「おおっ花道ィ!遅かったじゃねぇか!」
案内された個室のふすまを開けた途端、桜木、桜木くん、センパイと、あちこちでわわっと場が盛り上がると同時に聞こえた、宮城のはつらつとした声に花道もつい笑顔になる。歓迎されて嬉しくないわけがない上に、宮城と会うのはほとんど一年ぶりだった。
「リョーちん!久しぶりだな!」
「おめーもしかしてまたデカくなったか?」
「この間計ったら195センチになってたぞ!リョーちんは?」
「うるせーこの野郎!」
そう笑い合って宮城と固く抱き合いながらも、横長の座卓の一番端にわれかんけす、座っている男を見つけてしまい、花道は笑顔が凍り付かないように精一杯はしゃいだ。
「インカレ、優勝おめでと」
バシバシと花道の肩を叩いて、宮城は目を細め本当に嬉しそうにしている。花道も、かつてキャプテンをつとめたこの頼りがいのある先輩が、卒業後もこうして未だに自分を気に掛けてくれていることを改めて知り、胸にじんわりと広がるものがあった。宮城の体付きはまた一回り大きくなっていて、彼が海の向こうでも一生懸命にやっているのだとわかる。それもまた花道を感慨深くさせた。お互いに環境は違ってもそれぞれ努力しているのだと、素直に頼もしく思う。
空いているのが入口付近の場所だったため、花道はあの男ーー流川とはほぼ対角線上に座ることになった。今日の飲み会の参加者は十数人ほどだから、テーブル越しに話をするような距離でもないし、そもそも、話なんてしたくもない、と花道はピッチャーから注がれたグラスビールをグイと一気にあおり、テーブルの上に山と並んだ料理をたいらげつつ、数か月ぶりに会うかつての仲間と飲んで騒ぐことに集中した。
結局、流川とは一言も交わすことなく一次会は時間通りに終わった。
二次会に行くぞおとふらふらになりながら後輩たちに絡む三井を、店の前で騒ぐなと赤木がたしなめているのを横目に見つつ、花道は、じゃあなリョーちんと宮城をぎゅっと抱きしめた。身長差はさほど変わらないように見えて(たぶん花道も伸びたからだ)、宮城の体は厚みが増してとても抱き心地がよくなっている。
「お前、二次会行かねーの?」
「天才にはいろいろあってだな…」
「へぇ?」
訳知り顔で目をすがめた宮城にこれ以上はつっこまれたくないと、それでは皆の衆と二次会に向かう面々にあっさり背を向けた。また連絡するね、と後ろから何人かの声がかかるのを振り切るように、駅とは反対の方へ速足で歩き出す。
誰が二次会に行くか行かないかに限らず、誰にももう繕った笑顔を向けることが難しいと思った。この後もきっとまた流川との話題で場をつなぐこともあるだろう、だって花道と流川は、高校三年間で最高のライバルだったのをみんな知っているからだ。それに加えて、流川の留学後に花道とは全く音信普通になっていることも。それらを笑い飛ばすことも、怒ってみせることも、おふざけのようにケンカを装うのも、花道にとってはもはや難しい。
今夜、現役もしくは元バスケ部員の集まりであって、その中で流川の存在感はやはりひときわ目立ち、と同時に目障りだった。花道にだけそう見えていたのかもしれない。遠目に見ても黒髪はきらきらしていて、ぼーっとしている表情は昔の通りなんの悩みもなさそうで、ぱっと見ただけでも鍛えられた体躯をしていて、どうしても”アメリカで順調にバスケをしている”というように感じられる。あの男にしてみれば今が一番で、高校時代のことなんて毛ほども覚えていないだろう。優勝したこと、敗北したこと、笑ったこと、殴り合ったこと。自分がどれだけ鮮明に覚えているかを思い知らされるのがまた癪に障る。事実だからだ。
花道の住むアパートは居酒屋から歩いて帰れない距離でもなかった。少し夜風にあたって、酔いを醒ましたかったし、もう金輪際だと自分に言い聞かせる時間がほしかった。それなのに、
「桜木」
その声が聞こえてしまって息が止まるかと思った。幻聴に決まってると自分の耳を疑った。繁華街の喧噪を理由に聞こえなかったふりをし、そのまま歩き続けると、今度は「おいっ」とシャツを掴まれた。止まらざるを得ない。でも、振り返ることができない。本当だとしても幻覚だとしてももう見たくないのだ。
