心の監獄 地下牢に水滴の垂れる音がした。
ひんやりと冷たい空気が流れ込む。此処に閉じめられて、何日経ったのだろう。今が昼か夜かも分からない。
離れた牢で幼い子どもの泣く声が聞こえる。姿は見えないけれど、その牢には兄弟で入っているようで、弟がよく泣いているのだ。幾つあるともわからない部屋から伝染するように子どもの啜り泣きが響いてくる。
「大丈夫、大丈夫だよ。きっと助けが来るから」
希望を信じて明るい声を出して励ます。子どもたちを落ち着かせるようにと子守唄を歌っていると、啜り泣いていた子供の声はいつの間にか寝息に変わっていた。
「おい。喧しゅうて眠れへんわ」
隣の牢屋から声がした。昨日までは空き部屋だったはずだ。私が寝ている間に幽閉されたのだろう。
鉄格子だけで隔たれた暗がりの中で姿の見えない相手に謝罪をする。
「ご、ごめんなさい」
「子供も寝たからもうええやろ。お口閉じとき」
素直に黙ると渇いた喉で無理をして歌っていたことを自覚する。子供を安心させたい一心だったけど、あのまま歌い続けていたら、脱水症状が進んでいたかもしれない。
「ここは孤児専門の檻や。どうしてお前みたいな者がおるん」
「それは……仕事中に近道をしようと路地裏に入ったら、無理矢理連れ去られそうな子供を見たんです。助けに入ったけど、その子と一緒に捕まってしまって―――」
「阿呆か。その細い体で何ができるん」
彼の言うとおりだ。でも黙って見ていることなどできなかった。そう伝えても、彼は舌打ちをして心底呆れたというように溜息を吐くだけだった。
見張り役にバレぬように小声で会話が出来るようにと、鉄格子越しに肩が触れ合った。不意に清潔感のある白檀の香が鼻をかすめてどきりとしたけれど、相手は何も気にしていないようだ。
「あなたはどうして――?」
「運が悪かった。それだけや」
「……それなら私と一緒ですね」
「阿呆。ぽやぽやお花畑のお前と一緒にするな」
肩の触れ合う距離にいて暗がりの中でも、とわかった。でも悪い人ではなさそうだ。なんのなくそう思った。
「さっき孤児専門って言ってましたけど、何か知ってるんですか?」
「別に。けど此処の奴等が、孤児を売り捌いて金儲けをするクズどもってことは知っとる。お前みたいな女売るルートはないから、すぐにバラされ―――」
彼は突然けほけほと苦しそうに咳をし始めた。
この地下は埃や塵が待っていて空気が悪いからだろう。いくら咳き込んでも収まらないようだ。
「大丈夫ですか?これ飲んでください……!」
「っ、――水か?」
「2日に1度配給されるんです。今日配られてまだ口をつけていないので良かったら」
折れた鉄格子の隙間から水で満たされたコップを差し出す。影が動いたのがわかり、相手は素直に受け取ってくれるかと思いきや、
「っ痛……!」
手首を強く掴まれる。コップの中の水面が波打った。貴重な水を零さずに済んだけれど、大きな手に遠慮のない力で掴まれて身動きが取れない。逃げられない。
「お前。随分と献身的やなぁ」
「っ、やぁ……離して……!」
「あァ……反抗的な態度も悪ないわ。狭いとこ押し込められて暇しとったんや。俺に嬲られて愉しませてくらはる?」
嗜虐的に喉を震わせて男が微笑った。
逃がしはしないと握られた腕が痺れてきた。腕が震えることに気付いた彼はほくそ笑みながら命令をした。
「落とすなよ」
グラスを握った女の手を彼の口元へと導くと、そのまま傾けて喉へとぬるい水を流し込んだ。
男のアメシストが細められて私だけを捕らえた。
思わずこくりと喉を鳴らす。それは喉が渇いていたからか。それとも―――
「何。羨ましそうに見とるん」
「べ、別に」
「この水は俺が貰うたんやから、もう俺のもんやろ。欲しいんなら……。はっ。何させたろかな」
こんな場所に捕らえられても誰にも平伏す気はなかった。でもこの男に冷たく見つめられると、身も心も隷属する己を予感してゾクゾクと打ち震える。
「よおわかったやろ。知らん男に親切にしたら痛い目みるて」
「っ……」
「煙草も吸えんと気ぃ立っとるんや。手加減できんくても勘弁してな?」
その時、銃声が聞こえた。手を離されて、身を強張らせて様子を伺っていると悲鳴や聞こえた。しかし隣の男は狼狽えることなく、瞳を閉じて冷たい壁にゆったりともたれ掛かっている。
あちらこちらで金属の擦れる音が鳴り響く。彼の扉が解錠されて、子供たちの扉も解錠されたのだと気付いた。
隣の男は相手を警戒することなくゆっくりと立ち上がると、扉を大きく開けた男に向かって口を開いた。
「随分とのんびりしとったな」
「はは。捜索対象のエリアが広かったからな。お前の声を見つけるのに時間がかかっちまった」
「クソっ。囚人として潜り込めば、地獄耳でこの場所を見つけられるて言い出したの誰や」
「お前も自分が囮役になるって決まるまでは、賛成してただろ」
猟銃を持った茶髪の男がニヒルな笑いを零しながら鍵を取り出したけれど、彼は私の牢屋の立つと
錆びた扉を蹴破った。
地下に蝋燭の光が灯って、目に映ったのは紫のロングジャケットを翻す威厳に満ちた男の姿だった。
かつんと鳴るヒールの音に、此処に捕らえられるような男ではないと理解する。
「あなたは一体……?」
「ポーカーで負けた。それだけや」
それが『運が悪かった』ことの説明だと気付くと、呆気に取られてから思わず笑ってしまった。
――彼と陽の当たる海辺で運良く再会できて、この男に手枷足枷を付けられることを許してしまうほどに愛してしまったことは、また別のお話。