春の夜夢 名を変えられたら、探し難い。
名が無ければそもそもその人を見つけることもできない。
名は目印で、人が持つ最後の持ち物で、命が尽きたとしてもその名を呼ばれることは、愛を謳われることに等しい。
俺たちはここに、在る。
忘れられた者たちの噺を、琵琶法師たちの無念を、聞いて、聴いて、俺は語り続けなければいけない。これは俺たちと、お前たちの物語だ。
将軍の前での一世一代の舞は大成功を収め、行方知れずとなった父に代わり、比叡座の棟梁となった犬王は、足利将軍お抱えの猿楽師となった。
だがそれと同時に、彼らが拾った平家と彼ら自身の物語を歌い語ることは禁じられた。芽吹き、咲き誇った花は摘み取られてしまった。
それでも犬王は、勤めて美しい舞を天上人たちに披露し、その優美さは目にした者誰しもがため息を吐くほど洗練されたものだった。
藤若と同じく、直面で舞うことを求められた犬王は、呪いの解けた美しい面と身体を舞台化粧と衣装で飾り立て、惚れ惚れするような舞を将軍の為に踊り続けたが、その顔は感情を削ぎ落とした能面のように何の感情も浮かべていなかった。
友有が死んだ。
犬王が、将軍の為だけに舞うと、それを演じると決めた時……友有を守る為に物語を捨てると決めた時、既にもう友有はこの世に無かった。
壇ノ浦の両親を奪い、視力を奪い、友有座を奪い、兄を奪い、犬王までも奪われた。
俺から全てを奪い取り上げた足利に天誅をと、友有は足利一族の墓の前、ボロボロの姿で琵琶を弾き語っていたらしい。
そうして俺たちがはじめて魅せた加茂の舞台で、首を切られたそうだ。
友有座は解散させられ無くなった上に、犬王自身も将軍に琵琶法師と関わるなと釘を刺されていたから、あの大舞台の後、友有がどうなったのかずっと知らなかった。
俺は独り言みたいな文を、覚一のところへ(ほかに彼が行く処を知らなかったから)送り続けていた。
友有からの返事がないことを、盲だから、便りを寄越せないのだろうと考えていた。
俺が将軍の元で舞を続けていたら、彼の命は補償されると安心していた。……自分に腹が立つ。
死んでいるものが手紙の返事など書けるものか。
彼が、あのかぶと虫みたいな琵琶で奏でる曲が聴きたかった。聴こえてきたものを音にして弾いているんだと言われた時、コイツには世界がこんな風にきこえているのかと驚いたものだった。
目が見えないはずなのに、誰よりも何事もよく見えている。本当に目が見えていないのか?と疑ったこともあった。そうしたら友一は、目は見えないがその代わり音や念いは視える。琵琶たちや、特に犬王の姿は輝いててよく見えると笑っていた。
昔は、魚やそれに集る虫や海の音ばかりだったが、兄に着いて京に来てからは、故郷にはなかったいろんな声がきこえる。特にお前のそばにいると凄いんだ、と。興奮して、視えないはずの目を見開いて語る姿は俺より歳上なのに幼子のようだった。
お前の舞は凄いと、盲目のはずの彼が一番に俺のことを認め、讃えてくれた。
誰よりも彼に認められるのが嬉しくて、他でもない彼に自分の巻をうたって貰いたかった。彼と共に、亡霊たちから伝え聞いた物語を作るのが楽しかった。
桜吹雪の中、犬王は舞踊る。
若き藤若は、犬王に問う。
「犬王様の物語が見たいです。もう詩を作らないのですか?」
犬王は、はっはっはっと大笑いしながら応える。
――俺の物語なぞどうでもいい。それよりお前の道を極めたらいい。将軍も認めた素晴らしい芸だ。
俺たちの物語は既に、在る。
それを伝える琵琶法師がいなくなっただけだ。
散り続ける桜の中、犬王はひとり舞い続ける。花も音も感情も、全てが散ってしまった世界で。
✴︎
犬王が没してから600年、犬王の巻がまた世間に語られ始める。
一体どうしてか、誰が見つけたのか、見つけられたのならば目を覚まさないわけにいかない。
やれやれと自分の名を謳う人々の声を聞いていると、とある名が聞こえ、それは昔一度だけ聞いたことがあると思い出した。
死んでからも失くした親友を探し続け呼び続け、だが見つけることができなかったのは、名が変わっていたからだ。
自分たちの名を呼んでくれた人々に感謝を。
随分待たせたが彼を迎えに行ける。この犬王の姿を見れば驚くだろう。待っていろ友魚、友一、友有。俺が光を届けてやろう。目映いからと言って目を閉じるなよ。初めて会ったあのときのように、また共に歌い奏で、舞い踊ろう。
俺たちの物語を。
犬王は彼の琵琶の元へと駆けて行く。
何かが通りすがって巻き起こった夜の爽やかな風に、散った桜がふわりと流れていった。