「桜木、もう帰んの」
流川の声にしか聞こえないのに、流川がこんなことを言うはずがないので、混乱してきた。アルコールには耐性があると自負しているが、やはりいくらか酔いは回っているのだろう。
そうっと引っ張られる力の方に視線をやれば、視界の隅に自分のシャツの裾を掴むがっしりとした、それでいて白く美しい手指が見えた。あのブランドのスニーカーのつま先も見える。花道は慌ててぎゅっと目をつぶった。
「なあ、聞こえてんのか?酔っぱらって気持ちわりーのか?」
「…」
「桜木」
「…酔っぱらってんのはテメーだろが」
絞り出した声は小さく、独り言のようにさえ聞こえただろう。それなのに「俺は酔ってない」と偉そうな答えが返ってくる。ようやく花道はそろりと片目だけ開けて腕の主を確かめた。いや、確かめようもなくわかっていることだったのだけれど、こんなこと恥ずかしくて誰にも言えないけれど、怖かったのだ。
「キツネ…」
花道とほぼ同じ高さ目線に、相変わらず整った顔立ちで、けれどぼんやりとした表情の流川がいた。繁華街のけばけばしくまぶしすぎるほどのライトが当たっているせいか、本当に酔っぱらっているのか、頬がわずかに桃色で目もとろんとしている。眠いのかもしれないと思い直して、さっさと対処してしまおうと流川の腕をシャツから離そうとした。しかし思った以上に力強く握られてしまっている。
「おいコラ、離せ」
「置いてかねーって言うまで離さねー」
「置いてくって…駅はこっち方面じゃねえだろ。つーか二次会に行けよ。テメーが久しぶりに帰国するんだっつって、みんな楽しみにしてたんだぞ」
「桜木は?」
んぐ、と内臓のどこかをぎゅっとわし掴まれた心地だった。急所を押えられたような。流川は、フン、と生意気そうに鼻を鳴らした。
「どあほうめ。俺は、テメーんちに行く」
「はあ!?」
思わず出た声に通りがかりの人の視線がいくつか向いてくるのがわかった。しかし構っていられない。いったい流川は今なんて言った?
「テメーんち、行く」
流川はこっくりと頷いて、同じことを、今度はもっと大きな声で言った。舌足らずな口調とすぐにでも閉じてしまいそうな目は、やはりこいつは酔っ払いだと花道に確信させた。
どうやって言い聞かせて帰らせよう。引きずって二次会の場所に連れて行くのもやむなしだ。そう決意して口を開けた瞬間、
「さっきは、桜木と全然話せなかったから、テメーんち行って、たくさん話す」
「っ…な…っ!」
冗談にしてはタチが悪い。涙が出そうだ。どうしてこんな無体な仕打ちを受けなければいけないのだろう。自分が何をしたか、何もしていない。この男の人生にもう関わらないと、そうありたいと願っただけだ。それなのに流川は凶星のように花道に降りかかる。
そう、ほとんど運命のように、流川はいつも思いがけず、逃れられない何かの選択肢を花道に突き付けてくる男だった。苦しくて向き合いたくなくて疎ましくて、それでも惹かれずにはいられなかった。その感傷は未だにあの日々の思い出にこびりついて花道を苦しめている。剥がしてしまえばあの三年間はきらきらと輝くものになるに違いない、けれどきっと、花道はそうできない。
「さっさとしろ」
ふあ、と流川は、今度はたしかに眠そうに見事なあくびをした。酔っぱらっているのは確かだが、それよりも眠いのかもしれない。なにせこの男のいぎたなさは筋金入りだ。あれがアメリカにちょっと行ったからと言って直るようなものか。
そう気づいたのと同時に、通りで呼び込みをしていた女性二人がこちらをちらちらと伺っているのが目に入った。服装からしてガールズバーやコンセプトカフェなどに勤める女性たちだろう。ただ単に流川の容貌に惹かれているだけか、それとも何か別の目的があるのか。
ここでこの、バスケ以外はてんでピンとしていない男を放っておいて何かトラブルに巻き込まれてしまったら…いや、なんで俺が流川の心配なんか…でも別に流川に困った目にあってほしいとか思ってるわけじゃないし…いやいや、流川だって高校のときと同じくらいのんびり屋なわけはないだろうし…二次会に行ったメンツに電話してコイツを預けさえすれば…。
「桜木?」
こてん、と流川は首をかしげた。
ぶりっこクソギツネめ!!
