買おう、とびきり甘いやつ。そう言ってカケルは手近な列に駆けていった。せっかくセットした橙の猫毛が乱れそうなほどはしゃぎながら。列の歩みは意外と遅かった。
「緊張してる?」
むき出しの額を木枯らしが撫でる。立ち止まったままだと寒い。
「んなわけないだろ」
そんなことはないけど。革靴が予想より重くて、不安が喉をせりあがる。
「俺はしてる」
カケルの手袋をした手が店員からココアを受け取る。オレが小銭を払って列から抜けた。傍のベンチに腰掛ける。カケルはココアを手渡すふりをして手を重ねる。ココアと手袋に挟まれた冷えた肌が暖められていく。
「もーなんでこんな中で素手でいられるかな!」
「オレもしてる」
「え?」
「緊張。はじめてなんだから仕方ねえだろ。こういう格好して知らないやつがいっぱいいるとこ行くの」
「俺はタイガに俺の見せたとこないとこ見せるから緊張してる」
見たいとオレが思ったのだ。知らない場所でどんな奴と何を話しているのか。カケルがどんな風に一男としての世界を生きているのか。
マシュマロがとけたココアは甘く、喉に詰まった得体のしれない気持ち悪さもとかしてしまいそうだった。家族連れやカップル、いろんな集団が前を通り過ぎていく。行こっか。チョコ色に染まった唇を舐めてオレたちは立ち上がった。
カケルの取引先の一人が小さなパーティーをするという話を聞いたのは二週間前だった。その時は聞き流していたものの、
「その人、俺のこと小さい時から知ってる人でさ、まだ子ども扱いしてくるの。だから、パーティーには友達とか恋人とか連れてきてもいいよ、なんて言うわけ」
あまり形式ばったものではないからと言われて結局行くことにした。
「あらぁ、一男くん。お久しぶりね」
呼ばれた方をむけば、派手な黒のワンピースに身を包んだ女性が手を振っていた。黒なのに派手だと思ったのはその表面にビーズだかなんだかが縫い付けられていて光が反射していたからだった。すらっとしたスタイルはモデルというよりはカマキリみたいで、大きな目と尖った顎が余計にそう思わせた。カマキリの横にはオスのカマキリもいた。
「タイガ、お腹空いてるでしょ。あっちにお肉あるよ」
カケルはさりげなくオレを追い払うと黒い二匹のカマキリを連れて離れていく。背の高いカマキリに両隣を囲われたあいつは捕まえられた宇宙人のようにか弱い背中をしていた。ローストビーフは美味そうではあったけど、服を汚してしまいそうでなかなか手を付けることが出来なかった。見ないようにと意識すればするほど、カケルの方を見てしまう。カケルは会場の隅、中庭に続く扉の傍にいた。
扉の窓ガラスは外の闇を映して鏡のようになっていた。ガラス越しに片手にグラスを持ったカケルと目が合う。ばちばちと瞼が跳ねる。大げさなまばたきをする風にみせてウインクをしたんだとわかった。口が動く。し、ん、ぱ、い、し、な、い、で。なんだよ、ヨユーじゃん。
オレはグラスに口をつける真似だけをしてカケルが夫婦と一緒に中庭に出て行くのを見送った。
凝った形に剪定された植木の下で三人は、何か話し込んでいる。カケルが眉尻を下げて困ったように笑う。目が合った。ガラスに反射したカケルとではなく。カケルはしまったという表情を隠せないのか隠さないのかあからさまに肩をすくめると手招きした。
複雑な植木のおかげかあまり夜風はあたらなかった。ガラス戸は音もなく開いて、また閉じた。パーティーの喧騒がスイッチを押したみたいに一瞬で聞こえなくなる。
「ね、どうなの正直なところ。あなたから見て一男くんのショーって。ビジネス以上の才能ある?」
簡単な紹介を済ませると雌カマキリはそう切り出した。
「はぁ……」
「私たちは一男くんが心配で。そろそろやめてもいいんじゃないのって言ってるんだけどね」
「一男くんももう十九歳だしなにかと忙しくなるだろうからね」
カマキリ夫婦はカケルの未来設計を好き放題話始めると、ではまたと挨拶して去っていった。オレが何も言わなかったのはカケルの右手がオレの右手をずっと握っていたからだった。カケルが背中に回した右手は冷え切って氷みたいだった。
「こうなるってわかってたからタイガには引き合わせたくなかったんだけど」
冷えた右手と暖房で火照った右手が同じ温度になっていく。オレは右手をそっと離すと
そのままカケル髪を梳いた。
「すげえよ、お前は」
それしか言えなかった。カケルは髪にオレの指を絡ませたまま、窓ガラスから見えない植木の陰までゆっくりさがった。んん、と駄々っ子みたいな声を吐き出すとそのまま肩にもたれかかる。
「人類がみんなタイガだったらいいのに」
「気持ち悪いこというな」
「じょーだん、一人で充分。いっぱいいたら誰にキスしていいかわかんなくなりそうだし」
植木は風からも視線からも喧騒からもオレたちを守ってくれた。土の匂いがつんと鼻をくすぐる。慣れない革靴が落ちた葉を踏むたびに乾いた声で囁いた。
「あのさ、部屋、とったんだけど」
「は?」
「ホテルの」
肩に顔を押し付けたままカケルは人差し指を上に向けた。くぐもって聞こえづらい声は耳の代わりに肩に直接訴えた。口を開くたびに息で熱くなる。カケルの首筋が暗がりでもわかるほど赤い。
「いいのか。まだ人いっぱいいるのに」
「子どもは寝る時間だから」
「わーったよ」
わざと乱暴に肩を小突いた。カケルが顔をあげる。
「しろよ」
「へ?」
「……キス。オレしかいないから」
エレベーターで部屋まで案内するというホテルマンを断って二人きりになった。扉が閉まると唇より舌が先に絡むような切羽詰まったキスが待っていた。スーツの皴なんてあっという間に忘れてカケルの襟元に縋った。頭を揺らして首を伸ばして、カケルの口腔を探る。何があるわけでもないのに。
何階? 十九階。
すでに「9」を示していた赤い数字は着々とその数を大きくしていく。
カケルの舌が頬を舐めて首筋まで降りる。もうすぐ目的の階に着くのにお構いなしだった。広いエレベーターの中をのたうち回りながらチンと到着を知らせる音を聞いた。
「いい加減にしろっ、誰かに見られたら――」
重そうな扉がするりと開く。カケルの肩の向こうに続く、赤いカーペットが敷かれた廊下には誰もいなかった。カケルはもう一度口づけると踊るように手をひいてエレベーターを飛び出した。
「部屋とったって言ったでしょ?」
「まさか……」
「うん、この階ぜんぶ」
頭の中で動く電卓は無視することにした。そもそも計算はあんまり得意じゃない。
「……一番広い部屋がいい」
「りょーかい」
〈了〉