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    mu_tsu_581

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    mu_tsu_581

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    薫輝。輝が消えてしまった世界の話。少し暗いかも

    #薫輝
    pleasantSmellOfIncense

    存在の証明 気づけば、男はただそこに在った。
     何かを成しているわけではない。何かを思考しているわけでもない。
     ただ、そこに存在しているだけだった。
     意識も、自我もない。だからどうして【在る】ことが分かるのかが分からない。
     だが確かに、それはそこに在った。
     この世界に果てはなく、いずれはどこまでも続く闇に全てが飲み込まれるのだという漠然とした感覚がどこかに満ちていく。男が声を出すことも、指先を動かすこともない。ただ与えられたものを享受するだけだ。それはひどく無力で滑稽だ、とどこかで何かが笑う。
     ここは不思議ととても居心地が良かった。このままずっとここに在り続けることができたらお前は何も感じることはなく、ただ幸福に満ち溢れるのだ。そう何かがどこかで囁くが、世界は変わらず静寂に支配されていた。
     だが突如、世界に小さな石が投げ込まれる。
    『さくらば』
     この世界ではノイズでしかないはずの音は明確な意味を持ち、暗闇に色をもたらす。白なのか、黒なのか、それすらも分からない。だがその小さな小さな変化で緩やかに、確実にこの世界が崩壊していくのを感じた。
    『さくらば』
     暗い世界に揺蕩う意識が輪郭を持っていく。世界との境界が水平線の向こうに見え始めた時、暗闇に射す一筋の光をよすがとして霧散していた自我が急速に収束していく。
    『桜庭』
     ああ、うるさい。
     男は音を感じ、怒りの感情を持つ。文句の一つも言いたくなるような、それでいてひどく心地の良い、矛盾を孕んだその声音を認識する。もうここにいることはできないと漠然と理解していた。
     男──桜庭薫は、崩壊する世界から自身を引っ張り上げる光に身を委ねた。


     ピピ、と不快な機械音が桜庭の鼓膜を振るわせる。
     何度聞いたか分からないそれは、朝の訪れを知らせるものである。生活する上で極めて重要ではあるが決して好きになることのないその音の発生源は頭上だ。桜庭は時計に一瞥をくれることなく正確に叩き、薄らと目を開けた。
    「……なんなんだ、あの夢は」
     もう朝か、とか今日のスケジュールは、と月並みなことを思考する前に、半ば本能的に言葉が喉から絞り出された。寝起きのため少し掠れたその音はこの世界で桜庭以外に聞くものはない。つまりは自分への文句であり、夢見の悪さを呪うものであった。まだはっきりとしない頭で聞く不機嫌極まりない自身の声をどこか他人のもののように感じながら、桜庭は眼鏡を掴み取る。遮光性の高いカーテンのおかげで室内は暗く、まだまだ惰眠を貪ることはできる。だがそれを桜庭自身が良しとするはずもなく、気合と根性でベッドに別れを告げた。
     洗面台で身支度を整えるのが桜庭にとって朝の最大かつ唯一の責務だ。朝食は事務所や現場に向かう道すがら、または目的地に到着してから摂ることがほとんどのため、この家でのタスクには含まれていない。桜庭はまだどこかはっきりとしない意識を覚醒させるため、給湯器をつけずにそのまま蛇口を思い切りひねる。そしてザブザブと音を立ててはき出され続ける小さな滝に手を突っ込み、そのまま顔に叩きつけた。あまりの冷たさにぞわりと何かが背筋を駆け上がっていくのと同時に、ようやく頭が回転し始めるのを感じた。
     次いで歯ブラシに目をやる。ブラシ立てには2本、色違いのものが立っているが、桜庭は迷うことなく青のそれに手を伸ばした。歯を磨きながら考えるのは先ほどの何とも形容し難い夢のことだ。今の世界が現実なのだから、必然的にあれは夢の世界での出来事ということになる。それにしても悪夢という枠を大きく逸脱したあれはなんなのだろうか、と桜庭は思考する。夢は自身の経験や思考、潜在意識からしか発生することはないと言われている。つまり自己と大きく乖離したものは夢にすら現れることはない。ならばあれは桜庭自身の中のどこかにあったものということになる。何もかもが曖昧で抽象的なあの世界で、唯一輪郭を持っていたもの。
    『桜庭』
     それが自分の中で、自分が思っているよりも遥かに大きな存在となっていることに、しかしながら桜庭は驚くことはしない。声の主──天道輝は桜庭にとって唯一無二の存在であった。想いを抱き、その心境を抱くに至った自己の変化を自身の意思で受け入れ、そして伝えた相手だ。そして彼もその好意に応え、今では世間でいうところの恋人関係である。もちろん公にはしていないものの、きっと柏木にはバレているのだろう、と桜庭は時たま考えることがある。運命共同体として共に同じ場所を目指している仲間だ。柏木は、自分は図体ばかりでかい、と自身のことをよく言い表す。だが機微に聡く、些細なことで口に出すまでもないと桜庭自身が切り捨てたものも、柏木は拾い上げてフォローを入れる。桜庭はそんな彼に何度も助けられ、励まされてきたのだ。
     だからこそ、だ。
     桜庭は天道と特別な関係を持った際に、敢えて柏木に伝えることはしなかった。おそらく恋人関係にあることは勘づいているだろうに、何も言ってこない男だ。運命共同体とはいえ互いのプライベートに踏み込みすぎないようにと柏木自身が線引きをしているのだろう。だから伝える必要がない、と桜庭は判断したのだ。柏木の優しさに甘えた部分がないと言ったら嘘になる。言わなくても伝わることと、そうでないこと。その2つを自分勝手に解釈し使い分けている後めたさと狡さを感じることはしばしばある。だがそれでも、桜庭にはこの秘めた関係を柏木に伝える気はなかった。
     ルーティンとは恐ろしいもので、意識が逸れていようが身体は勝手に動く。桜庭は鏡台の前で身支度を調えて仕上げににネクタイを結んでいた。衣擦れの音とともに首元が締まる感覚に、離れていた意識が引き戻される。そろそろレッスン場に向かわねば、と家を出る支度をする頃には桜庭の脳裏から先ほどの夢のことは締め出されていた。午前中はDRAMATIC STARSとしてのダンスレッスンがあり、その後はフリーだ。何をしたものか、と思案しながら玄関を施錠する。ガチャリ、と鍵をかける音がやけに大きく響いた気がした。


