リフレイン・メモリー⑦ 些細なことがやけに悲しかったり嬉しかったり。夢の中っていうのは、感情の起伏が激しくなるものだろう?
毛布に包まらなかったことを後悔するほど、急にぐっと冷え込んだ晩秋のあの日の朝。全身を覆う寒さで仮眠から覚めた俺は、まだ掠れ気味の両眼を凝らし、隣で眠る貴方を視た。
深い眠りに入っていて、穏やかな表情をしていた。口が半開きのまま、ごろごろと喉の奥が鳴り続けていたが、不思議と苦しそうではなかった。
指先で、瞼の下に深く畳まれた皺をなぞってみた。出逢った頃に撫でくり回したすべすべの肌とは違って、ざらざらしていて、ふにゃふにゃしていて、ひんやりとしていた。
不意に貴方は目を見開く。ぱちぱちと瞬きをして、瞳孔を右へ左へとさまよわせている。視線が何度か合ったのに、また外される。こちらのことが見えていないのだろうか。
貴方の右手を握る。背筋が凍るほどに冷たかった。わずかに残っている熱を少しでも逃すまいと、俺の両手でぎゅうぎゅうと握りしめる。
すると今度こそ、お互いの視線が絡み合った。俺を視認した貴方は、うっすら微笑んだ後に、口を三回ほど開いた。
貴方の声を聴く。貴方の言葉を聴く。するといつの間にか、涙が瞼から溢れていって頬を伝っていくのがわかった。
けれども心は凪いで落ち着いていた。
これは悲しみの涙ではない。後悔の涙でもない。
貴方がその言葉をくれた瞬間、忘れかけていたたくさんの思い出が一気に甦った。貴方との、貴方たちとの数々の思い出。それらが星屑みたいに瞬いて、ひとつも取りこぼしたくなかったから、胸がいっぱいになったから、自然と涙が出てしまったのだ。
決して大袈裟ではない。だからこれは夢ではない。心の中にずっと留めておくべき、俺の大切な記憶だ。
***
コーサカは一人きり、荒野を彷徨していた。
もうもうと立ちこめる濃い砂嵐が時折強風に巻かれ、こちらの視界を遮ってくる。口の中にも遠慮無く侵入してくる砂粒が不快なことこのうえない。
ひたすらに耐えて歩き続けていると、やっと風の切れ間が見つかった。視線を前に起こしてみる。刹那、かすみの向こう側になだらかな丘の稜線が浮かび、すぐに消えていった。
途方もなく遙か先の未来。幾千の紛争、事故、謀略。幾億の散っていった命。地上は人間たち自身の手によって壊され、今やとても暮らしていける環境ではない。何とか命を長らえた者たちは地下へ潜り、肩を寄せ合いひっそりと生活している。
前の街からもうどのくらい歩いただろうか。いくら進んでも、生き物が住んでいた痕跡すらない。地下に潜れる梯子か避難用のシェルターか、一つくらいあってもいいだろうが。
「喉が渇いた……さすがにきちぃな、このままだと」
水を入れていた瓶も空っぽになってしまった。永遠の時を生きる吸血鬼といえども、水も食糧も口にしないままではいずれ倒れてしまう。
目印にしていた丘をなんとか越え、稜線の先になにかないか、もう一度目を凝らした。
荒野の真ん中にぽつんと、一軒の建物が建っているのを見つけた。灰色のコンクリートで全面固められた建物はシェルターのそれより少し大きくて、入口と思われる場所には真っ白の電球が灯っていた。
「助かった」
コーサカはすみませんと呼びかけながら、ドンドンと金属製のドアを叩いた。しかし中からの反応はない。遠慮がちにドアを開けると、金属の軋む音が鋭く鳴った。
狭い室内には、深い色合いのカウンターと椅子が五つほど並んでいる。青みがかった照明が吊るされている程度で、昼間と思えないほど薄暗かった。
カウンターを挟んだ斜め向かいから、ビビッドな色彩で明滅を繰り返すテレビの明かりが見えた。カチャカチャとコントローラーを操作する耳障りな音と、オクターブレンジの狭いチップチューンが混じって耳に流れ込んでくる。
「そこに座って待ってて」
