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    corpse

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    corpse

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    転生尾形と不死身の杉尾の一幕 TS女体化要素を含みます 或いはただの夜の話

    #杉尾
    sugio

    愚図、と云ったのは年端も行かない子供の声だ。象牙のような小作りな爪を乗せた作り物のような皓い爪先が器用に鼻緒を掴んで足首を振るう。それで草履が飛んで云って高い声が嗤った。その脚が前に屈む男の胸に触れて戯れのように蹴る。蹴られた男は少し呆っとそれを見詰めた後で完爾と微笑んで取って参りますと云って立ち上がる。男は放られた草履を拾い上げ、大切なものを扱うように丁寧にそれを手で払ってまた濡れ縁の前に跪いた。
    そうして今度こそそれを真白な脚に履かせてやる。草履を履いた少女は一瞬詰まらなさそうな顔をしたがそれでも立ち上がると側仕え男の腕に手を伸べた。男も嬉しそうにその手を取ってやって二人は歩き始めた。少女の振袖の蝶がひら、と揺れている。私はそれを見るとも無しに見詰め、やがて二人の姿は消えて行った。
    あの男は何時からか現れて初めは随分と訝しまれたものだが大きな態をして存外に健気な様子をするしたまに二三言、言葉を交わせば人好きのする話し方をするからやがて口性の無い言葉も影を潜めた。それに、何しろあのお嬢様が大層気に入って居らっしゃるのだから何をか思おうと詮無きことでもある。使用人達があの男に話し掛けるのも許さないような有り様なのだから。


    あの人は可哀想な人なのよ、と云う言葉に私も深く頷く。お嬢様はひどいことを為さる、と私も云った。皆も私の言葉に頷いている。
    今朝もお嬢様は椅子に腰掛けながら鏡台をこつこつと皓い指先で叩いていました。普段愛用されていた瀟洒な透かしの入った柘植の櫛が無くなったとかで、あの可哀想な側仕えの人はやっぱりお嬢様の足元に伏して額を床に擦り付けていました。お嬢様はその肩を脚で軽く蹴りながらお前がそうしていても櫛は出て来やしない、早く探しておいでと告げてから後ろに控えていた私に別の櫛を申し付けたのです。
    可哀想にねぇ、と皆が口々に云う。お嬢様は何かあるとすぐあの人に当たり散らして。本当にお可哀想。あの人は背もすくりと高くて男ぶりも素敵で、そりゃあ顔に大層な傷なんかはあるけれど、それでも完爾と笑った時には糸切り歯が見えたりなんかしてかわいらしいのにね。難儀していたら荷物を持ってくれたり、高いものを下ろしてくれたりと実にやさしい気立てもしているし。
    お嬢様も顔立ちだけは宜しいから、あの二人が黙って立って居ると絵になるんだけど。ああ、駄目駄目。私が見た時なんてお嬢様はね、あの人を呼び付けると急に頬を打って手巾が汚れている、お前の所為だと仰って手巾をあの人の顔にうっちゃってぷいと何処かへ行ってしまったのだから。あの小さな赤い唇から鈴の振るような声で云うことと来たらあの人を罵ることばかり。少しでも居ないと手を叩いて呼び付けなさるのにね。
    でもあの人だって腹の立つこともあるだろうに。随分出来た人だねと他のものが云う。私はあの人が声を荒らげるのなんて見たことが無いよ。いつも献身的にお嬢さまに尽くしていなさる。それを良いことにまたお嬢さまが増長なさるのさ。そこで皆大笑いした。
    私はと云えば唇を噛みながら出涸らしの茶とは名ばかりのほぼ白湯のようなものを飲んでいた。窓からは鳶が高い空を回るのが見える。皆はもう違う話をして盛り上がっていた。私だけはずっと、あの人のことを考えていた。


