看病自称『地球最強の男』はつまるところ馬鹿であった。それを名乗った時点で格付けがされてしまう——もちろん良くない意味で、だが——肩書きは存在していて、嬉々として胸を張ったその姿を白い目で見るのも仕方がないことだろう。
だからそんな彼がよもや流行り風邪で寝込むなど、考えられない状況だった。最強じゃなかったのか、いやそれより前に馬鹿はなんとやらと言うじゃないか。そういった皮肉は彼の呆けた顔を見て留まった。
普段の彼の表情は、いつも眉間に皺が寄っていた。笑うときですらその眼光が薄らいだことはなく、いわゆる「厳つい」顔の男だった。それが今や童子のようにゆるやかな額をしていて、今更ながらに彼は本来あどけなさの残る顔つきをしていたのだと知った。おそらく本人も意識したことはあるまい。
「竜馬、見舞いに来たぞ」
「ああ……助かる」
普段は事あるごとに隼人に食ってかかる男が、今や素直に彼の行動を有難がっている。これはよほどのことだな……と認識を改めた。立って歩いて玄関口を開けられただけで大したものである。隼人が靴を脱ぐのを背に、竜馬が部屋へと戻る。その歩き方はぎこちなく、彼の恵まれた体躯の重心はあっちへふらふら、こっちへふらふらと安定しない。
急いで手を伸ばせば、竜馬は「わりぃ」と呟いた。ああ、明らかに重症だ。
「その分だと飯もろくに食えてないだろう、いいから寝ていろ」
元々、月面戦争には徴兵のような形で参戦した男だったから、終戦してからはひっきりなしに「故郷へ帰る」と口にしていた。そのため月より帰還してから諸々の雑務等が片付くまでは、研究所近くのマンションの一室を適当に借りていた。
竜馬が窮屈そうに横たわったベッドを見て、そういえば家具備え付けのところを勧めたのは俺だったと思い出した。彼はきっと素直に聞いて、毎晩この窮屈そうなベッドで寝ていたのだろう。案外嬉しいやら申し訳ないやらといった感情とともに、隼人は手荷物を下ろした。
体調を崩したと連絡が入ったその時、研究所内は笑うどころかかなりの安堵を持って迎えていた。
「竜馬くんも人の子ってことね」
微笑んだミチルに、博士もまた頷く。月面戦争の英雄、後世では間違いなく「伝説の男」と呼ばれるであろう竜馬の存在は、ほのかな怯えと共に讃えられていたからだ。
もちろん共に戦った彼らからしたら『問題児』『馬鹿』といったカテゴライズ以外は特に何のことはない、普通の人間である。しかし世間一般から見れば、人類の中でもとびきりの強者たちが束になっても敵わないインベーダーを屠り尽くした男——だ。
「いっそのこと、大々的に宣伝でもしますか。風邪ひいた、と」
「製薬会社は宣伝機会だと喜び勇んで薬を送りつけてくるだろうな」
「そうしたらどれも効かないのよね、きっと」
竜馬の人並外れた肉体のことだ、投薬して起こる作用よりも元来の自浄作用の方が強いだろう。そうなるな、とは皆で言いつつもそれでも仲間だからには心配だった。
なのでこうして代表として隼人が見舞いに来た次第である。
「竜馬、少しの間だけ空気を入れ替えるぞ」
返事はない。気怠さのせいかと思いきや、彼の微かな(そして苦しそうな)寝息が聞こえてきた。起こしてしまわないようにそっとベランダに繋がる窓を開けると、夏の昼の蒸し暑い空気がどっと雪崩れ込んできた。それでも部屋に充満した空気よりはよほど呼吸がしやすく思うのは、彼の寝込んでいた時間のせいだろう。
隼人は買ってきた食材や日用品を片付けつつ、家中の窓を開け放した。窓の向こうには入道雲と目の覚めるような青空が広がっており、まさに理想的な夏の空だ。耳を澄ませると遠くに子供達のはしゃぐ声が聞こえてきており、この平和を守った『地球最強の男』が風邪で参っていることなど誰も気付かない。
——まるで今は、俺が竜馬を独占しているみたいじゃないか。
先ほどの、竜馬の緩い顔つきが思い出される。あれを知っているのは自分だけ、そう思えばこれから作る粥も塩の代わりに砂糖を入れてしまいそうで、浮かれた気持ちに自分で苦笑するのだった。
ほぐした塩鮭と、みじん切りにした玉ねぎを炒める。別に作った粥に混ぜ合わせて、味を整える。手製の鮭粥が出来上がった頃、居間から竜馬が顔を出した。
「……ん……」
「すまない、暑かったか。そろそろ窓を閉めよう」
「めし……」
