留学のために羅浮にきてからだ、自分にしかみえないそれが見えるようになったのは。
それは大柄の男の形をしている。自分以外いないはずの部屋にもどこへでもそれはついてきた。
夜に起きたときぬろっと襖にうつったその影が恐ろしくてしかたがなかった。黄昏時に自分の影を覆うようにして伸びてきたそれに走って逃げ出そうとして迷子になったこともあった。
一度は死んだ故郷の縁者の霊なのではないかと期待した。もしや生き残りの自分を慮ってくれたのではと。しかし影は明らかに戦う戦士のような筋肉をつけて腰まで髪を伸ばしていて自分の知る誰にもあてはまらなかった。
懐炎先生曰く、イマジナリーフレンド。しかしこの男はにこりとも微笑まずただ後をついてくる影であり到底友人のようには思えなかった。むしろ自分の魂を刈り取るときをまつ死神に思えた。
「なんで後ろをついてくるの?」
「…」
「きみはなんなの?」
「…」
「ねぇ、こたえてよ」
「…」
影はなにも答えなかった。もしかしたら口がついていないのかもしれない。しかし意志疎通がはかれないが害を与えるつもりもないのだろう、と知ったその日から無視をすることを覚えた。
「応星、前言っていた影はどうなったんですか?」
しばらく無視を続けていると心配そうにしてくれた白珠が聞いてくれた。彼女はいつも怯える自分に付き添ってくれていた。常ならばいかにその影というものが奇々怪々で自分が冷汗三斗の思いをしてるかを影に怯えながら小声で話しただろう。
「もうどっかいったみたい」
なんて3人分の影をみながら答えることができた。「ならよかったです!」と笑顔で言ってくれた白珠、あとからほどいた拳は握りすぎて爪の跡がついていたが影はやっぱり何もしなかった。
それから影が1つ多いだけと達観するようになった。むしろ一個多いだけお得なのかもしれぬとも考えた。
それからも影はついてきた。
何年たっても消えるつもりがないどころか濃くようになったようにも感じる。
それにあわせて記憶の隅に遠ざけていたその存在の正体が気になりだした。そして暇なときは図書館にいって似た話を探すようになった。
転んでも怪我しても守ってくれるわけでも心配してくれるわけでもないそいつはやっぱり守護霊ではなく、笑っても喜んでも見てるだけのそいつは悪霊でもなかった。たぶんそういう妖怪なのだ。
「妖怪だろおまえ」
「…?」
「といっても図鑑に載ってないんだよな」
ぱらぱらと妖怪図鑑をめくった俺にそいつが不気味なものを見るように後退ったのは納得がいかない。
妖怪でもない霊でもないならなんなのだろうか。幻覚だとか脳の異常なんて言葉が思い浮かんで少し心臓が冷えた。存在のわからない魑魅魍魎よりも明確に生死が感じられる欠陥のほうが恐かった。
「おまえはいつまで俺についてくるんだろうな」
「…」
「まあ、別にいいけど何かしてほしいの?」
ばっと顔をあげた。初めて影がみせた反応だった。なんだかずるずるとついてくるだけのそいつがみせる反応がなんだかかわいくてつい吹き出してしまった。
「いいよ、おまえの願いを叶えてやる」
にこりと笑っていうと影は外に俺を誘導した。影が初めて俺の前にたったのだ。
ふわふわと不思議な感覚でそのあとに続いた。影は夢遊病患者のようにゆらゆら髪を左右にふる歩き方ではなく明確に踏み込みが感じられる歩き方へと変わっていた。影から人間に近づいているように感じた。
「ここでいいのか…?」
連れてこられた場所は家の裏手のちょうど木々が開けた場所だった。月明かりを遮るものはなく部屋の蝋燭の光よりも明るい。
「…」
ずるり、と影が向かった木には一本の木刀が立て掛けられていた。誰のものかわからないが少しひびが入っていて使い込まれていたことがわかる。