花道はごくりとつばを飲み込み、仕方がない、と腹をくくった。この様子なら少し歩いた後に横になればすぐに寝入るはずだ。子どものように眠るのがはやかった男なのだから。であればアパートに連れて行って布団の上に転がしておけば勝手に眠り、そして明日の朝、自分の失態に気づいて、コソコソ帰るに決まっている。きっと、花道と話したいとか家に行きたいとか言ったことは全て忘れて、あの頃の人を突き放すみたいな視線で…。
「わかったよ。連れてくから、とにかくシャツ離せって。伸びるだろ」
素直にシャツを離した流川だったが、疑っているのか酔っているからなのか反応が鈍いままだ。それに花道が歩き出してもぽてぽて、ふらふらと足元がおぼつかない。無駄にデカいから同じように酔っぱらっている通行人のサラリーマンにぶつかりそうになっていた。なんだってんだよ、と誰に向けるでもない悪態を心中でついて、花道は「ここを抜けるまでだからな」と流川の手首をつかんだ。
+++
街道を二人きりで歩いていてもやはりというか相変わらずというか流川はほとんど黙ったままだった。花道も何か話題があったわけでもないので、とにかく家路を急ぐ。ときどき、流川がちゃんとついてきているのを確かめながら。
「話題がない」というのは少し真実とは違う。正確には、話題にできるような当たり障りのない話しかなかった。今日の天気のこと、明日の予定のこと、共通の知人の近況など。流川がアメリカでどうかなんて聞きたくもなかったし、自分の状況を話したところでこの男が興味を向けるわけがない。寝ながら歩かれるのがオチだ。
今の流川とは、バスケを話題にしたくなかった。バスケこそが花道と流川をつなぐものであるからこそ、もういい加減にバスケ=流川という自分の無意識の希望を断ち切りたかった。期待しても何にもならないことは、この二年でもう身に染みている。
途中の自販機でペットボトルの水を買ったくらいで、コンビニにさえ立ち寄らずまっすぐに帰宅したせいか思ったよりも早くアパートについてしまった。流川も、酔っぱらっているくせに文句ひとつなく、花道の少し後ろをつかず離れずでついてきていた。
アパートの一階の角部屋、古びた玄関扉を開ける。ここにきてようやく、どんな状態で部屋を出てきたかが気になり、素早く頭をめぐらせた。
布団は押し入れに片付けたと記憶しているが、流し台には洗い残しの食器があったかもしれない。それでもコップが一つとか皿が一枚程度であるはずだ。風呂場もトイレも先週掃除したばかりだからそれほど汚れてはいないはずだし…。そんなことを考えていたので、流川が玄関口で立ち尽くしていることにしばし気づかなかった。
スニーカーを脱いで上がり框に上がったところで、「おい」と、とてつもなく暗い声が聞こえた。一瞬、背後にいるのが流川ではなくどこかの犯罪者かと勘違いしたほどだ。
花道が首だけで振り返ると、玄関の向こうの月明りを背負った流川がぬぼっと立ったまま、逆行で表情はよくわからないが、とにかく様子がおかしい。
「なんだテメー、やっぱ帰るか?」
そうであってほしくない心を握りつぶして突き放すように言い、花道は電気をつけようと台所に立とうとした。狭い玄関口の電気は切れたまま、もうずいぶん放置したままなのだ。帰れとは言いたくない、けれど帰るなとも言えない。流川が次になんと言い出すかを色々と考えてしまって息苦しくなってくる。流し元灯の引き紐スイッチに手をかけたところで、もしかして、と流川が声を発した。
