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    パラサウロロフス

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    #九ボス

     俺は階段を見上げてため息を付いた。用があるのは二階の事務所で、用を済ますにはこの階段を上らなければいけない。

     俺の名前は王庭。年は60を越えたところで、どこにでもいる普通の男、いや普通の爺だ。平凡を極めた両親の間に生まれ、最低限の学業を修め、どこにでもある工場に勤めた。こんな平凡な俺の特徴を、強いて上げるとすれば、大柄なカンフースターにそっくりだったことぐらいだろう。でたらめなカンフーの動きをして、映画の台詞を決めれば、飲みの席は必ず盛り上がった。平凡な俺でもキラリと輝く場があったのだ。
     そのモノマネを誰よりも笑ってくれた子が彼女となり、その彼女と結婚した。慎ましいながら家を建て、子供をもうけ、その子も成長し嫁に行き、孫も生まれた。
     若い時は大柄で済んでいた体型も、今や肥満体型としか言えなくなっていた。もう髪は白髪のほうが多い。老いとはそういうもので、嘆くことでもない。このまま大きな幸運もなく不運もなく、妻とささやかな暮らしをして生を終えるのだとそう思っていた。

     神様はどうやらそうは終わらせてくれないようだ。

     発端は娘婿だった。ある日飲んで帰った途中でぶつかった相手と喧嘩になり、相手に怪我をさせた。その相手が良くなかった。そういうのを生業としているのだろう。手慣れた様子でとんでもない額の治療費を請求しに来た。生まれたばかりの子供を抱いた俺の娘を値踏みするような目で見ながら、何としてでも治療費を払えと言ったらしい。
     子育てを手伝いに行った妻が、娘の様子がおかしいことに気づき、宥めすかして娘の重い口を開かせた。帰ってきて青い顔で俺に相談をしてくれた。聞いて驚いた俺はすぐさま娘婿に電話をし、事の真偽を確かめた。娘婿は事情については言葉を濁し、震える声で大丈夫だと繰り返すばかり。大の男を叱りつけたり慰めたりと手を尽くして聞き出せたのが、自称被害者の要求している金額だけ。それは俺の年収に相当した。言葉に詰まったが、なんとか工面してみるから心配するなと声をかけて俺は電話を切った。勤め先に前借りをお願いできないか考えてため息をつく。
     打つ手がないかと思われたが、被害者が娘婿に妙な要求をしたことでことは動いた。被害者が俺と会いたいという。実際には被害者が会いたいというわけではないのだが、とにかく俺を連れてこいと言っているらしい。どういうことだと疑問に思ったが、俺が出ることでなにか助けになればと娘婿の打診に一も二もなく了承した。

     指定の喫茶店には娘婿と二人で行った。相手も二人だった。一人は被害者で、もう一人は娘婿も知らないという。被害者が猫背で小柄の、常に上目遣いの卑屈な男であるのに対し、もう一人は尊大と傲慢が人間になったようなそんな男だった。ボリュームのある長髪に柄物のシャツ。笑顔を浮かべているが、笑ってない目を隠すようなサングラス。とにかく目を惹きつけられる男だった。
     その男は金貸しだと言った。被害者に治療費を貸したのだと。喫茶店の狭い四人がけに座ると、そう自己紹介した。つきましては貸した金をおたくらが返してください。そう言い出した。額を聞くと、法外な治療費に法外な利子がついて、俺の給料や退職金の前借りでどうこうできる話ではなくなってしまっていた。
     とりあえず注文したホットコーヒーが運ばれてくる。異様な雰囲気にウェイトレスはそそくさと去っていった。娘婿が意を決して、治療費はともかく利子までとは無茶な話だと抗議をする。金貸しの顔から一瞬で笑顔が消え、元はといえばあんたが払わねえからじゃねぇかと凄んだ。こちらの方は怪我した上に治療費がかかるから俺に金を借りることになっちまったんじゃねぇか。お前のせいだろう。金貸しはそう言って被害者の肩を抱く。被害者の顔が恐怖か痛みに強張った。どうやら、この二人も単なる仲間というだけではないらしい。
     娘婿も恐怖に口を噤む。静まり返った店内。他に客の声も聞こえない。並べられたコーヒーを誰も手を付けないので、徐々に冷えていく。金貸しだけがようやく飲み始めた。その動きにつられて、思わず俺は口を開いた。