途端、竜馬の腹から大きな音が鳴る。そういえば冷蔵庫にはほとんど食材が無かったなと思い出した。料理用の器具一式が揃っていたのは奇跡どころか、何を血迷っていたのかと聞きたいくらいである。
「今そっちに持っていくから、お前は一旦シャツだけでも着替えろ。俺が来た時から汗がひどいぞ」
「んー……」
竜馬の着ているTシャツの首回りはすっかり汗染みができている。寝ぼけているのか、彼はそれを脱ぎ捨てると上裸のままベッドへと寝ころんだ。
ひとまず換気に使った窓を閉めて、クーラーのスイッチを入れる。適当に箪笥から取り出したTシャツを投げて渡すが、竜馬はそれを掴むことも払いのけることもなく気持ちよさそうに目を閉じている。
「さっさと着ろ。悪化させたくないだろう」
「……ヤってもいいぜ」
「黙れ風邪っぴき。俺に移す気か?」
着るまで飯を出さんぞ、と宣言すると竜馬は渋々と言ったていで新しい寝間着に着替えた。それを確認すると、隼人も鮭粥を適当に盛り付ける。
想像していたよりも竜馬の腹は耐えかねていたらしい、「いただきます」と言い終わるや否や、竜馬は無心で粥を口に突っ込みはじめた。体調が悪いんだよな?と確認したいほどの速度で嚥下していくものだから、二杯目を出すときは鍋を丸ごと食卓に持ってきてそこから盛り付けてやった。
「そんなに美味いのか」
「……肉ならサイコー」
おたまで頭を殴らなかったのは、人類最高峰の頭脳にして強靭な理性を持つ隼人だからこそ出来た行為である。
空になった鍋をシンクに持っていって、いつの間にか外は夕暮れになっていることに気が付いた。台所に備え付けられた小窓を開けると、どこかの夕食の香りが入り込んでくる。
竜馬はまだ眠る気がないのか、足だけを床につけたままベッドに寝ころんで天井を眺めていた。ひと段落した隼人も床に座すと、そういえばこの家にはテレビが無いのだなと気が付いた。
「お前、ここには寝に帰ってるだけか」
「……研究所で泊まることもあるしな、そんなに必要もねえだろ」
「だったらインスタント飯や冷凍食品ぐらいは置いておけ。食べるものが無いとは呆れたぞ」
生活習慣で言えば隼人自身も竜馬とほぼ変わりないが、流石に自宅の備蓄管理はしている。不在がちな分だけ、その辺りは気を遣っているのだ。
「そうだなー……こんなことになるなんて思ってなかったしな。……親父が知ったら笑うかキレるか……」
俺、風邪なんて一回も引いたことなかったんだぜ。
「弱くなっちまった」
その呟きがひどく息苦しそうに聞こえたものだから、隼人は竜馬の顔を見た。彼は片腕を顔の上に乗せたままで、その表情を伺うことはできない。
「月から戻ってきたんだ、どれだけの環境の変化があったと思ってる」
「だが俺は……」
「それ以上はな、風邪が治ったら聞いてやる。体調が悪い時の弱音なんて真面目に付き合うもんじゃない、自分にとっても」
お前は初めてだろうから教えてやるが、とわざとシニカルに言ってやれば、竜馬は隼人の背を蹴りつけた。
冷房が身を包み、窓の向こうからは家に帰っているのであろう子供たちの声が聞こえてくる。
少し前までは宇宙生物と戦争中だったのだと、そんなことを忘れ去るような平和な夏休み。戦場で誰よりも苛烈に、誰よりも戦いを楽しんでいた男にとっては、ひたすらに静かな時間。
いつか、それでもいいのだと彼は言った。戦闘本能が人の形をしている男でありながらも、彼は平和を尊いものだと知っていた。間違っているものがあるのならそれは絶対に自分だと知っていて、だからこそ目の前に広がる平和との摩擦が身を焦がす。
故に、らしくもない体調不良で寝込むことだって、ある。
「竜馬」
彼の腕を退けると、隼人だけが知っている表情が曝け出される。「ンだよ」と言い終わるや否や、その唇を貪った。普段よりも熱い吐息は、今まさに彼の体内がウイルスと戦っている証だ。抱えた腰がふるふると震える、その先が欲しいと彼の身体が悲鳴を上げる。
「……っは、ばか、おめえ、移されたくねえとか言っときながら……」
「だからここまでだ。ヤってほしかったらさっさと治せ。こんな姿よりも、普段の状態で無防備になってくれたほうがよほど興奮するからな」
「この変態ヤローが、よ」
今度は腹を蹴りつけられる、その威力は微かなもので、再び枕を共にするのはまだ遠い先のことだな等と思いながら、隼人は彼を抱えて瞼を閉じた。