「付き合ってるやつがいるのか」
「は?」
「女連れ込んだりしてんのか」
あまりに突拍子がなくかつくだらない話題で答える気にもなれなかったが、フンと大げさに鼻息を吐いて腕を組んだ。なんとなく、電気はつけられなかった。
「いねえよ。バスケとガッコとバイトでいっぱいいっぱいだっつーの」
「でもモテるんだろ」
「ああん?誰に聞いたんだそれ」
「…センパイ」
「お前な…。センパイって何人いると思ってんだ。口数少ねぇのもたいがいにしろよ」
「いいから答えろよ」
どうして流川がこれほどまでに引き下がらないのかがよくわからない。高校の頃の…花道が知っている流川であれば、バスケ以外のことにはほとんど無関心で、しかもそれが色恋沙汰であれば自分のことですら興味ないといったふうであった。あんなにモテていたのに、結局在校中に浮いた噂を聞いたことはない。もしあれば周囲が騒ぎたてただろうから(特にあの親衛隊とか言う熱烈な女性ファンの集団が)、花道だけが知らないということでもないはずだ。
仁王立ちの流川から、答えを聞くまでは一歩も動かないぞというプレッシャーをひしひしと感じて、花道はしょうがなく会話を続けてやることにした。
「そりゃあまあ、天才だからな、モテるに決まってんだろ。カッコイイし、バスケはうめーし、優しくて力持ちだし」
「全部思い込み」
「うるせー!…ま、ソコソコそーゆー話も、なくはない、ケド?」
「そーゆー話ってなんだ」
「ああもう、告白とかだよ!付き合ってくださいってやつ!」
お前こそ、数えきれないほど経験しているくせに。なんでそんなにドンカンになれるんだ?
苛々する。
「告白されてるのに付き合わねえの?」
「だから忙しいんだって。それに、本命がいるのに好きでもねえ人とそんなすぐハイ付き合いますなんて言えるかよ。相手の方にも失礼だろ。俺は硬派なバスケットマンなんだ」
「本命?」
「あ」
「テメー、好きなヤツがいるのか」
「っ、」
流川の声がまた一段と低くなった。
「じゃあ、その好きなヤツに告白されたら付き合うのか」
流川の目的が見えず、会話の落としどころも見失った状態で、花道はふつふつと怒りにも似た熱の塊が腹の底から込み上げてきているのを自覚できていなかった。何かをむりやり引きずり出されるような執拗な引力。理性で抗うには、だいぶ酔いが覚めたとは言えまだ正常に判断できるような(平生が必ずしもそうだとは言えなくても少なくとも今よりはまだましだ)冷静な状態ではなかった。語気が強まりまるで流川を責めるような口調になってしまう。
「好きな人から告白されることなんてありえねえよ。そいつ…その人は、俺のことなんて好きじゃねえからな」
「なんで。聞いたのか」
「聞かなくてもわかってる」
「なんで聞かなくてもわかんだ」
「なんでもだよ。テメー、いい加減しつけーぞ」
「ふん。好かれてないだなんて自分に嘘ついてごまかしてるだけだろ」
挑発というよりは嘲りに聞こえた。
「自分が告白する勇気がないだけのくせに」
「…お前に何がわかるんだよ!」
花道はぎりっと流川をねめつけて声を荒げた。
「俺が好きなのはテメーだ!でもテメーが俺を嫌ってることくらいわかってる!」
「…!」
「だから一生、好きな人から告白されることなんてありえねえんだ!」
まるで体の中で爆弾が爆発したみたいだ。その勢いはすぐに消え、それからじいんと目の周りが熱くなって、ぶわりと涙が込み上げてきた。暗くてよく見えないだろうと思いつつも絶対に流川にはそれを知られたくなくて顔を伏せる。自分の叫びがまだ頭の中で響いている。