    「治療費はお支払いしようと思います」

     俺の言葉に娘婿が目を瞠る。形ばかりの止める言葉を呟くのが聞こえた。被害者と金貸しは俺がどう続けるのか注目している。

    「その、利子は払えないし、まとまったお金をお渡しできないかもしれません。でも、必ずお支払いしますので、これ以上は」

     うちの家族に手を出さないでください。その言葉は声になっただろうか。俺が喋るたびに金貸しが身を乗り出してくるので、圧されてどんどん声が小さくなってしまった。

    「あんたが、払ってくれるんだな」

     金貸しが恐ろしいほど俺に顔を近づけて念押しした。ぶるぶると震える俺が目を逸らしながらはいと答えると、すっと身を引いた。突如、けたたましい声がした。金貸しが笑ったのだ。ケヒャヒャヒャヒャと笑って、天を仰いでいる。心底楽しそうだ。金貸しは笑い終わると座っている娘婿の隣に行き、良い父親だと耳元に囁いた。金貸しは立ち上がって、俺を見て上着の懐からなにか取り出した。

    「美しい親子愛を見せてもらったお礼に俺からプレゼントだ」

     取り出したものは何か書いた書類だった。俺に向かって机の上に置いた。

    「あんたがこの条件をのむなら、金は返さなくてもいい」

     金貸しが読めとばかりに揃えた二本の指で書類を軽く叩いた。恐る恐る手に取り、中身を読む。意味はわかるが意図のわからない文章がそこには並んでいた。家族と縁をきれだの、俺のものになれだの、そんな文が並んでいた。

    「もちろん断ってもらってもいい。金を返せばいいだけのはなしだからな」
     
     俺の戸惑いを見透かしたように金貸しはにやりと笑う。

    「ただ、早く決めねぇと、こいつはまた治療費を借りるかもしれないし、そうでなくたって利子は膨らむばかりだ」

     そういうと、金貸しはまた高らかに笑った。笑って、机の上に名刺を投げ捨てると、席を立って出ていった。被害者も慌てて出ていく。残された俺達は何も話すことはなかった。話さなくったって娘婿も俺も誰がどうすべきかわかっていたからだ。言葉にしてしまえば、どちらかの責任になってしまう。こういうことは黙っていたほうがいい。
     どこをどうやって帰ったか定かではないが、娘婿と俺は這々の体でそれぞれの家に帰り着いた。玄関を開けると物音を聞きつけた妻が駆け寄ってきた。俺の疲れた顔を見て、話し合いの結果について尋ねてくる。俺はもしかしたら、少しの間留守にして金を稼ぐ必要があると伝えた。あの金貸しの話にのるわけではないが、万が一を考えてだ。曇る顔の妻にさぁ、メシにしてくれと頼み、俺は居間に向かった。メシの準備が整ったと声をかけられたときも、メシの最中も、その後も、寝て意識を失うまで、俺はぐるぐると金策について考え続けた。

     考え続けた結果、あの時渡された名刺を握りしめ、書いてある連絡先に電話をして今日行くと伝えたのだった。
     そして金貸しの事務所へと続く階段の前にいる。一つため息をついて、建物の中に一歩入った瞬間、声が聞こえた。