    ******


    「あ、薫さん!おはようございます」
     練習着に着替えてレッスンスタジオの扉を開けると、先に来て準備運動をしていたらしい柏木の元気のいい挨拶と笑顔が桜庭を出迎えた。
    「おはよう。君は相変わらず朝から元気がいいな」
    「今日は起きてから軽くジョギングしてきたんです。おかげで美味しく朝食が食べられて、いい朝になりました」
     自分と正反対の朝を迎えている柏木をどこか眩しく思いながらも、桜庭は少しぬるくなったゼリー飲料の封を切った。
    「薫さんもたまにはしっかり朝食を摂ってくださいね?」
    「……努力はしよう」
     手元に集まる柏木の視線を感じつつ、桜庭は咀嚼することなくゼリーを飲み込んでいく。どことなく居心地の悪さを感じてレッスン場にある大きな壁掛け時計に目をやれば、長針が天辺を指そうかという時刻だった。ダンスレッスンの先生が来るまであと数分。だというのにまだ姿を現さないユニットセンターの男に桜庭は苦虫を噛み潰したような顔になる。
    「おい」
     桜庭の口から発せられた不機嫌極まりない音に、柏木は驚いた様子を見せた。
    「天道はどうした」
     ゼリー飲料から唇を離して柏木に投げかけた言葉はまるで詰問するかのようだ。別に目の前の人物が何かした訳ではく、怒りの矛先を向ける相手としては間違っていることを桜庭は承知していた。だが天道のこととなると良くも悪くも頭に血が昇りやすいのだ。桜庭がそんな自分をらしくない、という言葉で片付けることをやめてしまって久しいのは、大きな心境の変化だ。
    「もうすぐレッスン、が……」
     始まるんだぞ、という言葉を発する前に、突如として桜庭の唇は止まった。柏木が見たこともない顔をしていたからだ。
    「……テンドウ、さん?」
     ポツリ、と柏木からこぼれ落ちた言葉には困惑と疑問が満ち溢れていた。
     なぜそんな表情をするのか。
     なぜ初めて紡いだ音のように彼の名を呟くのか。
     なぜ彼がいないことに疑問を抱かないのか。
    「それは、どなたですか?」
     柏木の何気ない一言は、桜庭を混乱の渦に叩き込むのには十分すぎるものであった。
    「……は?」
     ひどく間抜けな音が一瞬の静寂を取り戻したスタジオに響く。それが己のものであると桜庭はすぐには認識できなかった。
    「あ、もしかしてダンスの先生が今日から変わって、その方がテンドウさんなんです?」
    「……柏木、君は何を、」
    「えっ、じゃあレッスンを見学に来る薫さんの知り合いでしょうか?でもそんな話、プロデューサーからは一言も──」
    「ふざけるのも大概にしてくれ!」
     気づけば桜庭は腹の底から叫んでいた。柏木の口から次々と発せられる極めて悪質な戯言としか思えないものをこれ以上聞いていられなかったからだ。突然のことに柏木は大きく肩を跳ねさせて硬直してしまった。しんと静まり返ったスタジオに桜庭の荒い呼吸音だけが響いている。一気に悪くなった空気が双肩に重くのしかかる。
    「あの……オレ、」
    「君がそんな低俗で悪質な冗談を好む人間だとは思いたくない、今すぐ訂正してくれ」
     きっとこれは自分を混乱の渦に陥れてその様子を観察しているだけなのだ。そうとしか考えられない。桜庭は自身にそう言い聞かせないと怒りが爆発しそうだった。どうしてこんなことを言うのかが全く理解ができない。だが柏木の表情はより暗いものになっていく。
    「薫さん、本当にどうしちゃったんですか?」
     悲痛な柏木のその言葉に、桜庭はついに自分の中で何かが焼き切れるのを感じた。
    「天道!隠れているんだろう、姿を見せろ!もう十分だろう、君は柏木まで巻き込んでまで僕を陥れるのがそんなに楽しいのか!?」
     これ以上自分を裏切らないでくれ、と悲痛な叫びにも聞こえるものがスタジオにこだました。自分が選び、好いた相手だ。彼がこんなことをするはずがないと言う気持ちが大きい。しかし現実に起こり得るあらゆる可能性を消去していけば、残るのはひとつの可能性のみ。この結論に至った自分に桜庭は嫌悪感を抱いたが、それと同時に全てが嘘であってほしい、早く姿を現してほしい、と祈るような心地だった。
     だが赤い影はどれだけ待とうが現れることはない。
     天道は超えてはいけない一線を超えた。
     それは桜庭を一方的に信頼を突き崩され、手ひどく裏切られたような心地へと突き落とした。
    「もういい、君たちがそのつもりなら、僕は今後3人でユニット活動をしていく気はない」
     最後通告のつもりだった。それでも彼は姿を見せる気配はない。いよいよ終わりだ、とスタジオを後にしようと柏木に背を向けると、腕を強く引っ張られた。
    「待ってください。DRAMATIC STARSはオレと薫さんの2人組ユニットですよ?」
     この後に及んでまだ戯言を重ねるのか、とそれを振り払おうとするが柏木はより一層力をこめた。
    「離せ柏木!」
    「いいえ、離しません!薫さんは何か大きな誤解をしています。それを解くまでオレは決してこの手を離しません」
     彼の声色は真剣そのもので、桜庭は一瞬抵抗することを忘れてしまう。まるで駄々っ子を諌めるかのような、それでいて心の底から心配しているようなそれは、冗談や悪戯では到底発することのできないようなものだったからだ。
    「薫さんに何があったのかは分かりません。でもオレは絶対に諦めたくないんです」
     今度は桜庭が困惑する番だった。君はどうしてそんな表情をするんだ、と。
    「だってオレ達2人は」
     桜庭は柏木が何を言わんとしているのかを瞬時に察する。なぜならそれは桜庭の心の支えの一つだったからだ。だからこの場において最も相応しくない言葉で、耳を塞いでしまいたかったがそれも叶わない。やめろ、と無意識に声が零れる。
    「運命共同体じゃないですか」
     そう言い切った柏木のスカイブルーの瞳が桜庭を見据える。痛いほど真直ぐで、ともすれば射抜くようなその視線に耐えきれず桜庭は顔を逸らした。
    「……今日は体調が優れない。悪いがレッスンは欠席させてもらう」
     なんとか声を絞り出すと、力を緩めた柏木の手を振り払って足早にその場を後にした。


