怪我の功名、愛に触る「やだ、愛に決まってるじゃないそんなの!」
ジュンの父と同世代だというメイクさんはバシンと左肩のあたりを叩いてから豪快に笑った。
ふくよかな体躯で相手が大物芸能人であれスタッフであれその姿勢を崩さないその人は他のメイクさんの言葉を借りるのであれば"THE、オバチャン"といった親しみやすい人で、彼女自身も一人称は「オバチャン」であるしそのキャラクターからジュンも気づいた時にはポロリと小さな悩みを溢していたなんてことも少なくなかった。
日和の午前の仕事が押しているということと"オバチャン"と二人きりのメイクルームだというシチュエーションから気の緩んだジュンは掻い摘んで怪我をしたことと日和に世話をやかれていること、それが何故だか分からず困惑しているということを話した。
ジュンが話している間は何故か口をムズムズとさせながらも相槌をはさむ程度で聞いてくれていたオバチャンはジュンが話したいことを話し終えたと分かるや否や、いい音を立ててジュンの背中を叩いたあと捲し立てるように話し出した。
「ジュンちゃんは日和ちゃんに愛されてるのねっ!だって考えてもみなさいよぉ、あの日和ちゃんよ。私はメイクルームでの彼と、あとは精々テレビやライブで見るあの子のことしか知らないけど、…あっ、テレビといえばこの前の音楽番組もよかったわよぉ!娘が大興奮しちゃってね〜、興奮って言ったら昨日の氷鷹ちゃん…あっ、お父さんの方ね。主演ドラマ見てる?こんなオバチャンでも最後のシーンには興奮しちゃったわぁ。それでね、えっと、なんの話だったかしら?」
話があちらこちらに飛ぶのはご愛嬌。飛んだ先から戻ってこれなくなるのもまた一興。日和なんかはオバチャンの次々と変わりゆく話題に順応しながらうまく元の話題に戻していたりするのだが、ジュンはこのマシンガントークを聞いていると一緒になって元の話題を忘れてしまうことの方がおおい。なんなら一つ前の話題も思い出せない。
二人して「ううん」と首を捻っているところにノックの音が響く。
「こんにちは!オバチャン。今日も美しいね。あれ、アイメイクがいつもと違うね?ふふん、さては今日は旦那さまとデートだね?」
「ヤダ、もう、日和ちゃんったら!オバチャン捕まえて美しいとかデートとか、そんな訳ないじゃないのぉ!でもよく気づいたわね〜」
「気づくに決まってるでしょう?オバチャンの美容やメイクは参考になることばかりだからね。ぼく、今日、午前の撮影とっても疲れちゃったの。気分を変えたいからいつもと違った印象のメイクをお願いするね」
「いやん!オバチャン、腕がなっちゃうわ♪」
扉が開いた瞬間から始まった二人の会話に着いていける自信はないので黙って聞いておくことにしたジュンは日和が右隣の椅子に腰掛けるのを横目で見ながら、準備されていたペットボトルの水に手を伸ばす。日和ほどではないけれど、たくさん喋って喉が渇いた気がする。
日和とオバチャンの会話は止まることがなく、ジュンが一瞬意識を逸らした間に神社とお寺の参拝作法の違いの話になっていた。どうしてそうなった。
神社とお寺の参拝作法が違うことを知らなかったというか、訪れた場所が神社なのかお寺なのかもよく分かっていないかも…とジュンがひとりで唸っていると折角引き寄せた水が隣からひょいと攫われる。
「あっ、」
話しながら視線をこちらに向けることもなく蓋を開けてはペットボトルだけをジュンに寄越す。蓋はこちらで閉めるから飲み終えたら渡せということだろう。
抵抗になんの意味もないのだから好意として受け取るべきだろうと、喉を潤してから小さく「ありがとうございます」とペットボトルを差し出す。
ちらりと一瞬、視線をよこして目だけで笑った日和はそのままオバチャンとの会話を続けているが、ここ数日と比べるとどことなく雰囲気が柔らかい気がする。これがオバチャンパワーかと、ふんわりとその手腕に心の中で敬礼しながら日和のメイクが終わるのを待った。