    『入れたな』

     横を誰かが通り過ぎる気配がした。繁華街のビルなんてどこもそうだが、人一人分くらいの幅しかない。驚いて周囲を見回したが、誰もいない。気のせいかと階段に向き直ると、階段の中ほどに自分と同じくらいの男の後ろ姿が見えた。同じくらいの白髪頭、似通った肥満体型。違うのは、ちらりとこちらを見た口元に葉巻を咥えていたことぐらいか。いつの間に現れたのかと訝しんで瞬きすれば、もう誰もいなかった。
     あまりのことに一瞬体が強張り呼吸を忘れたが、自分に見間違いだと言い聞かせて深呼吸した。息を整えたあと、もう一度ため息を付くと、俺はのろのろと重い足取りで階段を上がったのだった。
     
     金貸しの事務所は、なんだか眩しいのに暗かった。天井の照明から目を刺すような光が降り、家具に当たって濃い影をつくる。
     中央にソファとテーブル、その向こうに重たそうな木製の両袖机と重役イス。イスには金貸しが、ソファには金貸しに似た風体の男たちが数人ガラ悪く座っている。俺が入ってくるのに気づいたのか、椅子に座っていた金貸しが立ち上がった。ソファに座っていた男たちを手で追い払い、俺にここに座れと示した。金貸しも向かいに座る。追い払われた男たちは金貸しが座るソファの後ろに揃って立った。
     言われた通り、入口に近いソファに腰掛ける。俺が座ったのを見て、金貸しは懐から書類を机に出した。見ると、この前喫茶店で渡された紙と同じ内容だ。後ろで控えている手下に顎をしゃくると、手下が一人ペンを金貸しに渡す。金貸しはペンを威嚇するように机に音を立てて置いた。

    「で、どうするんだ」
    「サインしたら、本当にうちの家族にはこれ以上手をださないんですね…?」 
    「サインしたらな」
    「安全を約束してくれるんですね?」

     苛立った金貸しがテーブルを強く叩いた。俺は思わず小さい悲鳴をあげる。金貸しの目がサングラスの奥で俺を強く睨んだ。

    「サインしますから、退職金は妻に残してもらうわけにはいきませんか?」
     
     金貸しの目が怖くて俺は俯いて身を縮める。それでも勇気を振り絞って、厚かましい願いを口にした。俺の言葉に金貸しは喫茶店の時と同じようにけたたましい笑い声を上げた。

    「いいぞ、俺はそんなものを必要としちゃいない。前のあんたと違って金に執着はしてないんだ」

     前のあんた。金貸しの言葉が気になって顔を上げれば、すぐ目の前に金貸しの顔があった。悲鳴を飲み込む。俺の反応を見て、金貸しは一頻りゲラゲラ笑うと、俺の手の近くにあったペンを取った。契約書をとり、がりがりと何かを書き込む。書き終わったその手元を見れば、「安全は約束する」「退職金はやる」の二文が大きく書き足されていた。それがどこまで効力があるのかは分からないが、俺はもう一枚にも書いてもらえるよう契約書を金貸しの方に向きを変えた。意図を察した金貸しは同じように書くと、その二枚を俺の前に並べ、俺の鼻先にペンを突きつけた。もう、逃げられない。覚悟して俺はペンを手に取った。
     震える手で名前を書こうとする俺を監視するかのように金貸しの視線は俺の手元から離れない。

    「俺の名前を聞いて何か思い出さないのか」

     俺が一枚目の契約書に名前を書き終わったタイミングで金貸しが呟いた。あの喫茶店で名前を言われたはずだが、緊張が度を越していて記憶にない。

    「思い出すって言われても…もしかして前に会ったことが」
    「王九、王九だ。アンタがつけた名前だろう」
     
     金貸しは俺が名前を書き終わるのと同時に契約書をひったくる。記入された俺の名前を紙が破れそうなほどギラギラした目で見つめる。

    「生まれた時からこの名前か」
    「そ…そうだ」

     不思議なことを聞きながら、金貸しはローテーブルを乗り越え、俺に掴みかかってくる。俺の肩を掴んだ金貸しのサングラスの奥の目がギラギラと光り、俺の何かを暴いてやろうと探るような視線を向けてくる。
     