    ******


     レッスン場の前でタクシーを拾って、「たまこやの手前、齋藤ビルヂングまで頼む」と行き先を告げる。ドアが閉まって車窓の風景を流れ始めたのを確認し、桜庭は腕を組んで瞳を閉じた。
     思い浮かぶのは先ほどまでの柏木とのやりとり。
    『……テンドウ、さん?それは、どなたですか?』
     確かに彼はそう言った。まるで本当に知らないようで悪質な冗談の類とも考えられなかった。桜庭はDRAMATIC STARSを結成してから柏木のことをずっと見てきた。真直ぐで裏表のない好青年であり、誰になんと言われようともそんなことをする人間ではない。冷静に考えれば分かることなのに、一連のやり取りは桜庭からそれを奪い去るのには十分すぎる出来事であった。天道だってそうだ。桜庭が自らの意思で情を交わし、その内面を事務所の誰よりも理解しているつもりの相手だ。そんな彼が自分を陥れるはずがない。そんなことをする理由も意味もなく、そして心当たりもなかった。
     突如、外套のポケットに入れてあるスマートフォンが小さく震える。瞳を開いて確認するとLINKの受信を知らせるものであった。送り主はプロデューサーだ。
    『先ほど翼さんから連絡をいただきました。体調不良、とのことでしたが具合はいかがですか?』
     所属アイドルの体調管理も仕事のうちということで連絡をよこしたのだろう。その仕事ぶりに感心する余裕など今の桜庭にはあるはずもない。
    『念のため確認しておく。今、うちの事務所には何人所属している?そのうちDRAMATIC STARSのメンバーは誰だ?』
     素早く打ち込んで送信すると、ややあってメッセージが画面上に表示される。
    『315プロは現在、48人のアイドルが所属しています。DRAMATIC STARSは柏木翼、桜庭薫の2名からなるユニットです』
    目で文字を追うが、内容が頭に入ってこない。意味が理解できない。否、理解するのを本能が拒んでいるのだ。プロデューサーまで揶揄っているのか、と一瞬そんな考えが浮かんだものの、桜庭には実直と誠実を絵に描いたようなこの人がそんなことをする理由がどこにも見当たらなかった。
    『本当に大丈夫ですか?』
     突然脈絡のないことを尋ねてきた桜庭に驚いたのだろう、当然といえば当然の反応が返ってきた。もし桜庭が同じ立場なら、当然相手に対して何かしらの心身の異常を疑うだろう。
    『僕が大丈夫と言っているんだ。これは僕の問題だ、君は気にしなくていい』
     桜庭は震える指でなんとかそう打ち込み、送信ボタンを押す。これ以上尋ねることはないとスマートフォンの電源を切って顔を上げたところで馴染みの弁当屋の看板が目に飛び込んできた。
    「到着しましたよ、お客さん」
     停車しても降りる準備をしない客に催促をするためだろう、タクシーの運転手がバックミラー越しに桜庭を見る。桜庭は財布から札の種類を確認することなく数枚取り出し、運転手に押し付けた。今は全ての事柄が些細なものに感じられ、そして気にしている余裕などどこにもないのだ。
    「釣りはいらない」
    「あ、ちょっと……」
     言葉を続けようとした運転手のそれを遮るように、桜庭はタクシーのドアを力のかぎり閉めた。

