暗くて、寒い。
冴えない意識が不快だ。唯一の武器とも言える思考能力を奪われるのは嬉しくない。ここはどこだ、私は今何を?
「ダメじゃないか」
頭上から声が降ってくる。聞き覚えのある声、どこかで聞いた、誰かの、いやこれは
「せっかく生き延びたのに」
自分の声。正しくは、今の体になる前の、自分の声。
「死ぬはずだった」
一方で、私から発せられたのは情けない声だ。かすれた、しわがれた声。私は存在しないはずだったのに、どうしてか世界に生かされてしまっている。今生きているのはボーナスタイムみたいなものだ。いつか自分が誰かに言った言葉が遠くのどこかでこだまして返ってくる。
「そんなこと言ったら彼女が悲しむ」
「勝手に心を読むな」
「読んでない。わかるだけだ。僕の考えていることだから」
自慢げに口角を上げる顔に腹が立ってくる。その表情はおかしな顎が目立つから勘弁してほしい。だんだんと意識が定まってくると、ここがターディスであることがわかる。ということは、これは現実世界ではない。私が生き延びるためにとる手段、今際の際の抵抗だ。
「さあ起きて。考えて。走れ!」
その声に促されてがばりと起き上がる。
いつの間にか椅子に腰かけている。見渡すと、そこは明るく、花に包まれた美しい庭園。
「ハロー、ダーリン」
目の前でティーカップを持つのは、かつて同じ道を歩んだ友。わかり合えなかった、わかり合いたかった、唯一の親友。
「ここは」
「約束の地、楽園、冥土。」
きっちりと手入れされた爪に、どこかわざとらしく感じる上品さを纏った指先が、カップを離す。
「なんてものが存在しないのはあなたがよくわかっていることね」
ガシャン。足元で陶器が粉々に砕け散った音がする。
「こんなところで道草食っている暇はないでしょ。」
彼女は、彼は果たして本当にこんなことを言うだろうか。わからない。最後までわからなかった。それでも彼女の瞳が潤んでいることに気がついて、心がざわつく。そっと頬にキスを送る。
「グッドバイ、ミッシー」
「ええ、さようならドクター」
花が枯れる。雪が降ってきた。
私はいつまで走り続ければいいのだろう。負けることを許されず、別れの悲しみに暮れる暇も無く、立ち止まることもせず、ただひたすら前に進んで、その先になにがあると言うのだろう。もう止まってしまえばいいものを、どうして、いまだ。
「勝って」
誰かの声が響く。誰の?大切なはずな、忘れてはいけないはずの。
勝つ。走る。憎悪に囚われてはいけない。常に優しくあれ。忘れてはいけない。覚えていなければならない。
私はドクターだ。