    「俺は記憶を取り戻したのに、あんたは一人のうのうと別の人生を歩んでる」
     
     肩を掴んだ手に力が籠もる。痛い。徐々に徐々にその手が俺の首に近づいていく。ソファに押し付けられ、ぎゅうぎゅうと首を絞められる。九哥まだ殺しちゃだめですよ、手下のうちの誰かが止める声がした。それを聞きながら、俺の眼の前は暗くなった。

     俺は暗闇の中で目を覚ました。熱くもなく寒くもないので、ここがどこなのかというヒントも少ない。俺の記憶は王九とかいう金貸しに首を絞められて気を失ったところまである。いくら目を凝らしても何も見えないこの状況に、俺はあのまま首を締められて死んだのだと理解した。あの契約書の俺のものになれという文言は、やはり殺して臓器を売り払ってやるということだったのだ。
     
    「俺とアンタはそんなに似てるかね」

     もう家族とは会えないのかと落胆する俺の耳に声が聞こえた。驚いてあたりを見回せば正面に椅子があり、男が座っていた。先程まで何もなかった、何も見えなかった筈なのにと俺はさらに驚いて相手を見る。
     照明がないのに、眼の前の男のことが俺の目にはなぜかはっきり見えた。黒檀か何かでできた黒光りする大きな椅子。背凭れには見事な透かし彫りで模様が彫ってある。それにどっかりと座っている男。衿元に茶色のもこもこがついたジャンパーをきて、その下に縞の服。胸元には翡翠のペンダントネックレスをして、右の手首には数珠。大柄というには肉のつきすぎた体は、本人が尋ねた通り確かに俺に似ていた。頭髪の白くなり具合もそうだ。違うのは恐ろしいほど威厳があることで、老人がよく着るありふれた服装でなければ、俺はこの男を亡者の罪を裁く閻羅王だと思って平伏しただろう。
     
    「アンタ、さっき会った人じゃ」

     落ち着いて見れば、階段で見かけた男だと気づいて俺は三度驚く。男は俺をじろりと見る。

    「あの時は助かった。どうやって入るものか困ってたんだ」

     俺と目が会うと、にこりと男は笑った。顔のパーツはどれも丸く、人好きのする笑みだが、どうしても緊張するのはなぜだろうか。声だって特段低いというわけではない。どちらかと言うとひょうきんな爺さんといった高い声だ。しかし、ただの好々爺ではあるまいという雰囲気がビンビンとする。

    「あれは、俺を随分と憎んでいるようだ」

     葉巻を一口吸うと、男は口を開いた。葉巻に火をつけた動きは見えなかった筈なのに、火のついた葉巻は男の手にあった。さっきまでは気づかなかったが、今は煙も立ち上っている。
     男は俺から視線を外し、ため息とも煙ともわからぬものをふぅうと重たく吐き出す。

    「俺はあれになんでも与えてやった。くいもんも仕事も金も、最後は命までくれてやったのにまだ足りんらしい。俺だと思うものを見つけては追い回す」

     尊大な態度で苛立たしげに言うと、男は舌打ちをした。
     命も、ということはこの男も死んでいるのか。やはりここは死後の世界らしい。階段で見かけた男と会えたことで、もしかして監禁する専用の部屋があり、そこに閉じ込められていたのではと俺は考えていたが、一縷の望みも消えた。

    「あれがなんどか転生し、虫や木やそんなもんになっても、だ。この俺は転生したことなんぞない、だからすべて的はずれなんだが、あいつはどうも自信満々でな、俺が自分と同じものに転生したと思い込んでる。木になったなら、木。虫になったなら、虫。自分がそうだと思えばすべて俺に見えるらしい」

     そのたびに“俺”を殺す。そう男は言った。

    「一番笑ったのは、そうさな、鳩だったときか。急に群れで一番でかい鳩を追いかけ回してな、突っつき始めた時は心底笑わせてもらった。あいつは俺のことを体格でしか認識してないのか、てな」