     勢いもそのままに、事務所に続く階段を駆け上がってドアを乱暴に開けると眼前には見慣れた風景が広がった。穏やかそのものであるその場所は、しかしながら今は桜庭の焦燥感をより増幅させる要因でしかなかった。この世界は、自分を取り巻く環境は何もかもがいつも通りのはずなのに、何かがおかしい。
    「おはようございます、薫さん。そんなに慌ててどうかされましたか?確か午前中は……」
    「山村君、この事務所全員分のスケジュール表を見せろ。いつのものでも構わない。今すぐにだ!」
     開口一番ただならぬ剣幕で詰め寄る桜庭に気圧されたのか、賢は、少し待っててください、と慌てた様子で手にしていたおぼんを置いて奥へと引っ込んでいった。
    「さくらばせんせいじゃないの。こんな朝からどうかした?」
    「おはよう、桜庭君。声を荒げるなんて珍しい」
     賢とは逆に、奥から姿を現したのは次郎と道夫だった。2人ともこちらの様子にひどく驚いたようだったが、今の桜庭にそんなことを意に介する余裕はなかった。
    「山下先生、硲先生。【天道輝】という名前に聞き覚えは?」
     いきなり事務所に飛び込んできたかと思えば、なんの脈絡もないことを尋ねた桜庭に2人は顔を見合わせる。だが今の桜庭の様子からただ事ではない空気を感じたのか、次郎は顎に手を当てて考え始めた。
    「テンドウ、テンドウ……俺が教師時代に担任したクラスにそんな苗字の生徒が1人いたけど、まさかその子のことじゃないだろうしなぁ。はざまさんは心当たり、あります?」
    「いや、私が記憶している限りではそのような氏名の者と何か縁を持ったことはない。桜庭君、申し訳ないが我々には思い当たる節がない。君の個人的な知り合いか、何かの勘違い、ということはないだろうか」
     この2人まで。
     そんな考えが一瞬浮かんでは消えていく。次郎と道夫が桜庭に対して嘘をつく理由もなければ意味もない。それにそんな事をする相手だとも思えない。思考がどんどんと混迷していく。するとひどく慌てた様子で、賢が紙束の挟まれたバインダー持ってこちらに走ってきた。
    「こちらになります」
     桜庭は礼を告げるのも忘れ、差し出されたバインダーをなかばひったくるように手元におさめた。そしてものすごいスピードで紙束をめくっていく。
     C.FIRST、High×Joker、神速一魂、彩。
     リストには各ユニットに所属するアイドルと、スケジュールが整然と羅列されている。桜庭はその中にただ一つの文字列を求めたが、それはどこにも見当たらない。きっと自分の見落としか、他のユニットのところに間違えてソートされているかもしれない。そんなあり得ない可能性を求めて、また1枚と紙を捲っていく。
     Beit、Legenders、DRAMATIC STARS。
     その文字列を目にした瞬間、桜庭の動きがぴたりと止まるった。
     DRAMATIC STARSの項目を指でなぞっていく。そこには確かにここ1週間の桜庭のスケジュールが正確に書かれていた。隣には柏木のものもあるが、リストに載っているのはそれが全てだった。
     「……足りない」
     胸中に溢れて居場所のなくなった感情が音になったかのように、桜庭は喉を震わせた。その小さな呟きは、次郎と道夫の表情を怪訝なものにさせる。
    「足りないって、スケジュールに漏れでもあったの?プロデューサーちゃんの凡ミスかな」
    「いや、それは考えにくい。私がこの事務所に所属してからずっと、このスケジュール一覧表は完璧に我々の仕事を記載し続けてきた。きっと315プロが設立された頃からそうなのだろう」
     するとどことなく怯えた様子の賢がおずおずと補足をする。
    「その表は、僕とプロデューサーさんでダブルチェックをしてから作っています。なので書かれているものが間違いということはありません」
     つまりは。
    「……山村君、この事務所には今、何名のアイドルが所属している?」
    「えっ?ええと、表にもある通り48人です、けど……」
     その場にいた3人が眼を丸くして桜庭を見る。その視線は物言いたげで、しかし誰も口を開くことはない。その沈黙が桜庭の思考を否定しているように思われて、桜庭はそれを振り払うようにかぶりを振った。
    「奥の仮眠室は空いているか?」
    「あ、はい。今はどなたも使っていませんよ」
     眠気もなく、また到底睡眠を取れるような状態ではないのは桜庭が一番よく知っている。だが今は1人きりになれる時間と空間が必要だった。誰に何を尋ねても、求めた答えは返ってこないばかりか奇異の眼で見られてしまう。それはまるで彼の存在を全否定するようで、桜庭には耐え難い苦痛でしかなかった。
    「奥の部屋を借りる。悪いが誰も通さないでほしい」
     桜庭が息を吐いて眼を細めると、賢は「わかりました」とぎこちなく笑んだ。
    「あの、最近はスケジュールも詰まってましたし、少しの間だけでもゆっくりしてくださいね」
     いつもならば文面通り受け取る賢の細やかな気遣いは、しかしながら今は自分がおかしいのだと、桜庭は眼前に突きつけられるような心地だった。これ以上憐憫や奇異の眼で見られることに耐えられそうもなく、桜庭は逃げるようにその場を後にした。

