最後の乾杯芯のある子だと思った。有象無象の泥の中に咲き誇る一輪の花。
その泥は典型的なワンマン経営の会社の形をとっていて、社員数はきっかり三十の小さな会社だった。この暑い中に出掛けている営業の数を差し引いて残る数が、事務所内を眺めて見える頭の数でもある。本来ならば自分が来るような場所ではない。
ようこそ神社長、と歓待する男はこの小さな事務所の主だ。軽く挨拶をしながら、彼のでっぷりとした腹に一体どれだけの資産を吸い上げたのだろうかと思う。
この会社にとって神隼人という人物は「社長の自慢する縁」であり、契約や利益の形をしていても大多数の社員にとっては遠い世界の存在でしかない。事務員達は視線をこちらへ向けると軽く会釈をする。その中で咲く花もまた、風になびかせるように頭を下げた。社長室に向かう数メートルの間で、彼女の席の後ろだけ甘い香りがした気がした。
間違いない。だからあとはどれだけ手を伸ばせるかだ。最初の二回は偶然を装った、彼女が会社を出る時はいつも明かりが消えるのでタイミングの確認は容易かった。三回目からは待ったと言った。五回目で、食事に誘った。
暗がりのバーで香水は付けているのかと尋ねれば彼女は笑って首を振った。「きっと先輩達に色々言われちゃいますよ。ただでさえ狭い事務所ですし」
そう言う彼女からはやはり蠱惑的な香りがしている気がした。彼女の側にいるだけで、一軒目で食べたジェノベーゼパスタも、いま手にしているマティーニも味が消え失せてしまう。それなのに弾む舌は二時間あまりを簡単に呑み込んだ。表情をころころと変えていた彼女はやがて液晶に映った時刻に眉を寄せる。
「もうそろそろ帰らないと、彼もそういうのうるさいんです」
「それなら最後に一杯だけ良いだろうか」
伺う体ではあったが、彼女は断ることをしない事は分かっていた。優しい子だ、分別を付けながら誰に対しても手を差し伸べる。それが四十一の大企業社長であっても、二十八の哀しみに暮れていた男であっても。
乾杯、とグラスを合わせた。俺のお勧めなんだ、と嘯いた。既に酔いが回った彼女の喉に落ちてゆく甘い酒は、さしずめ天国への片道切符といったところだろう。自分もゆっくりと飲み干し、席を立つ。会計が終わりエレベーターに乗る頃には覚束ない足取りの彼女の腰を抱き寄せる。
「家まで送ろう」
耳元で囁くと返事はなく、こくり、と頷くばかり。二人きりのエレベーターの扉が閉じれば我慢できずに、そのつむじへと唇を落とした。
タクシーの窓越しには、金曜の灯りが過ぎ去っていく。誰しもが開放的になるこの夜、彼女の恋人は傍らに女を抱いて夜風を楽しんでいる。やがて現実という月曜が来ても、彼女の穴は誰かが埋めてゆく。あのワンマン社長に耐え切れなかった社員が突然欠勤するのも、本命だ浮気だの惚れた腫れたで女が消えるのもよくある事だ。三十が二十九になるのも二が三になって二に戻るのも、この都会ではよくある事。
そんな泥の中で咲き誇る姿は美しくとも、じきに枯れゆく。種の落ちる場所を間違えたのだ。
ならば手折ってやらねばなるまい。
「ご夫婦でお帰りですか？ いいですね」
酩酊したまま深く眠りについた彼女は、隼人の肩にもたれかかる。隼人もまた彼女の体に手を回して密着する様子が、仲睦まじく寄り添うように見えたのだろう。
「ああ。妻はすぐに酔ってしまうもので、酒を呑んだらいつもぐっすりだ」
その酔いの中でいつか思い出してくれればと願う。
遠い昔、彼女が手を差し伸べた一人の男の事を。まだ子供だった彼女のその姿にどれだけ救われたかを。
ようやく再び出会えた時、その泥に塗れた姿にどれだけ絶望したかを。
「んぅ……」
身じろぎをした彼女の瞼が薄く開く。その瞳はまだ茫洋としていて、ゆっくりと右手が上がる。
「……ど、こ？」
「俺たちの家へ」
隼人の無骨な手のひらが瞼を下ろす。タクシーの緩やかな振動は再び彼女を包み込んだ。
甘い香りを閉じ込めるあの玄関が待ち遠しい、金曜の夜のことだった。