俺が好きなのはテメーだ、流川。
ちくしょう。
言ってしまった、取り返しのつかないことになってしまったと悔やむとともに、この数年、卒業してから、いやもしかしたらもっと前から、言葉にしたくてたまらなかった感情を声にして、叫んで、どこか安堵もしていた。涙と一緒に何か重くてどろどろしたものも流れ出ていっているようだった。胸が詰まって苦しいままなのに、なんだかすっきりとして笑い出したい気分でさえあった。
「テメーにゃ理解できねえだろうが、フラれるのがわかってて告白できるほどカンタンなモンじゃねえ。」
勇気が無い。その通りだ。だから激昂してしまったのか。
勇気。
そんなものがあったらこんなに拗らせていなかったのだろうか。
高校時代、一度だけ「流川に告白する女子」というシーンに出くわしたことがある。好きです、と自分の気持ちをはっきり、まっすぐに伝えていた彼女の後姿は、凛々しくさえあった。流川が断るのはわかっていたので、その後の展開が見たくなかったというよりは、その彼女の姿を見続けていられなかったというのが正しい。花道は、あんなふうに自信をもって告白できる未来を想像することができなかった。
自分が持てあましてきた流川への気持ちは、好きと単純に二文字に収められたことなんてなくて、好意、憧れ、親愛…それらの美しい表現を通り越してわけがわからない執着をしてしまっている。国語の教科書で「劣情」という単語とその意味を知ったときに、いちばん近いのはこれではないかと愕然とし、それからは一段と、ずっと恋だと認めることができなかった。流川のあの強い視線が自分に向けられるたびに、鼓動は痛いほどで、頭は沸騰したみたいに熱くなり、体中にやる気がみなぎる。胸がときめくどころの話じゃない。それらが全部「ライバル」に向けられるものならよかったのに、この気持ちはそれだけではないことに気づいたとき、自分はどうかしてしまったんじゃないかと混乱したし、怯えた。結末がすぐにわかってしまったから。また失恋するのだ。
絶対に叶わない想いをひっそりと胸に抱え込み続けるには、流川は花道にとってあまりに苛烈で不可欠な存在でありすぎた。流川のことを考えて胸がいっぱいになって涙した夜もある。たいていは、自分のことを忘れてしまった流川だとか、アメリカで見知らぬ女性と付き合い始めた流川だとか、いつのまにか結婚して人づてにそれを知らされるとかの、花道にはどうしようもできない妄想で落ち込んでしまうのだ。考えても仕様がないとわかっているのに、今頃どうしているだろうかと思いをはせてしまう。
今日のOB会だって、流川が来ると聞いてからはその日が待ちきれない気持ちと会いたくない気持ちで毎日揺れ動いていた。もし、もしその場で流川が今付き合っている人の話になってしまったりなんかしたらどうしよう。それならいっそ行かない方が、人づてに話を聞く方がまだいくらかましだろう。でも結局は、ひと目でもいいから今の流川を見たい、少しでも自分のことを気に掛けてくれているのかを知りたい、そんな希望を捨てきれずに出席してしまった。
それまで恋をしたと夢に浸っていた数十人と同じように告白して砕け散ったら、また新しい恋に踏み出せるのではないかと考えたこともあった。でも心のどこかに、流川を見返してやれるほど、流川が花道を見直すほどバスケが上手くなったら、その頃にはきっとこの気持ちも昇華されて単純に良いライバルとして向き合えるのではないかという自分の成長への期待もあった。それならそのときに、花道が流川に告白しただなんて過去はない方がいい。そのときに流川に恋人がいたって、へぇアイツがなぁと驚く素振りくらいできるかもしれない。きっと二人にとってその方がいいに決まっている。