それを手に取ると影から、胴体だろうか?どこにあったかわからないが剣が現れた。
「あっ」
そしてそのまま剣はふられた。影の剣は自分の腹を横一線にした。そんなことされると思っていなかったのでひどく間抜けな声がでた。
「え?っっっ!!」
切られたのにそれはすり抜け何も起こらなかった…と安心した瞬間それは起こった。体にぶつぶつと鳥肌が立ち頭皮が一気に汗で濡れる。「死」の感覚だった。
「はぁ、はぁ、なにした?」
「…」
「お、俺をころしたかったのか?寿命?魂?何をとったんだ…!!」
影は頭を横にふった。呆れたように肩を落として木刀を指差す。
「刀?戦う?戦いたいのか?」
影は再びに頭を横にふろうとして止まる。どんなことを考えていたのかわからないが数拍おいて頭を縦にふった。おそらく真の目的ではないが過程として必要なんだろう。
「なぁ、なんでこんなこ!!」
今度は大振りの袈裟切り。さすがに2回目は避けることができた。もう影は話すつもりはないらしい。
「くそ、決着をつけて理由を聞くぞ!」
時折剣術の指導を受けてるはずが手も足も出なかった。べしゃりと倒れこんだせいで光でふわふわと産毛がみえる幼い頬はすっかりと土汚れてしまっている。
影は何度も自分の体を切り裂いた。何度も味わう「死」の感覚は慣れることがない。強いていうなら最後の方は大振りの動きなら避けられるようになっていたが、手加減していることが目に見えてわかった。
そうして回避に集中しすぎて木刀を投げ出してしまったため、稽古は終わった。影は動きをとめじっと自分の前に立ちすくんだのは木刀を投げ出したことを怒りというよりも失望だろう。別に親しくもないから失望されようがどうでもよかったはずが胸を少しだけささくれだてた。
「なんだ、もう諦めたんじゃないのか?」
しかしその後も影は夜になるとおなじ場所へと誘った。そして何度も何度も自分の身を切り裂いた。応星の剣の腕前は強制的に上がっていった。
「…」
「もういいや、いつかわかるんだろう」
こくり、と頷く影に責める気も投げ出す気もおきなかった。応星はひどく優しい声色で蝋燭の光に揺れる壁に写った影の顔の位置を見上げた。
「ああ、お前は一体どんな顔をしてるんだろうな」
それから幾年もの時が流れた。少年と青年の間を彷徨っていた応星はすっかり成年の男性へと姿を変えていた。それに加えて百治の地位を手に入れ雲上の五騎士の一員となり仙舟で知らぬものがいない人間となっていた。
「そういえば応星、お前が夜な夜な剣を振っていると噂になっていたぞ」
有名となった弊害はすぐにでた。影との特訓が話となって広がりついには一人を好む鏡流の耳にまでは入ってしまった。
「む、なんだ応星は剣術も治めていたのか」
「聞いてないぞ応星!私と手合わせをしよう」
「昔から夜な夜な家を抜け出しているとは聞いてましたが」
一斉に刺さる視線が痛い。いつも鏡流によってしごかれている景元の目にはお前も巻き込んでやる、という考えが透けている。
「隠してた訳じゃないんだ。ただの護身術だよ」
あながち嘘もいっていない。影からの攻撃はよく通るが応星から影への攻撃は手応えなんてものはない。人と戦うための訓練ではないのだ。
しかし信じられないとでも言うようにじっとり見られる。
「信じられん」
何なら言われてしまった。
「よし応星外へでよう」
やる気満々な剣主にひくりと喉をひきつらせた。
実は応星、鏡流の戦い方をあまり知らない。なぜなら鏡流が前線にいるとき応星は後方で機械を組み立てているからだ。
応星は奇物を使った支援に長けているのもあるが影に稽古をつけられているとはいえ前線にでるのは阻まれていたのもある。