    簪が無い、と告げたお嬢様の声は硬い。長い髪がさらりと揺れている。傍らに侍っていた男の顔色が変わった。おろおろとしてから辺りを見回す。お嬢様が静かに男の名を呼んだ。男もやがて観念したように悄然と項垂れてお嬢様の前に跪く。
    「今日はあの簪と決まっていたのに」
    「白蝶貝のやつですか」
    「そう」
    「俺が探しますから」
    「お前はいつもそう 口ばかり 柘植の櫛も出て来やしなかった」
    「いいえ、絶対に探します」
    「出て来なければ」
    そこでお嬢様は花の顏を綻ばせながら両の手を顔に当てて笑いました。
    「好きにすると良い お前、私の今日の拵えはどうでも良いのでしょう」
    そこで男は慌てふためくようにお嬢様の足元に額づいてその爪先に許しを乞うようにしました。
    「犬のように這いつくばっていないで探しにお行き」
    「いいえ、いいえ、此処に居ます」
    お嬢様の皓い脚が男の頭を擽るように、嘲るように、嬲るように動いています。私はもう見て居られなくて目を逸らしました。


    翌夕、お嬢様がお倒れになられ熱を出されたとかで俄に屋敷の中は騒がしくなっておりました。あの人はやっぱりお嬢様の傍にずっと控えて居て、皓い額に浮かぶ汗を拭っては悲しげな顔をしております。
    私は水桶の水を交換しながらあの人はなんて心のやさしい人なのだろうとうっとりしました。直ぐにお医者様もいらっしゃって私は室を後に致しましたが、あの人はやっぱりずっとお嬢様の横に座って布団から伸べられた皓い手を摩ったりなんてしていました。
    その夜のことです。私が寝支度を終えてから最後にもう一度お嬢様の様子を伺いに行くと、あの人とすれ違いました。何かご用事ですか?と仰る声にもわずか疲れが滲んでいる様子で何時もより硬く訊こえたものですから、私も少しだけ声を潜めてお嬢様のことが心配で、と返しました。
    するとあの人はニコリと微笑んでお嬢様は大丈夫、俺が着いて見ていますから、と返すのです。それでもずっと着いていらっしゃるとお疲れになるでしょうと云うと俺は大丈夫ですよ、とまた良いお顔で微笑むものですから私はすっかり俯いて自分が夜着の上に野暮ったい半纏なんかを羽織っているのが恥ずかしくて仕方が無くなりました。
    所在無く前を合わせたり裾を握ったりしているとあの人はやさしく笑ってあなたはやさしい人ですね、とそっと私の手を取り上げて私の名をお訊きになるものですから私もすっかり頬に血の集まるのを感じてますます俯いてしまいます。
    私が名乗るとあの人もうっとりするような声でお名前を教えて下さいました。そうしてあの人は私に三日後の夕刻、離れの裏へ居らして下さいとまで云って下さるので私は天にも登るような心地で頷いて、口の中であの人の名前を繰り返しました。あの人はそう、杉元、佐一さんと仰るのです。