声の主は恐らく店主だろう。歓迎とは程遠い低い声だったが、ようやく見つけた人の気配だ。いや、この際人でなくとも構わない。水と食糧を分けてもらわないと干からびてしまう。コーサカは店主の指示に素直に従い、カウンターチェアに腰掛けた。
カウンターの向こう側の気配に意識を傾けてしばらく待っていると、「っしゃッ」と小さく歓喜する声が聞こえてきた。
「お客さんすみません。ちょうどボス戦だったもんで。とりあえず後何飲みます? ……って。コーサカじゃん」
「よ、あっさん久しぶり」
きょとんとしたのままの店主――皆が恐れる大魔王をよそに、コーサカはさも当然のようにウイスキーとつまみのスナックを頼んだ。
「腹の中すっからかんでさァ。もう限界」
「ここが吾輩の店だと知ってて?」
「いんや、たまたま。このご時世に外で店出すなんて、あっさんも物好きね」
出されたショットグラスを一気にあおりながら、コーサカは首を傾げた。蒸溜を繰り返しアルコールと香りの上澄みだけを残した、当代かなりの高値で取引されているウイスキーだ。純度の高いアルコールが胃の粘膜から吸収され、身体の中をじわじわと灼いていくようだ。
良い気分だとへらへら笑いはじめたコーサカの様子に、大魔王は「ほどほどに」と呆れながら彼へ水とナッツを差し出した。
「昔から街と街の交通の要所みたいでさ、ここ。案外人間も往来するし、何とか食っていけてるよ」
「フゥン」と、コーサカは不機嫌そうに鼻を鳴らした。酩酊のせいか感情の起伏が激しい。「武器のメンテナンスも出来るもんな。爆弾も改造しちゃったり。手に職がつくやつはいつの時代も強いわ~~」
身振り手振りで大袈裟に、嫉妬交じりの褒め言葉をいい加減にかけてやる。かたや大魔王はそれを意にも介さず、どことなく残念そうに目を伏せた。
「……殺し合いとか馬鹿らしいけどな」
「それはそう」
あっさんは何飲みたい? と訊ねると、店主は控えめに「じゃ、ジンジャーエールを」と答えた。
「コーサカは今何してるの」
「何でも屋。運んだり、作ったり、人捜ししたり。慈善事業も汚れ仕事も何でもござれ。ってか、仕事を選んでたら行き倒れるだけだし」
「ラップは?」
「――たまに、頼まれて歌うくらい」
コーサカは眩しそうに、懐かしい風景を思い出すように目を細めた。彼の横顔は薄暗い室内でもわかるくらい、灰色の雪で煤けていて、目の下に半月状の翳りが窺えた。
「前にさ、相方がいたでしょう」
そう聞いた瞬間、眉がぴくりと動き、顔全体に険しい色を閃かせた。
しかし大魔王は勇気を出してもう一歩踏み出してみた。
「優しい雰囲気で絵も上手くて、歌がすんごい上手い。あの人は?」
「どんだけ昔の話だよ。三百年は余裕で前だぜ?」
「コーサカからはちゃんと聞いてなかったなあって。アンジョーさんのこと」
「アンジョー、ね」
久しく聞いていなかったな、<<彼>>の名前。唇によく馴染んだその名前を口にすると、自然と笑みが溢れた。
「俺らのラストライブ。あれが集大成で全部だよ。あっさんも来てくれてたじゃん。もう忘れた?」
「忘れてないさ、全然。――コーサカが送ってくれたMD、まだ取ってあるよ。コンポもちゃんと動くようにしてる」
「さっすがあっさん。めっちゃ聴きたい。いっぱい昔話しようぜ」
積もった埃を払い、ディスクをコンポの中へ吸い込ませる。『ヨウコソ! モンスターズメイトノライブへ』と書かれた緑色のドットが流れていく。
彼の話。彼らの話。たくさんの想い出。太陽のようにまばゆく輝き、いつまでも温かいままの幸福。
かけがえのない友よ。共に在ったものたちよ。俺の記憶の中で、思う存分はしゃいで笑ってくれ。
心の孤独が埋まる日はきっと来ない。けれども、終わりない旅路を歩む者たちにとって、その明かりだけは確かに信じられる道標だった。