あまつかぜ 空に厚く濁った雲がかかり、太陽の光が鈍く乱反射している昼下がり。堅苦しいスーツを来たサラリーマンに、遊び気分で浮かれきった観光客。老若男女数多の人々。大小さまざまな自動車、タクシーにトラック、もちろんマフラーを爆音で唸らせる真っ黒なバイクも。目の前の大通りはうんざりするような喧噪で満ちている。
カフェの中とを隔てる大きなガラス窓は、外界の景色を一枚絵のように切り取っている。店内に聞こえるのは利用客の静かな話し声のみ。
男は窓際の席に座り、季節はずれのアイスティーを飲みながら、手前のモバイルパソコンに向かう。
「うーーん……」
思いついた文字列をワードに入力してみるが、全くしっくりこない。バックスペースキーを連打する。入力しては消す、さっきからこの繰り返しだ。ちっとも前に進まないし、キーが小さいわ押しづらいわで気分も全然上がらない。
画面右下に、メッセージ受信の通知が表示される。見積もりを依頼していた相手からの返信メールだった。この際金額はどうでもいい。納期はいつだ。画面を一気にスクロールする。
――そこに表示されていたのは、表立って記載されている内容と全く同じ、期待からは遙か遠い、定型文のような回答だった。
「二週間後じゃ間に合わないって依頼文に書いただろうが。クソ!」
男はそう唾棄し、力任せにパソコンを閉じた。
「は~~っ。ホンットだりぃ……」
「ふぅん。柄にも無いこと言っちゃって」
いつの間にか、頬杖をついた女が向かいに座っていた。こちらに近づいてくる気配も感じ取れなかった。否、突如そこに沸いて現われた。亡霊か何かか?
男が怪訝そうに睨み付けるが、女は気にせずにべらべらと捲したてる。
「ムカついた~! ってどうにもならない事を口に出したところで別に大したストレス発散にはなってなくて。むしろ自分の記憶の中に呪いとなってずっと残り続ける。咬爪症? セルフネグレクトってやつ?」
「黙れ。つか誰だてめえ」
「誰でもいいじゃない」
小憎たらしくせせら笑う向かいの女に、男はさらに苛立ちを募らせる。
大きな黒目でこちらの瞳を覗き込もうとしてくる。唇に薄く引かれた赤いルージュが白い肌によく似合っている。可愛らしい外面をしているのに、女からぷんぷん匂う性格の悪さが際だって腹が立つ。もはや同族嫌悪に近い。
しかもそこそこ冷え込む日だというのに、ホットパンツを履き素足を惜しげも無く晒している。頭でもイカれているのか。上に羽織っているパーカーも自分のそれと似ているのがまた不愉快だ。
「そんな太股出して、腹壊すぞ」
「は? 別にアンタのためにやってないんだけど」
「人の心配をにべもなく突き放しやがって。素直じゃねえな」
「自分を棚に上げておいて。よく言う」
あくまでも上から目線の態度を崩さない。女の口数は減るどころか増える一方だ。男は再び大きな溜息をつき、手前の文字列だけに集中することにした。
「何の詞書いてんの? ふぅん、〝愛〟ねえ」
無言を避けたがる女が自問自答し、頬の隅に笑みを漂わせる。
うるさい女だ。というか、こちらはまだ何も言っていないのだが。心を読まれているようで気味が悪い。男は顔を片方だけ歪ませた。
「いつ覗き見しやがった」
「何となくよ、なんとなーく」
右手でひらひらと仰ぎながら女は続けた。
「愛なんて形のないもの、いくら考えたとてキリなくない? 理想を描けば描くほどつかみ所がなくなる、幼稚な幻想。いくら強請っても貰えない。いくら受け取っても決して満足しない」
「それで? こちらから先に愛せば関係ねえだろうが」
「愛したところで、見返りがある保証なんてどこにもないのに」
「そんなもの求めてねえが?」
「嘘つき。じゃあセフレなんて必要ないでしょ」
図星を突かれた。肉を抉り取ってくるほど鋭い言葉のメスの前に、男は反論できず口を噤んだ。
女の言う通りだ。愛を捧げたとて心から満ち足りたことなど一度たりともない。こだまのように返ってくる愛はすぐに霧消する。
だからといって一人ぼっちを避けても、肉体的な満足を求めても、互いに傷を舐め合っても、最後に残るのは少しの虚しさだけ。
心の片隅に吹きこむ隙間風をどうすれば止められる。それが分からないまま、〝愛〟についてクサく語ってみようなどちゃんちゃら可笑しな話だ。
男が一人考え込んでいると、向かいの女は「ねぇ」とつまらなさそうに膨れっ面をする。
「アタシばっか喋ってて疲れた。フラペチーノ飲みたいんだけど。奢ってよ」
そう言いながら彼女は向こう側の期間限定商品の看板を指差した。傍若無人がそのまま服を着て歩いていやがる。いや、それでももう少し表向きに厚着をするだろう、普通は。男は心のうちでひとりごちた。
*
時計のデジタル盤を見遣ったときには、既に十五時を少し過ぎていた。店内は一息つきたい客でごった返しており、外にも何組か待ち客が出ている。
このままカフェで粘ったとて、今日の執筆は何の進展もないだろう。しかもこのいけ好かない女と一緒ときた。もう一度レジに並びなおし、テイクアウトでカラフルなフラペチーノとオーツミルクラテを頼んだ。
