「あっやべっ!またこんな時間じゃねえか!」
近頃は、部室に二人で残って練習計画などを練っていると、どうしても時間を忘れて取り組んでしまうことが多くなった。部活のことはもちろん、NBAの選手の話題、全国の強豪たちの話などもするようになり、次から次に話題は尽きない。
桜木が「お前、あれさ、」と唐突に切り出す話題にも流川は存外まじめに聞き入り、「どう思う?」と問えば言葉数は少なくても意見をきちんと聞かせてくれる。水戸たちと一緒にいるときのように大爆笑でやんややんやとポンポン話が弾む、というわけではそこは流川相手なのでほとんど起き得ないが、それでも、部誌のページにペンシルを走らせる音や遠く聞こえる吹奏楽部の管楽器のソロフレーズ、窓の外の虫の声なんかに混じるように交わされる落ち着いた言葉やその時間は、いつしか桜木にとって心地いいものになっていた。
とは言っても、あまり帰宅が遅くなると流川の家族は心配するだろうから、完全下校時刻になる前に早く帰らせようと心掛けている。
流川の母はそれはそれはおしとやかで品のある人だ。試合を見に来ることが多く、挨拶を交わすたび、桜木にもとても優しく声をかけてくれる。そんな彼女なら、きっと毎日一人息子のために温かい夕食を用意して帰宅を案じていることだろう。キャプテンとして部員の家族に心配をかけるようなことはしてはならないと、少しおおげさなくらいの責任感を持っている桜木なのであった。
そこで書きかけだった部誌の仕上げに取り掛かりながら、流川に告げる。
「テメーはもう帰れ。コレはオレが職員室に出してくるし、戸締りもやっとくからよ」
「なんで」
流川は不満そうに眉を寄せた。
気を利かせてやったというのに、それがわからないのかこのキツネはと、桜木もにらみ返す。
「家に帰るのが遅くなったらお母様が心配するだろうが」
「心配しねえ」
「なんでテメーがンなことわかんだよ。いいかよく聞けよキツネ、親ってもんはなぁ、」
「今日、母さんも父さんも家にいないから、だから心配する親はいねぇ」
「はあ?」
「結婚記念日だって泊りがけで旅行に行った」
ああ、そういう意味かと、勢いを殺されたような恰好になりなんともバツが悪く、「ふうん。仲がいいんだな、お前んちの親御さん…」とぼそぼそ答えた。そのとき流川はベンチに腰掛けていたのだったが、思い出したように通学カバン替わりでもあるスポーツバッグをあさってピンク色のコアラのポーチを取り出した。どういう趣味だとぎょっとしていると、流川は彼の手のひらに収まるくらいのサイズであるそれのジッパーをジジ…と開けて、
「今日の晩飯はこれで買えって言われた」
一万円札を取り出して見せた。
食べ盛りの大食らいのスポーツ男子であるとは言え、夕食だけでこの金額はさすがに…と呆気に取られた桜木だったが、よくよく考えてみて、流川が計画的に適正価格で食事代を考えられるわけがないので、せめて足りなくなってひもじい思いをさせないようにという心遣いなのだろうと、彼の両親の心中を勝手に慮った。
そこで、これまた勝手に、流川の両親を安心させる結果になるようにと、手を差し伸べてやることにした。
「…あー、オレぁ、今日はラーメン屋で夜メシにしようと思ってたんだが…」
「…」
「おめーも来るか?」
「どこの?」
「駅から少し歩いたとこで学校からもそんなに離れてねえ。オレんちにも近えからよく行ってんだ。チャーハンの大盛りがバカみてーに盛られてくるトコでよ、餃子も具がみっちり詰まっててうめえんだぜ」
話しているうちに食べたくなってきて、もうラーメンの舌になってしまい、今日は何を食べようかと次から次に頭の中に定番メニューを思い浮かべていたが、ふと、どうにも流川の反応が芳しくなく、じっと桜木を見つめているのに気づいた。
一番に思ったのは、誘いを断る口実を探しているのだろうか、ということだった。部活の仲間を交えてファストフード店に行くことは何度かあったが、二人きりでどこかに行くことなんて(バスケコート以外は)今までになかった。
嫌なのかもしれない。嫌なんだろうな。桜木と流川はそんな、気軽にラーメン屋に行くような友達なんかじゃないから。
それに、ラーメン屋はなんだか流川に似あわない、とも思った。桜木が話題に出した店は決してこぎれいでもこじゃれてもいない、ごくごく普通の町の中華屋だ。どのような意図があるにせよ、高校生の息子に万札を寄越してくるような親のもとで育ったのであれば、そういうところに行くのは抵抗があるのかもしれない――。
