何故お前が居るんだ。そう問いかけた先で、半透明の影は肩をすくめてかぶりを振った。
「そんなもの、私のほうが知りたいものだ。私とて、ここまで往生際の悪いヒールになるつもりなぞ無かったさ」
午前零時五分。就寝前のルーティーンを全て終わらせた矢先に現れた亡霊を前に、家主ことベン・マサイアスは呆然とするしかなかった。
ほんの些細な秘密とするにはあまりにも凄絶な「グレイシー邸幽霊事件」から、およそ一年が経とうとしていた。ほとぼりは冷めど、固い結束と友情を誓ったドリームチームの面々の交流は絶えず、時折ギャビーとトラヴィスが未だ住まうかの屋敷にて、頻回集っては近況報告や思い出話に花を咲かせている。踊り、酒を酌み交わす気の良い亡霊たちを眺めて生への思いを馳せるその時間が、ベンに限らず、彼らにとっての特別な時間である。これでもかと満ち足り、欠落だの寂寥だのは一切見当たらない。文字通り人生がガラリと変わった面々の中で、ベンは平穏に日々を過ごしていた。
そして今夜も、その幸福を噛みしめて眠れるはずだったのだ。目の前の男が、玄関先に立つまでは。
「…久しいな、ベン。随分と血色が良くなったか?」
電気のスイッチに手をかけたベンの背後から、そんな声が聴こえたのだ。依然記憶に焼き付いて離れない、腹の底に響くような、低く異様なほど通る声だ。まさかと振り返った先の光景に、ベンはひどい眩暈を感じてその場に立ち尽くしてしまった。
目線の先で、夜闇より黒いマントが翻っていた。ステッキを持つ枯れ枝のような腕と、玄関ドアの天辺に当たりそうなシルクハットは、忘れようにも忘れがたい。ほとんど声にならない、掠れた呟きがベンの口から漏れた。
「…なんでだ、あの世に送り返したはずじゃ」
呆然と口にした彼の目の前で、眉ひとつ動かさない亡霊──ハットボックスゴーストはゆっくりとベンに歩み寄ってきたのだ。
あの時派手に顔を蹴落とし、決着をつけたはずだったと疑わないベンに、無論まともな話し合いが出来るはずもない。すっかり動揺している彼は、矢継ぎ早にハットボックスゴーストへ詰問していた。
「お前、なんでここにいるんだ!?どうやって戻ってきた!?今度は何をするつもりで来た!?おい、お前本当にあの時のハットボックスゴーストか!?」
「一度落ち着きたまえ、ベン。紛れもなく私だよ」
声を荒げるベンとは対照的に、亡霊は冷静そのものであった。落ち着き払った素振りで帽子箱をソファに引っ掛け、拳を握りしめて言葉を繰るベンに手を伸ばす。払いのけられてもなお、けらけらと笑っていた。何故こんなにも呑気でいられるのだろうか、ベンにはおよそ理解しがたいものである。
「な、何よりもだ、なんでお前がここに居るんだ!あの時確かに蹴落としたよな?」
真っ先に訊ねたい事を吐いたベンに、ハットボックスゴーストもまたぐるりと目を回して首を振る。心底呆れたように動く目が、いつになくぎょろりとしていて気味が悪い。
「私だって知りたいさ。何故か戻ってきたくもない現世に戻った挙句、私の力などもうほとんど残っていない。それなのに、奈落はおろか墓場にすら戻れんのだよ」
「…待て、力が残っていないだと?それに戻れないって、嘘じゃないだろうな」
「そう訝る気持ちも分かるよ」
マントの皺を叩いたハットボックスゴーストは、その裾をつまんでひらりとその内を暴いて見せる。
ベンは一瞬だけ目を瞠り、ごくりと生唾をのんだ。漆黒の内側が、曖昧な輪郭しか持たぬ靄のように朧だったからである。仕立ての良いスーツも細工の細かいベストも、何もかもが絶えず形を歪め、屋敷に居る亡霊たちよりもずっと不明瞭なのだ。飲み込めない様子のベンを察し、ハットボックスゴーストはひとつため息をついて語りだした。
「この通りだ。私は今や、姿形を保つのもままならん。屋敷の亡霊どもを従わせることなど到底出来んよ。いや、従わせることはおろか、奴らの縄張りにでも入ったらどうなる事やら」
そう語る亡霊のシルエットを見て、なるほど、ベンは静かに頷く。先ほどの違和感はあながち間違いではなかったらしい。いつかの逆降霊会で出会ったときの、どす黒いオーラも見当たらない。おまけに、ベンが暫しじっくり観察している最中、杖に凭れる身体がずるりと崩れかけたのだ。何事かと訊ねた彼に返ってきたのは、少々椅子を借りても、というなんとも拍子抜けする伺いだった。相当弱体化しているらしいと、ベンはしぶしぶ手近にあったウッドチェアを押しやる。腰を下ろしてひと息ついたハットボックスゴーストに、ベンはじっとりとした目を向けた。
「…本当に弱っているんだな。それで、なんで俺のところに来た」