    何処からか話し声が訊こえる。少女の声と、男の声だ。そう思う前に少女がまた何かを話し始める。
    「それで?お前はこれからどうするんだ」
    鈴を振るような少女の声であるのにひどく大人びた抑揚の無い喋り方だった。それで少女は何かを詰問するように何か喋ってみろ、と男を詰っている。
    「ごめん、悪かったよ まさか逃げられるなんて思ってなかった ちゃんとやる ちゃんとするから」
    「ふうん まあどうでもいいけどな お前の不始末だ お前が何とかしろ 俺はもう眠いんだ 分かるだろ?」
    「勿論分かってるよ もう戌の刻だもんな 大丈夫、明日お前が起きるまでに全部済ませておくから」
    その辺で私は自身が暗がりに屈み込んでいて、幾度か瞬きをするとその真暗な隙間から外の光景がうすく見えることに気が付きました。わずか身動いで狭い所に納められた体が少しも動かないことも厭でも分かります。手足は痺れ切って、口にも何かを咥えさせられていました。不思議と恐怖心はありませんでしたが、口の辺りが唾液で濡れて不快ではあります。
    外の会話が止まっているので私は私の身に何があったのかについて思いを馳せることが出来ました。そう、私は佐一さんに離れの裏に呼び出されて。夕刻に私は確かに其処に向かいました。それからが上手く思い出せません。
    隙間から見える光の眩しさに目の眩むような思いをしながらもよくよく目を凝らしてみればそこに立っているのは佐一さんで、椅子に座って足をぶらぶらさせているのはお嬢さまでした。お嬢さまはふわ、と欠伸をしてから常からは考えられないような険のある顔をして杉元、と眼前の男を呼ばわります。言葉遣いも丸で別人のようでした。
    「何?」
    「もう良い お前の話にも飽きた さっさと失せろ 俺は勝手に戻って寝る」
    「危ないよ 送って行く」
    「要らん 子供のようにするな」
    「熱もあったろう 心配だ」
    「莫迦め もう下がった」
    「分かったよ、怒らないで ごめんな尾形」
    そう云って佐一さんはお嬢さまに顔を近付けます。私はオガタ、とは何だろうとぼんやり考えていました。訊いたこともない呼び方です。
    「じゃあ寝る前の」
    「ん」
    お嬢さまも自然な動きで佐一さんの頬に手を伸べるとその唇に触れるだけの口付けをされました。まるで犬が飼い主に侍るように佐一さんはお嬢さまの肩口に額を触れさせるとお休み、とだけ云って何処かへ立ち去ります。それから数瞬の時間の後でお嬢さまが此方を振り返りました。私は驚いて身動きも取れずに凝っとしていましたがその皓く細い手が伸びてガタリと音がすると共に私は灯りの元に引き摺り出されて居たのです。
    それで気付きましたが私は長持ちのようなものの中に納められて手足をきつく縛められて居ました。お嬢さまの手が私の猿轡に触れながら声を潜めて喋るなよ、と仰います。私はこくこくと頷きました。お嬢さまの喋り方や立ち居振る舞いが恐ろしかったのです。そうすると皓い手が器用に動いて私の縛めを解いてしまうと立てるかと私を支えながら立ち上がらせました。
    「行けそうだな 歩けなければ死ぬぞ 着いて来い」
    着物の上に真黒なインバネスを羽織ったお嬢さまは手燭を灯して壁に設された木戸に手を触れました。戸が開くとほかりと夜が口を開けるような暗がりが顔を覗かせています。暗さに怖気付く私の手をお嬢さまが掴んで引きました。
    「早くしろ 時間が無い」
    私が暗がりに滑り込むとお嬢さまは私に手燭を持たせ内側から丁寧に戸を締めて閂を掛けます。
    「これで少しは時間が稼げる 急げ」
    「急げって何処に」
    「道があるだろう 進め」
    辺りを見回せば岩を刳り貫いた洞のようで進めそうではありましたが実に狭い通路です。足元は濡れて黒々と艶めき奥は見通せません。私が戸惑っているとお嬢さまが舌打ちをして私の背を押しました。
    「早く 杉元が戻って来たら不味い」
    「あ、あの 佐一さんは 何故」
    「それは道すがら説明してやるから今は黙って歩け」
    それで私たちは何処へ続くのかも分からない天然の隧道をそろそろと歩み始めました。道は複雑に別れていましたがその度にお嬢様が右へ、だの左へ、だの潜めた声で云うので私はそれに従うより他有りません。文目も分かぬ道行の中、時折水音がしたり首筋へひたりと水滴が落ちたりして私が声を上げる度にお嬢さまは舌打ちをしたり後ろを振り返ったりなさいましたがやがて随分進んだ頃にもう良いだろう、と幾分和らいだ声を出し、私の手をそっと握って指先でそろそろ手の甲を撫でたので私の疲労も少しだけ和らぐ思いがしました。
    「この先を進めば山道に出られる 獣道だが一本道だ それも過ぎれば里村に出られる」
    「あの、私は何の為に」
    「柘植の櫛、あれを燃したのはお前だな」
    は、と私は息を飲みました。
    「白蝶貝の簪も」
    「あれは」
    お嬢さまはそこでまた私の手の甲を少しだけ指先で撫でます。やわらかい動きでした。
    「責めているわけでは無い どうでもいいことだ」
    「でも」
    「ああ、俺が杉元に怒っているのでも見たか?あれはな、ああしなきゃ杉元が煩いからだ 俺にしちゃ櫛も簪もどうなろうと知ったことじゃない」
    「じゃあ、何故」
    「あれくらいならかわいいおイタで済んだんだがね 俺を古井戸に突き落としたのもお前だな?大方杉元に惚れて俺が気に入らなかったんだろう どうだ ハハ、図星か 悋気に狂う女の眼は分かり易い お陰で熱が出て参った もう下がったがな」
    私が無言で居るとお嬢さまがまた低く笑います。すっかり少女の笑い方ではありませんでしたし、全て承知の上のようでした。
    「あれは良くなかった 杉元が怒ってなぁ 宥めるのに苦労した 熱より骨が折れる だがまさかこんなに早く手を回すとは思って居なかった 許せよ」
    「佐一さんが、怒っていらっしゃったのですか」
    「そうだよ あいつは俺に惚れているからな」
    また私が何も云えずに居るとお嬢さまがハハ、と笑う。
    「どうせだ 昔語りでもしてやろう この道はまだ先がある お前も暇だろうからな」
    足元で小石がかつりと鳴りました。私の背にも歩くことと緊張による汗だけでは無い冷や汗が伝って、乾いた喉も張り付くようです。お嬢さまはゆるゆる話を始めます。それはどうにも私には想像も及ばぬ話でした。