だから流川に告白なんて絶対にしない。流川以上の運命の誰かが自分にも現れる。自分はその人と若々しく甘酸っぱい恋愛をして、その人を誠心誠意大切にして、幸せな家庭を築くのだ。それまでにこの気持ちは殺しておかなくてはならない。
いつのころからかそう心に決め始めていたのが、今晩実際に流川に会って、「桜木」なんて懐いているみたいに呼ばれて、自分をごまかしているだなんて言われて、何かが体の中で弾けてしまったのだ。花道が危なげに大事にしていた膨れ上がった風船は、いつか空の彼方に飛ばしてしまうか土の中に埋めてしまうかしてしまおうと思っていたのに、流川につつかれたせいで意図せず割れた。でももしかしたら、誰かに割ってほしかったのかもしれない。膨らみ過ぎて花道自身にもどうしようもなくなっていたものを、もういいだろ、もうどうでもいいって、本当はぶちまけてしまいたかったのかもしれない。そんな自分もいることに、花道だって、気づいていたから。
花道は頭を抱えてしゃがみこんだ。だからって、言うにしたって勢いで言いたくなかった。こんな売り言葉に買い言葉みたいな調子で告げたくなかった。どうせフラれるならもっときっぱり男らしく告白して、流川に夢中だった過去にも、今にも、これからにも、全部全部に区切りをつけてやりたかった。
「クソ…」
流川が告白してきた女子生徒にどんな態度を取ってきたかなんて嫌というほど知っている。あれをされるのだ、これから。そうして今後、きっと花道への態度は変わるだろう。これまでは高校時代のチームメイト、程度の認識で流川の中に居座ることができていたかもしれない。もしアメリカで何かのかたちで再会できたら、久しぶりだなとなんでもない言葉くらい交わすことも、それほど期待外れなものではなかっただろう。
でもこれからは、ずっと自分に懸想していた気持ち悪い男として流川には認識され続ける。バスケがうまくなったって、流川は花道を忌避し、純粋にプレイヤーとして対峙しなくなる。
全部、終わり。
「…やっぱテメー帰れ。すぐそこの国道まで出れば流しのタクシーくらいつかまるぜ」
暗闇のなか、頭上で流川が動く気配があってぎゅっと目をつぶった。涙は止まりそうにない。ぽろぽろこぼれていくまま、ジーンズの膝に目元を押し付けた。
最低の夜だ。こんなことになってしまうのならやっぱり一人で帰ってくればよかった。流川なんかに関わらずにいればよかった。そうしたら明日からまたいつも通りの日常を送れたはずだ。バスケと学校とバイトで忙しい毎日。いつかアメリカでプレイするのだと夢だけを追いかけられた日々。
ドアが閉まった音がした。出て行ったんだと思った矢先、ドス、と隣に座り込まれた。冷え切った体のどこかもわずかにくっついている。
思わず顔を上げて横を見ると、座り込んだ流川が、じっと花道を見ていた。
「帰らねえ」
流し台の小窓から差し込む月明りだけが二人を照らしていた。近づきすぎたから表情がよくわかる。流川は怒ったような顔をしていた。むすっと花道をねめつけている。そりゃそうだろう、裏切りみたいな告白だったのだから。でもそれなら、どうしてこいつはここに座っているんだ。帰らないってどういうことだ。花道はわけがわからないまま、なんで、と惰性のままにつぶやいた。流川はさらに不機嫌そうにーー昔よくそうしていたようにーー唇をわずかにとがらせた。