「あぁ、そのことだがな。単刀直入にお願いさせてもらう」
息を整えた亡霊は、静かにベンを見つめてその願いを口にする。
「君の家に、当面居させてもらいたいのだ」
無論、ベンがその言葉に耳を疑ったのは言うまでもない。椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、ハットボックスゴーストの言葉に噛みつく。
「俺の家に居るだと!?本気で言ってんのかお前!どういうつもりで言ってるんだ!?」
「そうなるのも頷けるよ、ベン。私とてこんな事を頼みたくはないがね。霊媒師にも神父にも会いたくはないし、あの屋敷には戻れまい。教授の身体を借りた手前、あの男のもとにも行けないのだよ」
だからと言って、己のもとに来るのもどうかしているだろう。ベンは眉間を押さえる。当のハットボックスゴーストはというと、優雅に足を組んで家を見渡している。どうにもその余裕の素振りが癪に障るが、ベンはじっと考え込む。この亡霊が力を失っているというのは、嘘には見えない。肌の粟立つような威圧感などほとんど無いその様子は、どうも装いの類ではないらしい。おまけに、万が一赤の他人の家に上がり込んだらと考えると、この腹の内が真っ黒の亡霊が何をしでかすか分からないのだ。下手にこの亡霊を刺激した誰かに、災難が降りかかったら?そう考えると、野放しにするのも気が引ける。この男が家に居るという事実が嫌だという点を差し引いても、だ。
「…分かった、ハットボックスゴースト。そのかわり絶対に他の奴らに迷惑をかけるな。そして勿論、俺の生活の邪魔をするなよ」
顔を顰めて大きくため息をつくと、ベンは頭を振って答える。その言葉に、ハットボックスゴーストはなんとも満足げに、そしてこの上なく意地の悪い笑みを浮かべた。が、どことなく安堵したような色を覗かせた笑みだった。もっとも、その色にベンは気づいていないようではあるが。
「…感謝する。それと、私はハットボックスゴーストなどという安直な名前ではない。君もちゃんと呼んでいただろう?クランプとでも呼んでくれ、なんならアリステアでも構わんよ」
「…気色悪い、せめてクランプでいいにしろ」
「つれん男だ」
かくして、一夜にして全てを失った亡霊と、幸福の真っ只中に一寸の翳りを落とされた男の、奇妙な共同生活が始まったのだ。
・・・・・・・・・
朝目を覚ましたベンが部屋を見渡すと、どこにも昨晩の影は見当たらなかった。起きた瞬間はドクドクと心臓が鳴りだしたが、ソファにもクランプの杖は掛かっておらず、あの派手な足音も聞こえてこない。ほっと安堵のため息をつき、ベンは顔を洗いにのそのそとベッドから這い出た。目を擦りながらバスルームのドアに手をかける。
「随分とゆったり起きてきたじゃないか」
手を滑らせかけ、ドアに背を預ける形で体勢を崩したベンは、慌てて声のしたほうを見る。
部屋の隅にあるスツールに、マントを脱いだクランプが優雅に腰掛けていた。ゆったりと足を組み、呑気にも本のページを捲っている。
「夢じゃなかったのか…」
「そんなに残念かね。眠りを妨げてはいないんだがな」
ふっと笑って、クランプは手にした本を閉じる。手にしていた本は、カポーティの名著『ティファニーで朝食を』であった。
「随分と俗人的なものも読むのだな、ベン。君はてっきり、隣の本棚にある妙な学術誌ばかり読んでいるものかと」
彼の言葉に反論をしかけたベンだが、クランプの手にある本のタイトルを見た途端、ぐっと言葉を呑みこむ。微かに目線を逸らした彼を、クランプは怪訝そうに見つめていた。
「…それは俺の持ち物じゃない。彼女のだ」
ぽつりとこぼすベンを前に、クランプは顔色ひとつ変えずに、そうか、とだけ返した。静かに小説を棚に戻す。そんな彼を横目に、ベンは今度こそバスルームへ消えた。
顔を洗って出てくると、クランプは既に本を戻した後だった。先ほどまでの落ち着き払った読書中の姿とは裏腹に、キッチンのトースターやレンジを前にきょろきょろしている。
「それにしてもだ。今世は随分と利便性が上がったものだな。私の生きた時代にこんなものは無かった」
興味深そうに家電類を観察するクランプをよそに、ベンは冷蔵庫から引っ張りだしたヨーグルトをココットに移し、ブルーベリーのジャムを添えた。そうしてレンジを観察し続けるクランプを軽く押しのけ、隣のトースターに一枚食パンを突っ込んで焼き上がりを待つ。が、結局は香ばしい匂いが漂う前にそいつを引っ張りだしてしまった。まだバターが溶けきらぬうちに、トーストにかじりつく。いつの間にやら隣に来ていたクランプは、その様子をじっと見ていた。