    俺はな、今はこんな態をしているが元は男で、名を尾形百之助と云った。杉元とはその頃に知り合ったのさ。その時は彼奴より一つ年嵩だったんだがね。おかしなもんで今ではこんな有様だ。
    さてはお前少しも信じちゃいないだろう。まあこの態を見りゃあ誰も信じやしないだろうがな。あの頃の俺と今の姿を重ねて知るのは杉元だけだ。杉元、杉元ね。彼奴とはあの頃にほんのわずか目的までの道を共にしただけの他人みたいなもんなんだが。
    あいつと来たら顔を突き合わせては俺を睨み付け少しでも裏切るような様子を見せたら殺してやるって息巻いて、俺は舞い散る火の粉は払うが勝手に燃えるのは愉しむ質だったんでね。どうにも禄でも無い関係だった。ああ、あいつは俺を蛇蝎の如く嫌っていたんだ。裏切り者の蝙蝠野郎ってな。
    裏切り者?ああ、俺は所属していた師団を抜けて好き勝手に振舞っていたからな。都合の良いものにひらひらと擦り寄って舌先三寸で煙に巻く蝙蝠に例えたんだろ。まあ俺の遣り口なんてどうでもいい話だが。
    それから色々あってな。俺は道行きの途中で落伍した。終わり方まで下らねぇ人生だったよ。下らないことは、嫌いじゃないがね。杉元がどうなったかなんて知るものか。
    だが或る日、目を覚ましてみればこの通りだ。巫山戯てやがる。旅順や奉天でさんざっぱら露助の頭を撃ち抜いて屍山血河を踏み越えたこの俺が、華族の娘だと云うんだからなぁ。何の因果かね。
    それでも仕方無く小娘の振りはしていただろ。俺とて詮無きことを云って詰まらぬとは云え二度目の人生を可惜棒に振りたくは無い。癲狂院なんぞにも行きたくは無かったんでね。
    それで、今の俺を見付けた杉元だ。杉元と出会ったのはほんの偶然だったよ。街へ小物なんかを買い付けに行って茶屋で休んで居たら隣に居たのがあれだった。今はすっかり小娘の態をしている俺の手を握って顔に大層な傷のある大の男がわんわん泣くんだからな。取り繕うのが面倒だった。あの時に居た侍女には金を握らせて暇をやったが。
    杉元はな、死ねない体になったと、文字通り不死身に成り下がった、こんな体じゃ誰の傍にも居られない、と俺に執り縋って泣いた。あいつはあの頃から不死身の杉元なんて云われる大層腕っ節の強い男ではあったがまさか本当に不死身になっちまうとは、お笑い草だ。
    あいつが何を考えているのか何て知ったこっちゃないが俺は黙って話を全部訊いてやってから居たけりゃ傍に居ろと云ってやった。俺もこんな態になってまで尾形と呼ばれりゃ少しばかり思うところがあったのかもしれん。気の迷いだったかもしれんが
    あいつは泣きながらありがとうと俺に頭を垂れた。俺が男の時には死んでもクソ野郎には頭を下げたくないなんて云っていたんだがな。この姿ならあいつも気を許せるんだろうよ。俺に取ってみりゃ何もおもしろくは無いが。
    あ、其処は狭いから気を付けろ。壁に手を這わせて左へ進め。途中で折れている。間違えるな。それで、ああ杉元が俺を見付けた時の話だな。
    まあ俺の頭の中身は男の時から変わっちゃあいねぇ。それにあの頃杉元とは啀み合うだけじゃなく、殺し合いの熱を下げる為に交合ったこともあったからな。わけの分からねぇ関係だ。
    え?嫌っていたのにってか?まああんたが理解出来ないのも仕様が無い。理屈なんてありゃしねぇ。血の熱を下げる為の、或いは何も無いのを確かめる為の莫迦げた振る舞いだ。戦場では時にそう云うこともある。俺は日露ではそんな莫迦騒ぎには加わらなかったのに何故だか戦争が終わってからそう云うことになっちまってな。杉元も、そうだった。莫迦げた惑乱だ。クソ、話が逸れたな。
    それからのあいつはあんたも知っているだろう、随分と俺に尽くした。それこそ何くれとなくって奴だ。なんでなのか分かりゃしねぇがその内に俺の全部を欲しがるようになった。何もやっちゃ居ないがね。俺の気なんてお構い無しさ。それで俺があいつを冷たくあしらうと悦ぶんだ。尾形、やっぱり尾形は変わらないってな調子だ。気持ち良くは無いが拾っちまった犬だからな、仕方が無い。
    だからお前のようなやつが出ると困るんだ。あの犬は大人しいだけじゃない。昔の俺ですら暴れ出したあいつは持て余して居たんだからな。何にでも噛み付いて振り回しちゃあ殺しちまう犬なんて危なっかしくて飼って居られないだろ。ああ、そろそろ外が見えるぞ。ちゃんと逃げおおせろよ。
    あ?何で助けるのかって?そうだな、杉元は元はあんなじゃなかった。人が死ぬのを悲しむ心をちゃんと持っていたんだぜ。殺す時には容赦が無かったが、きちんと道理を弁えている部分があったんだ。それこそ俺よりもな。だから俺はあいつが下らねぇことをするのを見たくないのかもな。