「俺のこと好きって、どーゆーことだ」
「は?」
「俺のこと誰にも渡したくないとか、俺ともっと一緒にいたいとか、そういうことか」
「…だったらなんだよ」
流川を誰にも渡したくない。流川ともっと話したい。流川ともっと一緒にいたい。触れたい、触れてほしい、花道のことを考えていてほしい、見つめられていたい、今のように、二人きりだけの時間と空間で、誰にもじゃまされないで流川と…。また涙がこみ上げる。そういう未来は諦めなければいけないのに。
流川がぱちんと一度だけ瞬きをした。
「それなら、俺もそう」
それで一瞬、夢か魔法が始まったのかと思った。流川は花道の方にゆっくりと手を伸ばしてきて、親指で目元にふれてきた。自分の顔が熱いのか、流川の手が冷たいのか、とにかくきもちいい。自分がごくりとつばを飲み込む音が妙に響いた。
「それが好きってことなら、俺もお前が好き」
「…え…?ルカ…」
「かも?」
「かも!?」
「たぶん」
「たぶん!?」
「あ、泣き止んだ」
ぐにぐにと目元を擦られてむしろ痛い。それなのにやめろだなんて言えなくて、恥ずかしさなのかなんなのかよくわからないまま花道はわめいていた。流川が落とした爆弾のような発言のせいで涙どころではない。
「誰かにこういう気持ちになったことねえから、お前の好きって気持ちと同じなのかはわかんねえ。でも、一緒にいたいとか俺のこと見てほしいとか、そういうのは同じ。どあほうのこと、誰にも渡したくねえし。知らねえ女と付き合ってるんだとしたら別れろって思ってた」
「え!?マジか!?」
「うるせー」
片目を眇めて、流川が手を引っ込めようとしたので、慌てて花道はその腕首をつかんだ。無意識だった。
「お、お前、意味わかって言ってんのか…?」
「意味って」
「俺がお前を好きって言って、お前も俺が好きってなったら、そりゃあその、両想いってやつだろ」
「そうだな」
「両想いなら、コ、恋人になれ、る…だろ?」
「そうしたいのか?」
流川はまたゆっくりと瞬きをした。
きれいな瞳をしているんだな。
見つめ合って、初めてその美しい輝きに気づいた。いや、この目を見たことがないわけではないし、美しいのも強いのも知っていた。そうではなくて、それまでと違った、知らない流川のようなものがその瞳に現れていたような気がしたのだ。そしてそれに気づくことができた自分をひどく幸福だと感じた。
想いが通じるというのはこういう瞬間なのかもしれない。憧れていた「私も桜木君が好きです」という言葉そのものではなくても、その視線で流川が、流川なりに花道を想ってくれているのが伝わってくるようだった。
「どあほうがそうしたいなら、そうしてやってもいい」
…相変わらず口の方は生意気だけれど。
今度は花道が流川の頬に片手を添えた。さらりとしていてひっかかるようなざらつきはなく、柔らかい。ここに触れることができているのが自分でよかった。
「なんで偉そうに上から目線なんだよ」
「それでも好きなんだろ、俺のこと」
「んぐ」
すると流川がふっと目を細めた。光の加減かもしれない。その目が潤んで、わずかに開けられたその小さくてかたちの良い唇が何かを許してくれているように見えた。吸い寄せられていく。幻聴かもしれないけれど、さくらぎ、と呼ばれた気がした。
チャーチャーチャチャーチャチャラチャチャー!