「まだ焼けていないだろうに。少しくらい待っても良さそうなものだが」
「そんなに時間が無いんだよ。大学についてから講義の準備が、今日はちょっと多いからな」
忙しなくトーストを腹に収め、ヨーグルトを口に運ぶベンを前に、クランプは肩をすくめて顔を逸らした。咀嚼する音を、ごくりと喉が鳴る音を、聞き流しながらどこを見るでもなく頬杖をつく。
味わうのもそこそこに、ベンは食器を片付け、身支度を整える。ジャケットを羽織って、鞄を抱えると玄関へ走った。背後でソファの軋む音を聴き、一度だけ振り返った。視界の先に、キッチンへ向かおうとするクランプの後ろ姿を見留める。
「おい、ひとつだけ言っとくぞ。頼むから家電を乱暴に扱うなよ。壊れたらシャレにならないんだ」
分かっているのか分かっていないのか、クランプが、あぁ、と生返事を返す。引っかかりを感じながらも、ベンは家から飛び出した。
昼食の時間が来た。
普段なら、適当にカフェにでも入るか大学のカフェテリアに行くかで早々に食事をとるのだが、どうにも自宅のことが気になって、ベンは一度学校を抜けた。いやな予感が拭えないのだ。興味津々な様子のクランプが、あのままじっとしているとも思えない。どうにも急く思いで、本来なら夕時に辿るはずの帰路を急ぐ。
ドアに手をかけた時、家の中は静まり返っていた。ほんの一瞬、再びクランプは居なくなってくれたのでは、などという期待がこみ上げた。
せっつかれるままに扉を開けた途端、その希望は粉々に打ち砕かれることになるのだが。
──調理台の前に佇むクランプに、胸のざわつきを覚えたのは確かだ。おい、とひと言声をかけたベンを、クランプはゆっくり振り返る。なんでもないような顔つきを前に、不穏を思わず忘れてしまった。
「…ベン、この大きな鉄塊がうんともすんとも言わないのだが」
結局、午後の講義は生徒に心配されるほどに、ベンは憔悴していた。きょとんとするクランプを突き飛ばし、大学に戻ってきてからというもの、彼はほとんど気もそぞろな様子で仕事を続けていた。彼の講義に熱心な生徒達にこれでもかと気遣いと心配の言葉をもらいつつ、彼は重い足取りで自宅へと戻ってくる。
またあの男と顔を合わせなければならないのか。肩にのしかかる憂鬱で、鞄の肩紐がずるりと落ちる。時間を作って新しい電子レンジを探さなければならないし、クランプがまだ家に居続ける以上は行動を制御しなければならない。そうでなければ、壊されてはマズい物を隠しておかなければいけない。一挙に押し寄せた困難を前に、帰路の足取りがさらに重くなる。やはり、昨晩あの男は追い返さなければいけなかったのか。
玄関前に立って深呼吸をした。ひょっとすると、部屋の中は余計にひどい有様になっているかもしれない。その覚悟を決め、とうとう扉を開けた。
開けたすぐ先に、クランプは居た。キッチンから離れ、かといってソファに腰掛けるでもなく、帽子を深くかぶって顔を伏せていた。まさかほとんど目の前に居るとは予想していなかったせいで、小さく仰け反ってしまう。ほとんど反射的に、ただいま、と口走った。誰も居ない(まぁ実際はアリッサも居ないのだから当然なのだが)家に、久方ぶりに放った言葉だった。放ってからそれに気付いた。
「…何してんだ」
どう話しかけたらよいかも分からなくて、そう尋ねるほか無かった。
「どうにか奮闘したのだが」
そう言って、クランプがキッチンのほうを指さした。驚いてしまった。電子レンジの液晶に、数字が戻っていた。え、と素っ頓狂な声を上げて駆け寄り、レンジのボタンをくまなく押して確かめてみる。正常だ。
「なんで直せた?なぁ、どうやって」
「そんなもの私も知らんよ。どうにかなったのだ、それでよかろう」
そう言ったクランプの目つきは、いつになく気だるそうに見えた。いまいち焦点の合わない目線と自分のがかち合った。心地悪い、とも言いきれない事が尚更心地悪かった。
ふと、クランプの体がゆらりと揺れた。かつん、と杖の音が響き、靄に包まれた身体が傾く。既視感を覚えたのは、まだ記憶に新しい昨日の光景だ。
「…休ませてくれ。“朝通し”の労力が堪える」
妙な言葉まわしに一瞬首を傾げたが、そういえばこの男ならびにゴーストの領域は真夜中だったという事を思い出す。そうか、とだけ返した。目の前の体が、ソファにしな垂れかかり動かなくなる。はぁ、はぁ、という疲れの滲んだ息遣いがだんだん速度を緩めて規則正しくなっていくのを聞き届けてしまう自分に、二たび驚いた。そうしてひと段落ついた時、呟いた。
「…いや、やっぱり出て行かないのかよ」