しかしわずかに腐りかけた心は、流川の「ラーメン屋って行ったことねえ。このカネで足りるのか?」という発言で現金にもまたむくむくと膨らみはじめ、そうだよな、こいつは嫌なら嫌ってはっきり言う男だよなあと笑い出したくなった。
「世間知らずギツネめ。充分足りるって。じゃあ決まりな」
話しているうちに部誌は書き終えていたので、流川が職員室に提出に行き、桜木が戸締りをしてから校門で待ち合わせることにした。
~~~~~~~
夜道でもバスケの話を半分、それ以外の学校の話をもう半分、あと少し、桜木の趣味だったり流川の母がハマっている外国ドラマだったりの話をしているうちにその店についた。
商店街から道を一本外れたところにある店構えの入口に「ラーメン」とデカデカと書かれた赤いのれんが垂れ下がっており、その脇から明るい灯りが漏れていて、近づくと食欲をそそるラーメンスープや肉の匂いがただよってきた。途端にぐるるるると盛大に鳴った桜木の腹の音を「腹ペコどあほう」と流川は無造作に罵ったが、続いてくうぅ、と控えめな腹の音が聞こえたため、桜木は声をあげて笑ってしまった。
「いらっしゃい!おっ、花ちゃん、久しぶり!」
カウンター内にいる年かさの男が、桜木を見るなり笑顔で声を掛けてきた。湯気の中で光っている笑顔だった。桜木は「よお。元気してたかよ、マスター」と返した。店主はマスターと呼ばれるのが好きなのだ。
店はいつも通り繁盛しているらしく、8席あるカウンターは満席、4つあるテーブル席は一つしか空いていなかったので、店主に許可を取ってそこに座った。
流川は店内の様子が物珍しいようで、目をパチパチさせながら壁にかかったメニューの札や他の客が食べているもの、作業を続ける店主に目を配り明らかに興味津々と言ったふうだった。先ほどまで歩きながら寝そうだったとは思えない。
奥の方からフロア業務を司っている割烹着を着た女性――店主の姉さん女房だ――が顔を出してきて、桜木を見るなりこちらもまた輝くような笑みを浮かべた。
「あらあ花ちゃん。まっ!カッコイイお友達連れてきてくれたわね!」
うふふ、と口元を抑えて嬉しそうにしている。女性はみんなルカワにこういう顔をする、自分の方が常連なのにと、桜木は少しふくれた。
「ダチでもなんでもねーよ。こいつは。ただ部活が一緒ってだけで…」
「同じ湘北バスケ部なのね。うちのラーメン、いっぱい食べて行ってね」
「うす」
ペコ、と流川がお辞儀をすると、なんて礼儀正しいの、花ちゃんのお友達とは思えないワ!だからトモダチじゃねーって!というやりとりをした後に、女性は「メニューはそちらに、お水はセルフサービスでお願いしますね」と流川に微笑んでから、おしぼりをテーブルに置いて、別の客の会計をしにテーブルを離れた。
桜木はテーブルの脇に立てかけられているラミネート加工されたメニューを表を広げた。
「キツネ、いつもどーゆーラーメン食ってんだ?」
「どーゆーって?母さんがつくるやつ食ってる」
「そうじゃねえよ、しょうゆ味とか味噌味とかあるだろ」
「…味噌味…ではねえ。肉がいっぱい入ってる」
「…まぁ、最初だし、無難にしょうゆにするか。腹減ってるだろ?チャーハンと餃子も食うよな?」
「おう。腹減り過ぎて死にそー」
「おーし。じゃあ麺は大盛りにしてやる。おばちゃん、注文お願い!」
桜木は流川用にしょうゆラーメンの麺とチャーシューを大盛り、自分用には味噌野菜ラーメンの麺と野菜を大盛りで、それから二人でなら食べきれるだろうとチャーハン大盛りに、餃子を2人前頼んだ。
注文を終えて自らセルフサービスの水を取りに行き、…仕方がないので流川の分もプラスチックのコップに水を入れてやる。流川が「サンキュ」とそっけなく言ったのがくすぐったくて、ん、とこちらも気のないふうに返した。
食事がやってくるまで流川はメニューをまじまじと見て、これはなんだ、塩ラーメンはしょっぱいのか、ザーサイってなんだ、味玉ってどういう味のついた玉子だといろいろと質問してくるので、それにいちいち応えてやるのは面倒だったし大変ではあったが、若干楽しそうに見える流川を見ていると、この店を紹介した自分もまた少し嬉しくなってくる。
そうこうしているうちに注文した品々がやってきて、二人のテーブルは皿でいっぱいになった。大盛りのチャーハンを見たときの流川が目をまんまるにした顔は写真に撮っておきたいくらい傑作だった。たぶん一年分くらい目を開けていた。
流川のラーメンどんぶりに頼んでいないはずの味玉が入っていたのと、桜木のにはメンマが追加トッピングされていて、しかも餃子が二人前にしては多いように見えたので、おや、と運んできた女性の方を見上げると、「ちょっとだけサービス」と目を細めてくれた。ラッキーではあるが流川効果なのであれば手放しに喜べない心持だ。
