mbr後彼氏にばれる前の一人で抱えてるとこ 朝のチャイムが鳴る直前、桜はいつものように教室のドアを開けた。
「いつも通り」のつもりなのは桜だけかもしれない。足取りは重く、身体は昨日の出来事のせいでひどく痛む。
「桜さん、おはようございます!」
楡井の元気な声が響き、それに続いて一緒に居た桐生、柘浦が「おはよう」と声をかける。視線を巡らせた先に、蘇枋の柔らかな笑みがあった。
「桜君、おはよう」
その声を聞いた瞬間、自分がひどく汚れた存在のように思えて、呼吸気管がぎゅっと締まる。ほんの一瞬、目を細めた。
──大丈夫だ、何もなかった。何もない。
そうやって自分をごまかす。誰にも言えるはずがない。言ったところで時間が戻るわけでも、されたことがなくなるわけでもない。あのおぞましい感触も、あの耳障りな声も、どれ一つとして消えやしない。
うるさい心臓を落ち着けようとゆっくりと息を吐き出し、「はよ」と短い返事をする。その輪の空いている席に座ろうとした瞬間、横からふわりと伸びてきた手がそっと頬に触れる。
「……桜君、何かあった?」
蘇枋の声。優しく、いつも通りで、心配してくれる声だった。けれど、その手が昨夜の手と重なった。
肌が粟立つような錯覚とともに、吐き気にも似た嫌悪感が一気に込み上げた。
「ッ……!!」
パァン。
思い切り払った。反射的に腕が動いていた。手のひらが蘇枋の手の甲を打つ音が、教室の空気を裂いた。教室全体の会話が止まり、空気が一瞬だけ凍った。
「……っ」
蘇枋の目が僅かに見開かれ、その表情を見て桜は息を飲んだ。
やってしまった。違う、これは蘇枋だ。傷付けた。
しかし心が付いていかず、手の温度が、皮膚を這った感覚が、あの男のものと重なっては吐き気を誘い、口がうまく動かない。。
「っわ、悪い……!」
声が掠れていた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、ただ謝罪の言葉を口にして桜は逃げるように教室を飛び出した。行き先も考えず廊下を走る。ただ教室から、あの場から離れたかった。蘇枋の表情が頭から離れない。蘇枋の手だったのに、あんなに好きな恋人だったはずなのに。
──なんで、あいつの手を思い出した。
ぐっと奥歯を噛み締め、トイレの個室に滑り込む。ガチャッと勢いよく鍵をかけ、便器の前に膝をつく。込み上げてくる感覚に逆らわず胃の中のものを吐き出した。今朝は胃の中に何もないはずなのに、嗚咽と一緒に液体だけが込み上げ喉を焼く。吐き出すたび、頭の中に蘇枋の声と、あの不快な男の重い体温が交錯して、もうなにもかもがぐちゃぐちゃだ。
目の奥が痛いほど張り詰めているのに、涙は一滴も出なかった。泣きたいわけではないが、気持ち悪さが先に立って泣くという反応ができずにいる。
どこに自分の感情があるのか、まるで分からなかった。怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか。そのどれもが曖昧ではっきりしないまま、胸の奥が張り裂けそうだ。起きたことに対して現実だと分かっているのに、心が追い付いてこない。まるで、自分の心だけが遅れて再生されている映像みたいで、何を感じればいいのかも分からなかった。
しばらくして吐ききった後、桜は冷たい床に手をついたまま、ゆっくりと頭を垂れて膝の間に沈めた。震える指先が、蘇枋の手の感触を思い出していた。なのに、その手を、自分は――。
悔しくて、情けなくて、それでも涙は出なかった。