    それだけ云うとお嬢さま、否、尾形百之助はニヤリと笑うと私から手燭を取り上げて此処からは月が足元を照らす、さっさと行けと手を振った。
    「あの、助けて頂いて……」
    「云ったろ あんたの為じゃない 俺の為だ 早くしてくれ 今度杉元に見付かってももう俺は庇えないからな」
    「……それでも、ありがとうございました」
    「ああそれとな、今日の話は誰かに話してもいいが誰も信じやしねぇ 黙っておいた方が懸命だぜ」
    それだけ言い置いて少女の姿をした男はインバネスの裾を翻しながら細い暗がりに戻って行った。私は前に向き直って、下生えを踏みながら獣道を歩き始める。皓い月だけがそろそろ夜を照らしていた。


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    hisoku

    DOODLE作る料理がだいたい煮物系の尾形の話です。まだまだ序盤です。
    筑前煮 夜の台所はひんやりとする。ひんやりどころではないか。すうっと裸足の足の裏から初冬の寒さが身体の中に入り込んできて、ぬくもりと入れ換わるように足下から冷えていくのが解る。寒い。そう思った瞬間ぶわりと背中から腿に向かって鳥肌も立った。首も竦める。床のぎしぎしと小さく軋む音も心なしか寒そうに響く。
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