     仮眠室に入ると、桜庭はドアを施錠した。
     これ以上誰かに彼の存在を尋ねることは自身の首を絞めるだけだと感じたからだ。たった1つの答えを渇望しても、それを得られることはない。この世界が異常なのか、自分が異常なのか。桜庭の思考は果てのない迷宮に落ちていく。
     天道輝という人間の存在を、桜庭薫以外の誰もが認めない。
     僕が彼を否定してしまえば、この世に【天道輝】という唯一無二の存在の証明は出来なくなる。そんな底知れぬ恐怖と不安が桜庭の中に生じていた。まるで最初からこの世界にいなかったかのように、彼の生きた証が消えて無くなってしまう。人の記憶とは恐ろしいほどに曖昧かつ単純なもので、毎日念じ続ければ実際には存在しないものを自己のためだけに創り出し、記憶に組み込んでしまう事もできる。また、記憶装置と違って選んだものだけを正確に記憶したり消去することもできない。僕の記憶の中にしか存在しない彼は、本当に在るのだろうか?そんな疑念が桜庭の脳裏を過ったが、もう1人の自分がそれを叩き潰す。
    『君はこちらをを信じて全てを受け入れ、またこちらも信じ全てを委ねた相手を裏切るのか?この世界で君だけしか彼のことを覚えていなくても、それがどうしたというんだ。共に過ごした時間は君の都合のいい幻覚か?』
     それは紛れもなく、己の中にあるもう一つの声。
    「……僕が、僕自身が信じないでどうする」
     桜庭は、この世界でたった一人だけ、自分に言い聞かせるように呟いた。

