たとえば。視覚以外の感覚を忘れ去ってしまいそうなほど美しい光景を目にした時、私はそれを誰に伝えたいと思うだろうか。
たとえば。図書館に収まりきれないほどの知識を持つ自分さえも未知の世界を発見した時、私はそこを誰と共に訪れようと思うだろうか。
「クララ」
随分と古びた肖像画を前に、えも言われぬ寂しさを覚え、つい絵の中の彼女に微笑みかけた。
私はずっと、見て見ぬふりをしていたのだ。いつか必ず訪れる別れの時から目を逸らして、楽しい彼女との時間を謳歌した。
そして、罰を受けた。
暗い水の底。積み上がる頭蓋骨。刻まれる時間。12の数字。落ちる花弁。
それら全てが私に囁く。
「死を想え」と。
私が私であることを、側に居続けることで肯定してくれた彼女のためなら何でもできると、そう思うことは間違いなのだろうか。
彼女が私に背を向けてから、どうにも足もとがおぼつかない。背を向けて、カラスが鳴いて、倒れて。私の中の彼女もこちらを向いてはくれない。いくら語りかけても答えてはくれない。当たり前だ。彼女は死んだのだから。
思い出というのは厄介で、私を救うものでもありながら、蝕むものでもある。あれほど輝いていたはずの彼女との記憶は、今や思い出す度に私の胸を締めつけて、どうにも苦しくてしかたがない。
もう一度、私の隣にいてほしい。もしそれが叶わないとしても、彼女が星を見て、笑えるならば、私はどうなってもいい。目を閉じれば鮮明に浮かべることができる、彼女の笑顔。
そうか、とそこでやっと気がつく。私は、彼女に笑いかけてほしかったんだ。
彼女の笑顔が見たい。そう、それで。
それで、…
ん?と疑問に首を傾げる。
彼女とは、いったい誰のことだっただろうか。
慌てて記憶を手繰り寄せようとするも、その手は空を切り、大事なはずの何かがどんどん遠のいていく。
沈む意識の片隅で、古いタイムマシンが飛び去る音が聞こえた気がした。
たとえば。視覚以外の感覚を忘れ去ってしまいそうなほど美しい光景を目にした時、私はそれを誰に伝えたいと思うだろうか。
たとえば。図書館に収まりきれないほどの知識を持つ自分さえも未知の世界を発見した時、私はそこを誰と共に訪れようと思うだろうか。
「クララ」
目の前の彼女は笑う。私のことをおばかさんと言って笑っている。
「もう二度と私のことを忘れないで」
失礼よ、そう続けた彼女は眩しかった。
君に伝えたいことがある。君が隣にいなかった時間、何を見て、どこへ行って、何をしたか。一晩では語り切れないだろうけど、何せ戦場を去る私には、たっぷりと時間があるから。
私は次の私にドクターを明け渡すために、心の中でおやすみを言い、目覚めた時には愛しい人がそこにいますようにと願って目を瞑った。