     思い出してまた笑いが込み上げてきたのか、男は葉巻を持ってない手で顔を覆うと肩を震わせた。転生だのなんだの到底信じられない話をする男に俺は呆気にとられていたが、なぜだか嘘だとは思えなかった。男の話が嘘ではないとすると、この男もずっと王九のことを監視というか、見続けているということになる。俺の目にはなんだか、この男とあの王九の間にはそれだけのなにかがあるように思えたのだ。

    「俺もあいつを付け回してんじゃないかって?」

     男は顔を塞いでいた手をどけ、じろりと俺を見て俺の考えを見透かしたようなことを言う。

    「俺が見たいわけじゃない。なんだか知らんがお節介を焼きたがるやつがいて、そいつがわざわざ知らせに来るんだ」

     そう言い訳すると、また男は葉巻の煙を吐き出した。

    「そこで、今回だ。今回もあいつは自分が人間に生まれたから俺も同じように人間に生まれたと思ってやがる」

     男は苦虫を噛み潰したような顔でそう言う。

    「つまり、人間違いということですか」

     俺がようやく口を挟むと、アンタにとっては迷惑なことにな、と男は呟いた。
     人間違いで殺されたということか。俺は怒ればいいのか悲しめばいいのかわからずただただ途方に暮れた。もう終わってしまったのだから途方に暮れるというのはおかしいのかも知れない。なんだかぼんやりとした絶望が胸のうちに下りてきて、俺はどうしていいかわからずただただ俯いた。

    「まだ、死んでないぞ」

     男は信じられないことを言った。やはり、この男には俺の考えは筒抜けらしい。聞こえた言葉が信じられず俺は男の顔を見た。男は平然と悪びれもせず、気絶しとるだけだ、と伝えた。驚きすぎて男が教えてくれなかったことを責めたかったが俺の口からはあ、だの、え、だのそんなうめき声が漏れるだけだった。男は「聞かんかっただろう」と呟いた。考えが読まれている。

    「さっきも言ったが、俺がいるところには随分とお節介なやつがいて、アレの情報をいちいち教えに来る。今回など、アンタが人間違いで殺されかねんと騒いで俺をここまで追い出したんだ。」

     鳩の時は見殺しにしたくせにな。男は無表情に吐き捨てる。つまらなさそうに翡翠のペンダントトップを葉巻を持ってない手で弄ぶ。人と鳥に違いがあるなどあまりにもくだらないという男の口振りには、到底鳥への慈愛があるようには見えず、人の命に価値を見出していないだけのようだった。

    「あいつの事務所になぜか入れなくて困ってたが、アンタの体に入る形でここまで来れた、そういうわけだ」
    「俺の、体ですか…?」

     入れたことが嬉しかったのか、葉巻を挟んだ指で俺を指す。俺に愛嬌のある笑顔を向けるが、素直に受け取れない。とんでもない悪事に加担させられた気持ちだ。

    「それで、だ。アンタがあれから逃げるには、やってもらわんといかんことがある」

     男は仕切り直しと言うように俺に向き直り背筋を正す。膝に置かれた手には先までぴしりと気迫が満ちていて、とんでもない迫力がある。大抵のことは言われるがままになってしまいそうである。

    「あれを殺せ」
    「できるわけないでしょう!」

     言われたのは並大抵のことではなかったので、俺は思わず大声を上げた。

    「じゃあ、このままむざむざ殺されるのを待つか?アンタだってアイツが簡単に心変わりするとは思わんだろう?」
    「そうは言っても…」

     一般人として過ごしてきた俺に人を殺すという行為はハードルが高すぎる。自分の命と天秤にかけても、だ。言い淀む俺を男はじろりと見た。決して睨まれているわけではない。だが、絶対に逃げられないという予感がした。

    「アンタ、王庭とか言ったな」

     男はふっと視線を緩めて俺の名を呼んだ。緊張から放たれて俺は思わず行儀よく返事をした。男は姿勢を崩し、椅子の背に凭れた。その手には何やら紙がある。俺が書いたあの契約書だ。