     桜庭は外套のポケットからスマートフォンを取り出して操作していく。
     まずはLINKを開く。メッセージ履歴や連絡先一覧を眺めるも、その名前はない。
     次いで画像フォルダを見る。自撮りの類を決してしない桜庭は、しかしながら自身が掲載されている雑誌の画像などは次の仕事に生かすためにと保存している。その中からDRAMATIC STARSの記事を探して確認するが、やはり2人しか写っていない。
     ならば、と桜庭は指が覚えている番号を打ち込んでいく。基本的にそういった類は一切記憶しないが、この番号だけは特別だった。発信ボタンを押してスマートフォンに耳を当てるとすぐに機械的な女性の音声が流れる。
    『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
     一つ一つの出来事は薄らと想定していたはずなのに、そのどれもが望んだ結果を与えてくれないことに桜庭の焦燥感は駆り立てられていく。今どれだけ皆に尋ね、彼の存在を主張してもそれに対して求めている答えを得られることはない。それどころか繰り返すことにより記憶の混濁や妄言の類を疑われるだろう。
     この世界からの桜庭への否定は、天道輝そのものの否定だ。誰かに問いかけるたびに否が応でもそれを意識せざるを得ない。一つ小さくため息を吐き、桜庭は椅子の背もたれに体重を預ける。そして腕を組み瞳を閉じた。外からの情報を一旦締め出し、自身と向き合うことが重要に思えたからだ。
     頭の中に浮かぶのは不思議とどれも靄のかかったような情報ばかりで、どれから処理をしたものか、と思案を始める。
     全てがいつも通りの世界。自分は目的のために315プロに所属し、DRAMATIC STARSというユニットを組んでアイドル活動をしている。そして事務所には仲間達がいる。
     だが歯車が一つ欠け、どこか歪んでいる世界。天道輝という人間の存在を誰もが認めない。彼は事務所にも所属しておらず、仲間にも知っている者はいない。
     しかしながら桜庭は朝の光景を思い出す。確かに自分は歯ブラシが2本あるのを見たのだ。
     それは些細なことかもしれない。もしかしたら予備にと2本目を買って置いてあったのかもしれない、と疑うこともできる。しかし桜庭はそうではない。あの赤い歯ブラシの所有者は、確かに自分の腕にかき抱いた存在のものなのだと断言できるのだ。それは決して妄想でも幻覚でもないのだとも。
    『桜庭』
     すると突然声が聞こえてきた。思考の海という暗闇の中、どこか遠いところから投げかけられたそれは、しかしながら確かに自分の名を呼んだのだと桜庭は認識することができた。
    『どうしたんだよ?そんな険しい顔して』
     姿は見えない。それどころか、その音が桜庭の鼓膜を震わせていないことに気づく。だが今はそんな瑣末なことはどうでもよかった。
    『いつか眉間がひび割れちまうぞ』
     ふわり、と何かが柔らかく笑った気配がした。何も捉えてはいないのに、空気が変わったのだ。
    『せっかく綺麗な顔してるんだから、お前には笑顔が似合う』
     たった2歳差なのに年長者風を吹かせ、いつも自信に溢れ、ともすれば暑苦しいほどの正義感を胸に秘めた男の、それでいて恋人の名を呼ぶときには少しだけ甘い色を含んだその声。
     桜庭が聞き間違えるはずはなかった。
     この世界に渇望してやまない、唯一無二の存在。
    しばしば意見は対立し、ときには口論になるユニットメンバーであり、しかしながら運命共同体の仲間である。そして桜庭が今のこの世界で唯一、この男になら必要があれば自分の全てを曝け出してもいいと思える相手。
     名を呼びたかった。
     言いたいことだって山ほどあった。
     だが、声を絞り出すどころかその姿すら見つけることができない。
    『ほら、皆がお前を待ってるぜ。こんなとこで寝て風邪でも引いたら大変だろ?』
     ふざけるな、君のことは誰も待っていないかのような物言いはよせ。それに僕は君に体調管理の面で心配されるいわれはない。君は今どこにいるんだ。
     そんな言葉が浮かんでは消えていく。どれも音にはならない。ならばせめて、その名だけでも。
    「──てんどう」
     そこで暗闇から白の世界へと景色が一転した。
     時計を見れば10分ほどが経過していた。瞳孔が収縮し、目に正常な光量と共に先ほどまでと何も変わらない景色が飛び込んできた。どうやら少しの間眠っていたようだ、と桜庭はすっかり冷えた身体を小さく震わせる。自身の発した音で目が覚めるのは不思議な心地で、それが求めている相手となると尚更だった。
     自分の内側には確かに彼が存在する。彼はいる。だかそれは自分の心の中だけなのだろうか?
     桜庭は自問自答をする。それは一つの答えを見つけるためのものであった。
     いいや、そんなはずはない。
     様々な感情を込めて名を呼ぶ声も、夜空を彩る一番星のように明るく笑いかけるその表情も、キスをした後にいつもより少しだけ熱を持った肌に触れた温もりも、全部覚えているのだ。
     確かに彼はいる。それは夢や幻覚などではない。
     もし存在しないのだとしたら、桜庭自身や、もしくはこの世界そのものが虚構なのだ。
     それが桜庭が導き出した答えであった。それと同時に、一瞬でも自身に不安や疑問を抱いた自分を嫌悪した。その一瞬、彼は本当にこの世界から締め出されたのだ。
     まだ確認することがある、と桜庭は立ち上がる。手早く身なりを調えて仮眠室を出ると、事務所には誰もいなかった。好都合だ、と足早にビルを後にしようとすると、階段に人影があった。なんとか声を掛けられないように避けようと思ったが、この細い階段は人がすれ違うのもやっとだ。相手が成人男性なら顔を見ないなんてことはまず無理だろう。
    「おや、桜庭サン。こんなところで会うとはな」
     やはり避けられなかったか、と桜庭は眉根を顰めた。掃除でもするつもりなのだろう、バケツと雑巾を手にした男──葛之葉雨彦は、片手を上げて気さくそうな挨拶をした。
    「僕に何か用でも?」
     対して桜庭は微塵も愛嬌のない言葉を投げかける。元々にこやかな人付き合いが得意ではないという気質に加え、今は外聞を気にする余裕が全くないからだ。だが雨彦は気分を害した様子はなく、桜庭をまじまじと眺める。
    「……おや」
     それははヒュウと音を立てている隙間風にかき消されそうなほど小さなものだったが、桜庭は聞き逃さなかった。事務所の仲間とはいえ、どこか浮世離れした雰囲気があり、いつも意味ありげな言動をする葛之葉雨彦という男を警戒しているからだ。何か根拠があるわけではなくただの直感だが、外れることはそうないだろうと桜庭はそれをを信じている。
    「特に用がないなら──」
    「いや、ちょいと待っちゃくれないか」
     やはりそうきたか、と桜庭は自分の感覚が大きく外れてはいないことを確信した。
     こんな状態の桜庭に関わろうとする人間は世界広しといえどもそういない。桜庭自身も、そういった人間にはなるべく接したくないと思うからだ。しかし目の前の男は、こちらが細めた瞳で警告するように視線を投げかけようとも、物怖じするどころかかえって興味を引かれたような様子だ。やはり食えない人物だ、と桜庭は表情を固くした。
    「動かないでくれ。お前さんの肩あたりにある汚れが気になっちまってな」
     せっかくの色男が台無しだぜ?と笑いながらも、雨彦の瞳は真剣そのものだ。少し気圧された桜庭が素直に静止すると、ぽん、と肩を少し強めに叩かれた。そして何かを払い除ける動作をした雨彦は、少しだけ表情を緩めたように見えた。
    「これでよし、と。引き留めちまって悪かったな」
    「終わりか?埃を落としてくれたのには感謝するが、急ぐので失礼する」
     ニコリともせずに桜庭はその場を後にしようと、階段を無理やりにすれ違おうとする。不思議と先ほどまでの逸った気持ちは少し落ち着いていたが、まだ何も解決はしていないのだと先を急ぐのに変わりはなかった。雨彦はそれを察して踊り場まで後退して通路を作る親切心を見せたが、それに対しても特に礼を言うことはできなかった。
     すれ違おうと雨彦の前に立った瞬間、そういえば、と桜庭は歩みを止める。まだこの男にはまだ尋ねていなかったことがあるのを思い出したからだ。
    「一応聞いておきたいことがある。天道輝という名に聞き覚えはないか?」
     今日何度となく問うたことをまた譫言のように繰り返す自分はまるで壊れかけの蓄音機のようだ、と嘲笑うもう1人の自分は見ないふりをして、桜庭は一瞬雨彦の瞳を見た。
    「悪いが知らないな。桜庭サンの知り合いか?」
    「……そうか」
     答えを期待していたわけではない。また同じことが繰り返されるだけだというのも分かっている。それでも問いかけることをやめない。それはまるで何かにしがみつくようですらある、と桜庭は自己に不思議な感情を抱いた。嫌悪とも憐憫とも呼ぶことができないそれを処理するのは終わってからでいい、と桜庭は心にそっと蓋をした。
     この場に用は無くなった。ならば一刻も早くここを去るべきだ、と先を急ぐ桜庭に対して、雨彦はすれ違いざまにぽつりと呟いた。
    「──お前さんも難儀だな」
     桜庭には聞こえていたが、やはり気にする余裕はない。敢えてその言葉の意味を考えることはせずに階段を駆け下りた。