意気揚々と剣の腕を披露しようとしたとき影に体を切ってまで止まらされてしまったのだ。ちなみに突然倒れた応星に相手方は自分が超能力を…!とうち震えていたが知らぬが仏というやつだ。
「覚悟はできたか」
「なあ鏡流、やっぱりやめにしないか?」
「ふむ、気がのらないか」
「決着は目に見えているだろう?」
「ほう?大きくでたな」
「そうじゃないっ!」
デジャビュというのであろうか、迷いなく襲いかかる剣筋。しかし応星はよくも悪くも急襲には慣れていた。
「ふっ、これを防ぐか」
「っぐ」
女性の腕力とは思えない力でつばぜり合いから弾かれる。
下段からの逆袈裟切り、流れるような一文字切りを刀で防ぎ頭を下げる。うちあっているとなぜか相手の次の手がわかる。視線じゃない重心じゃないそんなものは応星にはわからない。ただ自分の身を動かしているのは"経験"だ。
似ている、同一と見間違えるほど酷似している。次は突きそのまま橫薙ぎ。
「どうして?」
「そこぉっ!」
意識がそれた応星に容赦なく頭に振り下ろされる木刀。これは避けれない。鏡流もそれに気づいたか奥歯を噛む。寸止めを前提としていたはずが熱くなりすぎたのだろう、遠心力がのしかかった刀は脳震盪を起こすこと間違いなし。
後で文句でもいってやろうと思ったその時野次となっていたはずの丹楓と目があった。
「やりすぎだ」
「あっ!!」
丹楓の力によって生まれた龍が鏡流の持つ木刀をかみ砕く。木片が応星の頭に振りかかるが剣首の一太刀よりましだ。応星は思わずその場に座りこんだ。
丹楓はそんな応星と鏡流の間に仁王立つのに白珠と景元も心配そうに駆け寄る。
「剣首ともあろうものが寸止め一つできないとはどういうことだ?」
「…面目ないな」
「応星、」
強めの語調で名を呼ばれる。自分は何を言われるだろうと思わず肩身を狭める。剣術を黙っていたのは決して嘘ではないとどうやって言えばよいのだろうか。剣首と渡り合える実力を隠していただなんてこんなのスパイと間違われても言い訳できない。でも本当に豊穣を憎む敵でお前たちの味方なんだとどうやって言葉を尽くせばいい?
ぐるぐると思考が悪いほうに転がっていく。先程の打ち合いでかいた汗のせいもあり体が急速に冷えていくのを感じた。
「お前はいまから余の部屋にこい」
「へ?」
「ほら、」
腕を引っ張られて歩く、気分は罪人だ。「応星」と白珠に呼ばれた気がしたが生憎振り返る勇気はなかった。
丹楓がつれてきたのは持明族の本邸ではなく、彼が好む旅館の離れだった。彼はその高い身分に反して大正の文豪のような生活を好むのだ。部屋につくと丹楓は固い装飾を外してひかれていた布団の上に胡坐をかいた。まだ日が高いのにもう布団がしかれているのか、とおもったがさすがに聞く余裕がなかった。
「もっと近くによれ」
「あ、ああ」
ちょん、と布団の近くの畳に膝をつくと丹楓は腕を引っ張り自分のほうに体を倒させる。
「わ、」
「近くにといっただろ」
布団の上で男二人。酔っぱらっておなじ布団に入るなんてことはあったが素面でこんなことをするのははじめてだ。一体なんの真似を、と思うと背中を鼓動にあわせて叩かれ余計に混乱する。
「…ひどい顔色をしている」
「え?」
「尋問などすると思ったか?」
「いや、うん。」
「安心しろ。お前が言いたくないなら言わなくてもよい」
「うん…」
優しい。
丹楓の体温は高くないが心地がよい。羊水のなかにいるようにとろとろと溶かされていく。話したい。話して吐き出したい。期待に応えたい。
すり、と丹楓の肩にすり寄る。
「丹楓、俺…」
み、られている。「どうした?」と優しい声をだす丹楓のその背面、肩越しに見えるのはあの影。怒っている、いつになく苛立っている。きっと話そうと言葉を紡いだその瞬間いつもの「死」が振るわれる。こわい、こわい、こわい!