スマホの画面を店員に見せる。すると『ぺいぺい!』と能天気な声がフルボリュームで店内に響き渡った。音量調整をすっかり忘れていたらしい。
気まずそうに店員から視線を逸らす男の斜め後ろで、女はクックッと必死に笑いを堪えている。こいつ、わざと癪に障るようやっているのか。
二人並びドリンク片手に大通りを歩く。同じ帽子に似たような薄グレーのパーカー。下半身も季節から少し逸れた黒の短パン。誰から見てもペアルックである。背筋をぴんと伸ばしふんふんと歩く姿がそっくりで、カップルというよりは兄妹の雰囲気に近い。
「寒い日に寒い格好して冷たいものを飲んで。お前こそ自傷行為じゃねえか、それ」
「うるさいなあ」
女が口を尖らせながら、大きく掬ったホイップを口の中に放り込んだ。「あまあまっ」と呟いて、にっこりと微笑む。喜怒哀楽の乱高下が激しい。
一方で男はオーツミルクラテを一口啜り、優しい甘さが身体に沁み入るあたたかい感覚にほっと安堵した。
「俺に聞いてばっかりだけど、お前はどうなんだよ」
「何が?」
「愛されてるなぁ、とか幸福だなぁとか。満たされるときってあんの」
そう問われ、女は少しばかり空を見上げてからこう答えた。
「あるよ。パーティや飲み会とか、皆でわいわいしているときもそうだし……恋人に甘い言葉をかけられて、頭を撫でられてガタイのいい身体でぎゅっとされて。思いっきり抱かれている時間とか」
「めちゃめちゃ即物的じゃねえか、お前も」
「しょうがないでしょ。だってそれしか分かんないんだもん」と、女はコロコロと丸いツインテールを揺らした。
分からない、ねえ。
男は視線を移し、遠くまでひっきりなしにそびえ立つビルの数々を見渡した。
観光地になっている公園から遠ざかるとそこには、忙しなく無言で通り過ぎていく勤め人しか居なくなる。実に見慣れた都会の日常だ。陽は少しずつ沈んでいき、灰色に煤けても見える。それが良いか悪いかはいったん横に置いておいて。
男は譫言のように続けた。
「愛の定義について色々高説垂れてくれるけども。教わったところでピンと来なかったら知らないのと同じだ」
「悲しいけどね。教科書を暗記して覚えることでもないし」
「……だけれども。もしかしたら、こういうことかもしれない。みたいな覚えはある」
「へぇ、どんな」
女が好奇の目を見開き、爛々と輝かせた。
嘘つきにはなりたくないので、きっと、たぶんの話だが。
いくら努力しても空振りばかり。結果も思うように出ない。苛ついたところで堂々巡りだから、何も出来ないまま無力な自分に余計に苛つく。そういうどん詰まりの時ってのがある。
だが、その努力は実は無意味ではない。知っている友達が見ていてくれる。知らない誰かも何故か知ってくれている。
困ったと助けを求めたら、俺を知っている誰かが手を差し伸べてくれる。受けた施しに対してありがとうと口にすれば、不思議と元気が出る。
薄っぺらいプライドはいったん仮に全部忘れてしまって、純粋に。ガキの頃のように。
そういう単純なものではないだろうか。愛っていうのは。
「刷り込み、暗示、言い聞かせ。言い方は山ほどあるけど、神様もいないけど。言霊ってのはあるんだろうよ。きっと」
「ふうん、いいこと言うじゃん。〝コーサカ〟」
くすりと澄んだ笑い声が隣から聞こえる。その瞬間、さあっと一陣の風が吹き、頬を撫でていった。
男はすぐに振り向いたが、女はもうどこにもいなかった。
全部夢でしたと言わんばかりに、彼女がいた形跡は何も遺っていなかった。それとも本当に幻を視ていたのではないのだろうか。急いで決済アプリの残高を確かめたが、奢ってやったフラペチーノの金額分もきっちりと引かれていた。
――一体何だったんだ、あの女は。あれだけ腹が立った後なのに、今となっては不思議と悪い気がしない。
空を見上げると、灰色の空に少しずつ裂目が広がっていて、奥から橙色の光がうっすらと覗いていた。
心地良い風に吹かれ、なんだか気分も爽やかだ。今日はこのままゆっくり歩いて帰ろう。
そして、きっと家で待っている同居人にとびっきり大きな声で言おう。
「ただいま」って。
ソライロラジカルがすごく好きです。(結論)
アルバム一発目、浮遊感に満ちたオシャレなシティポップに乗せて、形らしい形のない愛についてああだこうだと語る曲。少なくとも私はそうだと認識しているんですが、どういう表情でフロウを刻んでるんだろ、なんて姿を考えるといじらしく思えてくるし、心がぽかぽかする。
メロディーも真っ青な夏空を思わせる、清々しい音色。好きなんですよね、ストレートに爽やかな曲って。
強烈な皮肉が混じったいつものコーサカ節で語った後に、「あげた分の愛はいつか返ってくる」「今日と少し違う明日はきっとやってくる」という結論に至る。
それを真っ直ぐに言葉にしてこちらに向けてくれるのが嬉しくて、聴いてると思わず笑顔になっちゃうんですよね。
なのでソライロラジカルが好きです。心底優しくて、帰り道に聴くと元気が貰える、そんな曲。
私もあやかりたいなあって思って、この話を書きました!
コと娘がバッチバチに屁理屈こね合ってる姿がずっと書きたかったので、もうめっちゃ満足です。