静かだった空間にいきなり響き渡った電子音に、二人ともおおげさなほど体をびくつかせて固まってしまった。花道のケータイの着信音だった。深夜だからか余計にうるさく聞こえる。鳴り続ける音を止めようとジーンズのポケットから慌てて取り出すと、液晶画面には「リョーちん」と表示されていた。
「リョ、リョーちん?どうしたんだね、ここ、こんな遅い時間に」
『おう、悪いな花道。流川がお前についてっただろ?今お前んち?あいつケータイ持ってねえからさ』
先程までのやりとりをどこかで見られていたかのような後ろめたさを感じて声が上ずってしまう。
「あ、ああ、キツネはほら、あれだ、もうおねむで腹丸出しでそこに寝転がってるぜダハハハ!」
『・・・?ふーん、まあ仲良くやれよな。明日の朝あいつ起きたら念押してくれ。10時に駅に集合だから遅れるなってよ』
「ん?明日なんかあるのか?」
『安西先生んとこに一緒に挨拶に行こうってことになってんだ。オレたちは次いつ来れるかわかんねーし、流川なんて黙ってたら二度と行かねえだろ。あ、花道も予定空いてんなら来いよ。じゃ、流川のこと頼んだぞ。おやすみ』
「おう。お、おやすみ」
通話を終えて終了ボタンをしっかりと押し、完全に通話が切れていることを確かめる。何も聞かれても見られてもいないはずなのになんてタイミングなんだろう。さすが元キャプテン。なんとなく納得して、あれ、と気付く。横にいたはずの流川がいない。花道と同じくらいのサイズのスニーカーが玄関の隅に並べられていた。
もしやと思って居間の方へ首を向けると、裸足の足の裏が行儀よく並んでいるのが見えた。そこから伸びる立派な両足を視線でたどれば、流川は座布団を枕代わりにして畳の上に横になっていた。すで両の目は閉じられている。
「おい、流川!」
寝入ってしまえばこの巨体を移動させるのは花道と言え体力を要する。
「寝るならちゃんと布団で寝ろよ。敷いてやるから。つーか風呂とか歯磨きはいいのか?なあ」
ゆさゆさと体を揺らすがまったく反応がない。宮城と話していたのは3分にも満たない時間だったはずなのに、その間にこうして眠れるだなんて、呆れたものだ。
花道は仕方がなく自分用と客用の布団をそれぞれ敷いて、流川を転がすようにして客用布団へ横たわらせた。そんなにまでしてもなんとも健やかな寝息をたてている。相当眠かったに違いない。掛け布団をかけてやり、自分もまた横になって、仰向けに眠る流川のその横顔に小さく問いかけた。
「本当に本当だよな?明日起きて、これが全部夢だとか言われたら、俺は、」
なんといえばいいだろう。笑ってごまかすことはできるのか。怒ればいいのか。泣けば…そういえばさっき、結局、泣き顔を見られてしまった。一番見られたくない相手に、無様にも。そういえば高校のときにもあったな。悔しくて、不甲斐なくて、でもどうすればいいのかわからなくて。流川の、まるで渇を入れるような挑発に、あのときはずいぶん救われた。きっと流川には励ますとか慰めるというつもりはなかっただろうけど。
ずっとまた、こうやって流川と関わっていられるといいのにな。
言葉が続かないまま、花道にももったりとした眠気がやってきた。
夢でもまあ、悪くはない夢かもしれない。こうして近くで流川を見つめられることなんてもうないだろうから。
「言っとくが、」
「うわっ!」
寝入ったと思っていた流川がごそりと体の向きを花道の方に向けて言った。存外顔の距離が近くて、流川の声が胸に響く。
「夢でもなんでもねえ」
「お、おお」
「明日起きても、コイビトの、まま、」
「…流川?」
それだけ言うとまた瞼がぴたりと閉じて、寝息が聞こえる。寝言にしても会話が成り立っていたようだ。ヘンなやつ、と花道は吹きだしてしまった。ずれた掛け布団をかけなおしてやって、今度こそ花道は何も考えずに目をつぶった。