「は、は、はーっ、はーっ」
「どうした、応星?応星っ!」
「な、んでもない、なにもない、大丈夫だ」
「そんなわけあるか!」
「いい、ごめん。だいじょうぶ」
「一体」
なにが、と呟く丹楓の頬をするりと撫でる。そしてそのまま部屋を出た。丹楓は力ずくで引き留めようとはしなかったが最後まで名前を呼んでいたような気がする。
なにも考えたくなかったのでいつもとは違うより森の深いところへ向かった。影は何をいうまでもなく自分の橫を歩いた。するはずもないのにまるで逃げないように監視しているようだった。
その日は一段と切り裂かれた。
その日から丹楓は俺を遠目に見るようになった。しかし自分も丹楓に打ち明けれないので話しかけにいくわけにもいかない。そうなると毎月の楽しみのはずの飲み会にも参加しなくなっていった。その分影との稽古は増えた。影は「それでいい」といっているようだった。
そして運命の時がきた。
豊穣との大きな戦いだった。使令である倏忽へ雲騎軍が勇んで突撃するもその体に傷一つつくことなく仲間だけが死んでいく。
命がこぼれ落ちる家屋が燃える。故郷の最期が脳裏にちらつくも応星は前線にでられない。
「たんふう」
周りの敵を蹴散らし丹楓がそして少し遅れて鏡流が倏忽と相対する。心臓が痛む。大丈夫丹楓は死なないし鏡流に勝る剣士もいない。でも嫌な予感がする。気持ちを落ち着けるため機械と向き合うと影が応星の影と重なっていたそれが丹楓たちを指差す。
「いいのか、」
ばっと矢のように走り出す。
「百治様!!!」
「だめです!あなた様まで…!!」
「すまない!ここは任せた」
やっとこの剣を振るえる。お前のために、仲間のために。そうだこのために影は俺を鍛えたのだ。
丹楓と鏡流が戦っている。鏡流は打ち合っては間合いをとって警戒している。相手の攻撃が一撃一撃致命傷を与えるものだから戦線離脱をおそれているのだ。
それに対して丹楓が前に出過ぎている。彼の攻撃は遠くなれば遠くなるほど精度と威力が落ちるという弱点があったが前にでることで確実に攻撃を与えている。でも、このままだと丹楓が危ない!
「丹楓!気を付けろよ」
「ふ、先程から回復が追い付いてない畳み掛ければいける」
確かに先の攻撃で肩を砕かれた倏忽は確かに腕をぶらん、と揺らしている。しかし応星の頭にビービーと警鐘がなる。
「隙だらけだ」
「丹楓っ!!!!」
丹楓の攻撃、一度止まったその瞬間倏忽は攻撃に出た。この時を待っていたのだ。骨が外れていた腕は通常よりも伸びた。思わず後ろに仰け反った丹楓だが腕をそのまま回復させ振るわれた二撃目は避けれない。
応星は間に割り込み倏忽の剣を弾く。全員が息をのみ倏忽すらその目を見開いた。
「応星、どうしてここに」
「話は後だ!立て直すぞ」
はっ、と気づいた丹楓は戦線を下げる。しかし相手の傷は全て回復している。回復の隙も与えぬ畳み掛けか高火力が必要だが応星は丹楓の代わりを果たせない。どうするべきか…と頬に汗が流れる。
「合わせろ応星」
鏡流は先程とはちがい激しい近接戦を仕掛けた。応星も慌てて続く。鏡流の動きが分かる応星にはぴったりの役、しかしおもった以上に削れない。
「っ!っっ!!」
「息をしろ!血液を回し力を使え!」
応星は鏡流の速さに合わせていくのに精一杯で息を止めていたのだ。影と似た剣術を使う鏡流だが影よりも速く動きは軽やかだ。影はいつも斬られることを前提に仕掛けてきたりするしおそらく技量は鏡流のほうが遥か上なのだ。
鏡流は不思議でたまらなかった。自分との戦いであれほど善戦したはずの男がいま膝をついている。なぜ、お前にはもっと力があったはずだろう!だから倏忽の攻撃を見切って飛び出したのではなかったのか!と。
そんな仲間間に空いた隙を倏忽を見逃さない。
「あっ」
応星の目の前いっぱいに広がる赤。これは何だ?ずるり、と倏忽の剣が引き抜かれ応星に向かって倒れる体。ふわふわと手触りのいい耳にいつか自分が渡した弓。
「え?」
なぜ?なぜ彼女がここにいる
「え?」
どうしてしゃべらない
「え?」
どうしてこんなにも…あかい
「きっさまああああああ」
橫一閃。そして畳み掛けるように丹楓の龍がその腹に風穴をあける。敵の倏忽の体が倒れた。しかし歓声はあがらない。ただ痛いくらいの沈黙と…鏡流が倒れた相手の体を切り刻む音。
「応星」
「あっ、あ、たん、」
「うん」
「白珠、はくしゅが」
「今は寝ろ」
ぐらり、と暗転する。意思が落ちる。
おちる
おちる
おち
る
「はっ」
水面に写る顔。全て思い出した。黒い髪の隙間から見える赤い瞳。皺一つない青年期の肌。
「影は俺だ」
そうだ。ずっとわかってたじゃないか。
結末を受け入れられぬ誰かの影。存在してはいけない異物。
「また、間違えたのか」
ぱきり、と凍った花の花弁が地面に落ちた。