     再びタクシーに乗り、桜庭が運転手に告げたのは何度も唇に乗せたまるで呪文のような住所だ。部屋番号まで間違えることなくすらすらと告げることができるのは、己の記憶力の良さか特別な場所だからか。あるいはそのどちらやもしれぬ、と桜庭は車窓を流れる景色を眺めながらぼんやりと思考していく。今は絶えず何かを考えていないと神経が焼き切れそうだったからだ。
     いくら考え、求め、行動してもその大切な存在を感じることができないことに対し、桜庭は苛立ちとやるせなさを強く感じていた。
     もしかしたら彼は、自分が気づいていないだけでこの世界に存在しているのかもしれない。315プロに所属せず、ヒーローになるという夢を叶えるために弁護士の道を歩み続けているのかもしれない。桜庭は一度だけその可能性について考えた。
     彼がこの世界に存在しないよりは遥かに良いかもしれないが、弁護士として歩みを止めることのない天道輝はアイドルの桜庭薫と今のような関係を持つことはないだろう。彼が自分を認知していなければ、自分が彼の存在を実感できていないのなら。
     それはこの世界に【桜庭薫にとっての天道輝】が存在しないのと同義だ。
     このどこまでも続く青空の下、どこかの場所で彼が元気に生きていようとも、不慮の事故や病などでこの世界を去っていたとしても、そもそもこの世界に生を受けていないのだとしても。
     桜庭にとっては全か無か、ただそれだけだった。
     そこまで思考し、桜庭はいかに己が利己的なのかを思い知らされ嫌悪を強めた。結局桜庭は、自分の手の届かないところにいるかもしれない彼の存在を認めないと無意識のうちに思っているのだ。だがそれを愚かだと断ずることはできそうになかった。
     ふと車窓を見れば先ほどまでとは景色が変わり、住宅街に入ったのがわかった。程なくして目的のマンションが目に飛び込んでくると、桜庭は少しだけ緊張した面持ちになる。
    「停めてくれ」
     指定された住所はもう目と鼻の先なのに、手前で降ろせと言ってきた客に驚いたのだろう。運転手は少々戸惑いながらも、ゆっくりと路肩に車を寄せた。桜庭は今度はきちんと表示されている金額通りの支払いをし、タクシーを降りて一つ深呼吸をした。そしてそのマンションに向かって歩み出す。
     自分の記憶が正しければ彼はそこに住居を構えているはずであり、きっといるに違いない、と桜庭は考えたのだ。しかしそれは単なる希望的観測に過ぎず、全ての歯車が小さく、だが確実にずれているこの現状では何も確証を得ることはできない。自身の記憶は当てにならないのだと、桜庭はすぐに思い知ることになる。
    【入居者募集中 お気軽にお問い合わせください】
     階段を登った先にある、何度も足を運んだはずのドアには1枚の看板。壁に書かれた数字を見ても、部屋の周りの景色を見ても、確かにこの場所に間違いはない。
     ああ、僕の知っている彼は本当にいないのか。
     桜庭の胸中にじわりと絶望の色が滲む。ひとつひとつは些細なことでも、それらがどんどんと積み重なっていく。全ての事柄が、自分の知っている天道輝は本当にいないのだということを明確に指し示している。今まで見て見ぬふりをしてきた事実を受け止めてしまい、ついに心が悲鳴を上げたのだ。
    「…………」
     桜庭は踵を返し、ゆっくりと階段を降りていく。一段ずつ踏み締める度に、彼の記憶が曖昧になっていくような心地だった。