    「よくも、まぁ、こんな、契約書にサインしたもんだ」

     男は目を眇めつつ契約書を舐めるように読み込んでいる。男は、俺のものになれ、家族とは縁を切れ、などところどころ書類の中の文章を呟く。

    「あいも変わらず雑なやつだ。こんないくらでも解釈のしようがある文なんぞ、契約書として何の意味もない!」

     男は契約書の中身にひどく憤慨している。男が吹かす葉巻の煙の量が多くなっていく。その煙の量がこの男の怒りの程度を表しているようで、俺は震えた。

    「だが、しかし、逆を言えば、こちらがつけ入る隙もあるということだ」

     契約書を読み終えた男は用無しとばかりに紙から手を離した。契約書ははらりと舞って、男の足元に落ちる寸前で溶けるように消えた。

    「そういえば、まだ名乗ってなかったな。アイツは俺の事を大老闆と呼んでいた。そう呼んでもらっても構わんし、そうさな、王偉とか張偉とか、好きな名前で読んでもらって構わん」

     あからさまに偽名と分かるほどありふれた名前を名乗る男。男が急に怒りを治めたことに度肝を抜かれて俺は何も言えない。

    「アンタの気持ちが決まるまで、一旦はこの契約書を盾に時間を稼ぐことにしようじゃないか」

     俺を安心させるような柔らかい表情で男、いや
    大老闆が俺に提案する。言われた俺は、まるで大老闆が天から来た助けのように見えた。

    「ただ、忘れるなよ。アイツから逃れるには殺すしか方法がないということを」

     浮かれた俺に水を差すように、大老闆は俺に言い含めた。

     俺の、と大老闆が口を開く。
     俺の反省点、俺が反省すべき点、そんなものがもしもあるとすれば、それは俺があれを同類だったと思ったことだ。あれも、金を愛し力を振り回し知略を張り巡らす人間だと思ったことが、何よりも間違いだったのだ。大老闆は一息にそう言うと葉巻を咥えた。浅く吸い込みすぐに煙を吐き出す。ゆらゆらと煙は闇に消えていく。消えるまでに白く立ち昇る煙を大老闆は睨むように見つめている。
     あれは俺が拾ったんだ。拾った時点で、俺には到底かなわないが、そこらの大人には負けないくらい強かった。それでもやせっぽちだから食わしてやった。暴れることを楽しむやつで、怖じけるということを知らないやつだったからいい鉄砲玉になると思った。あれ目当てに若いのが集まりだしたのも良かった。いい拾い物をしたと思った。だからずっと傍においたし、金もかけた。大老闆は今度はゆっくりと葉巻の煙を吸い込んだ。
     俺は見せてやったのに一番近くで。俺がどうやってバカを罠にはめるのか、どうやって邪魔な人間を消すか、どうやって欲しいものを手に入れるか。大老闆は長く煙を吐く。その煙の色がなんだか変わってきたような気がした。端がチロチロとオレンジ色をしているようだ。じっくりと見てそれが火だと気づいた。大老闆が吐く煙が火に飲まれている。紙が燃えるようにちろちろと煌めいては闇に溶けていく。
     売女が体の売り方を教えるように、乞食が物乞いの仕方を教えるように、肉を食う獣が狩りを教えるように、俺が教えてやったんだ。俺の殺し方を。大老闆が忌々しげに唸る。その唸り声にも火がついている。吐息はもう火炎で、赤色が空中でうねっては細かく爆ぜている。
     俺は全部見せてやったのに。俺が老いる様も俺が弱るところも全て見せてやった。そうして俺は命をくれてやったのにあれは満足せず俺を追いかけ回す。ああもう大老闆の穴という穴から炎が出る。吐く息がそうなのはもちろんだが、溶岩のような熱いドロリとしたものが目や口から落ちる。
     そうだ俺はすべてをくれてやった。地位も金もすべて。すべて、といったその時にはもう大老闆の体はほとんど火にまとわりつかれていた。
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