流川はさっそく割りばしを割って(案の定きれいに半分に割れていない)、律儀にいただきますと手を合わせたあと、まずチャーシューをつまんだ。おいおい、ラーメンはまずスープからだろ、と言いたい気持ちを抑え、彼がその次に麺をすするのを待って声をかける。
「どうだ?」
「うまい」
端的ではあるが嘘やお世辞は言わないヤツだと知っているのと、流川の箸が止まらずに麺を啜っていくのを、それが本心だと知れて桜木はなんだか嬉しくなる。そうだろうそうだろうと心の中で大きくうなずきながら、自分の味噌ラーメンを味わう。それにしてもこいつの一口は小さいなあと横目でうかがいながら。
「なんでそんな草が多いんだ」
「草じゃねえ。野菜炒めだ。その語彙力どうにかしろよ。家じゃあんまり野菜食わねえから、こういうとこじゃ野菜も食うようにしてんだ。リョーちんに、食事はバランスが大事だって言われたからな」
先輩の宮城は桜木や流川よりも身長が低いわりに体幹がよく、重心がしっかりしている。
上に行くには体づくりも考えねえとな、あ、って言っても俺らまだ高校生だから、長い目で見たら今そんなきついボディメイクはしない方がいいんだけどさ。
そんなふうに言っていたことを思い出していると、流川も似たようなことを思い浮かべていたのか目がぼんやりと遠くを見ている。しかしすぐにはっと我に返ったようで、そしてチャーシューを一枚つまんで桜木のどんぶりに入れてきた。
「それはそれとして肉も食えば」
桜木の味噌野菜ラーメンのどんぶりににちょこんとチャーシューが添えられた。
「…じゃあ、ほらよ、」
桜木はナルト、おまけで付けてもらったメンマとを流川のどんぶりの上に乗せる。大事そうにとっておいているように見えたので、好きなのかなと思ったのだ。
「どーも」
ちょっとだけ、ほんとうにちょっとだけ流川の口の端が持ち上がった気がした。笑ったのかもしれない。だからなんだと桜木は自分のどんぶりに視線を戻す。熱いラーメンを食べているせいか、店内に満ちる湯気のせいか、顔も体も火照っている気がする。
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「あー!食った食った!」
「すげー食った」
「まさかあのチャーハンを二人で食い切れるとは思わなかったぜ!」
「ん」
いい気分でのれんをくぐって店の外に出ると、涼しい風が吹く外気が気持ちいい。秋ともなるとさすがに夜は涼しくなる。そういえばこの店からなら流川の家はどちらの方角になるのだろう。
店の脇に置いた自転車を取りに行っているはずの流川を振り向いて、「おめーんち、こっからならどっちだ?駅はあっちだぜ」と左を指さし聞いてやる。流川は少し考えてからたぶんあっちと右の方を向いた。桜木の住むアパートは左方向だから、ここでお別れだ。
「…じゃオレはこっちだから。寝ぼけてチャリで転ぶんじゃねーぞ」
お別れとはなんだ、お別れとは。どうせ明日の朝練で、たった数時間後には体育館で会うのに。
流川は自転車の鍵を外し、サドルを跨いでから、「ここ、」と夜の町のどこかを見ながら言った。
「ラーメン、うまかった。餃子もチャーハンも」
「まあ、この天才が認めた味だからな」
「どあほう」
少し間を置いてから、流川は桜木の方を向いた。
「水戸とかとも来んの?」
「洋平たちか?おお。そりゃダチだからな。うまいもんは一緒に、」
「じゃあ、友達でもなんでもねえやつとも、来るのか」
「…あ?」
「マスターに、ダチじゃねーって言ってた」
オレのこと。
「え…」
ひゅ、と襟足を刺すような風が通った気がした。流川はすぐに桜木から視線を外してしまい、「じゃあな。朝練遅刻すんなよ」と言い残し、颯爽と自転車をこいで行ってしまった。
瞬く間に暗闇の中に流川の背中は消えていく。
さっきまで温かった腹や胸や頬が、まるで自分のものではないように冷えている。
ダチじゃねー、なんて言っていただろうか。言っていたかもしれない。そういえば、友達連れてきたねとかなんとかを話していた気がする。だとしたら軽口の延長だ。ジョークみたいなもんだろ。わかれよそのくらい。いつもはもっとひどい言葉を投げつけ合っているだろ。ダチでもなんでもねぇやつとラーメン屋なんか来るかよ。しかも気に入りの店に。二人きりでなんて。
口の中が脂っぽくてすっきりしない。流川はどんな表情だったか。あの能面男が、どんな気持ちで。