     どこをどう歩んだか記憶はない。だが気づけば住居を構えている部屋の前に立っていた。
     どうせ僕の記憶は当てにならないのだから、と桜庭は自嘲的な笑みを浮かべつつドアを開いた。まだ確認したいことはある、と最後の力で己を奮い立たせつつ洗面台へと向かう。
     桜庭がよすがとしている2本の歯ブラシ。現状で唯一彼の存在を証明しているもの。
    『これ、すっげー磨きやすいんだぜ!アイドルって見た目も大切だろ?だからさ、ほら』
     いつの日だったか、どこか照れくさそうに彼から渡された青の歯ブラシ。その時はわからなかったが、互いの家に私物を少しづつ置くようになってから彼とお揃いだということが判明し、桜庭は驚いた記憶がある。天道は自分におすすめのものを渡してきたのだとばかり思っていたが、それが口実だったとは、と。そして桜庭はそれ以来ずっと同じものを買って使っている。それは彼も同じで、色違いの歯ブラシが支え合うようにして立ててあるのを見るたびに、桜庭は確かにこの日常が夢ではないことを認識していた。
     すっかり陽が落ちて暗くなった洗面台の前に立ち、鏡についている電気のスイッチを入れる。ブラシ立てを見ればそこには確かに、青の歯ブラシが1本だけ立っていた。周囲を見渡してもそれ以外のものは見当たらない。
    「……嘘だ……」
     桜庭の唇から小さな音が零れ落ちる。自身にとっての最後の砦がいとも簡単に崩れ去ったのだという現実と、彼は自分の世界の中に本当に存在しないのだという事実が押し寄せる中、桜庭は天を仰いで瞳を閉じた。
     彼の居場所がないこの世界に、僕の居場所はあるのだろうか。
     誰もその問いに答えを与えることはできない。もちろん桜庭自身もだ。
    『さくらば』
     またあの声が頭の中に響く。こちらを心配しているようなそれに身を委ねてしまえればどれだけ楽になれるだろうか。
     彼は確かに存在する。それは桜庭自身が証明する。だが自分がそれを諦めてしまえば、彼の存在を誰が証明すればいい?
    『桜庭』
     何度もこちらを呼ぶ声に対し、赦しを求めるように言葉を紡ごうとするも、声にはならない。
    『おい桜庭、大丈夫か?』
     声がだんだんと近いものになる。まるで耳元で呼びかけられているようだ。
    「……僕、は──」
     意識が声のする方に引っ張られていく。抗い難いその引力に、桜庭は身を委ねた。



    「桜庭」
     声に呼び起こされてハッと顔を上げると、桜庭の目の前には赤い影があった。
     視界はまだはっきりとはしないものの、こちらを心配そうに覗き込んでいるのがわかる。
    「てん、どう」
     赤い影の名を唇に乗せれば、こちらを見て小さく笑った。
    「もうすぐ移動の時間だぞ。いい加減目覚ませよな」
     それは求めてやまなかった存在。
     どれだけ手を伸ばそうとも届かなかった存在。
     それが今、目の前にあるのだ。
     桜庭はその事実を認識すると呆然とその姿を眺めた。
    「僕は……いや、ここは」
     声に出したつもりはなかったが、勝手に言葉が零れ落ちていた。
    「レッスンスタジオのソファだ。お前、練習後に仮眠とるってここで寝てたんだよ。本当は次の仕事までもう少し時間あるけど、すごく辛そうにしてたからさ。早めに起こしちまった」
     目の前の存在に手を伸ばし、頬に触れる。短く揃えられた髭のじょりじょりとした感触と共に温かな彼の温度が桜庭を徐々に覚醒させていく。赤く少しクセのある髪、夕焼けを閉じ込めたような瞳、そしてこちらを見て微かに笑んだその表情。どれもがそれを彼──天道輝そのものであると証明している。
     気づけば桜庭は天道にしがみついていた。体勢を崩した天道はソファに倒れ込むが、それを気にすることなく両の腕にぎゅうと力を込めて存在を確かめた。
    「うわっ、急にどうした!?怖い夢でもみたのか?」
     夢。
     あれは夢なのか、もしくはこの世界から切り捨てられた、あり得たかもしれない可能性の枝葉の先なのか。その区別をつけることは桜庭にはできない。だが今はそんなことはどうだってよかった。天道の問いに答えることなく肩口に顔を埋めれば、彼が愛用している、サンダルウッドをほのかに感じるシトラス系のボディソープの香りがふわりと桜庭を包み込んだ。すると彼の腕が首筋に回り、抱き返される。そしてそれに力を込めて顔を近づけてきた。
    「なにをみたかはわかんねえけど、俺はここにいる。何も怖いことなんてない、大丈夫だ」
    その言葉に、桜庭はひとつ小さく頷く。子供をあやすかのようなそれは、しかしながら今の桜にはとても甘やかかに、心地よく響くものだったからだ。紅玉の瞳に映る世界には確かに、桜庭がいる。その事実だけで十分なのだ。
    「ほら、スタジオの外で翼も待ってる。だから早く起きて俺たちも行こうぜ」
     その笑顔は一番星のように輝いて。
    「お前がいないとDRAMATIC STARSが始まらないだろ?」
     その声は暗い夜道を照らす道標のようで。
    「俺たちは3人で運命共同体だからさ」
     その言葉は3人の心の支えで。
     だからこそ、3人が揃わないと意味がないのだというメッセージも含んでいる。誰が欠けてもDRAMATIC STARSは成り立たないのだ。
    「……ああ、君と柏木の面倒は僕が見なくてはな」
     ただそう呟くだけが精一杯だった桜庭を見て、天道は柔らかく笑んだ。
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