薔薇 薄く平たく、指先に乗るほど小さなカードの中にデータを保存することの利便性は理解できる。ただし、そのカードを薔薇の形に誂えた樹脂の中に収納することの意義については、甚だ疑問だ。
その上、重要なデータを隠した薔薇は、本物の花の中に隠してあるという。大事なものなら手元に置いておけばいいのに、と呆れる。生花の鮮度を保つため低く設定された室温に無防備に晒された頬が冷え、檸檬は身震いをする。
件の薔薇は赤い花びらで、萼の付近にカードが仕込まれているため、触ると硬い感触があるらしい。薔薇は全てラベル付きの冷蔵庫に収納されており、D59と付番された場所にある、と蜜柑が言っていた気がする。どうせ先頭に立って冷蔵庫を探すのは蜜柑なので、話半分でしか聞いていない。
あったぞ、という身振りで蜜柑が引き戸を示す。懐中電灯を蜜柑から受け取り、手元に向けてやる。薄暗い中で扉が大きく開かれ、同時に、勢いよく蜜柑が背中から倒れ込んできた。堪えきれず体勢を崩しながら、咄嗟に背後にあった冷蔵庫に手を掛けるが、これが失策だった。蜜柑ともども倒れ、背後の冷蔵庫は扉を大きく開けながら花を撒き散らす。
「おい、蜜柑、しっかりしてくれよ」
「違う、こいつが」
蜜柑の肩越しに覗き込むと、暗い中で誰かが倒れているのが見える。懐中電灯で照らし出すと、眩しげに顰めたその顔には見覚えがあった。
「あ、おまえ。てんとう虫君じゃねえか」
確か七尾という名前だったか。苦々しい思い出に、口元が歪む。七尾は手で懐中電灯の光を遮るようにして、眩しげに目を細める。
「その節は、どうも。助かりました」
「何が助かっただよ。俺たちは困らされてたんだよ」
「いえ、今です、今助けられたところで。冷蔵庫に閉じ込められて」
七尾の言葉を聞き流しながら、蜜柑の脇の下から手を入れて立ち上がらせる。蜜柑も怪訝な顔をして七尾がふらふらと立ち上がるのを見つめている。なんでこんなところに、という疑問以上に、またこいつが目の前にいることで発生する、仕事への支障を想定してしまう。
「一応、聞いておくんだが」と蜜柑が口火を切る。
「おまえが依頼された仕事は?」
「信じられないかもしれないですけど、薔薇の花をひと束、この冷蔵庫に届けるだけの仕事です」
「おまえごと、冷蔵庫に?」
まさか、という風に七尾は首を振る。
「僕が花をバケツに入れた後に、扉を閉められちゃいまして。この扉、ちょっとお尻とかで押したら、閉まっちゃうんですね」
ひとまず、仕事が競合しているわけではない、とはっきりしたのはありがたい。とはいえ、七尾のお陰で冷蔵庫二つ分の花が周囲に撒き散らされている現状も事実だ。
「俺たちはな、この冷蔵庫の薔薇を一本持ち帰るのが仕事なんだよ」
七尾は納得したように周囲を見回し、僕のせいですね、とすまなそうな顔を浮かべる。
「手伝えよ」
檸檬は蜜柑の肩に腕をのせ、なあ、と蜜柑の方を見やる。
「おまえの仕事は花をバケツに入れることだろう?このままじゃ依頼失敗ってことだ」
蜜柑の追い打ちが効いたらしく、三人で揃って淡々と花の回収を始める。
七尾は懐中電灯もなしに、暗がりで手探りで花をバケツに戻していく。檸檬も蜜柑も、懐中電灯を貸す気は毛頭ない。さっさと散らばった花から目当ての一本を見つけ出し、七尾のことを置いて帰るつもりだったのに、なかなか見つからない。当てつけに、チェックの終わった花を七尾の前にもう一度ばら撒いてもよかったのだが、この光量の乏しい中でそんなことをすれば自分たちの仕事もまた難航するのは目に見えていたので、大人しく花をもとのバケツに戻していく。
結局、蜜柑が拾い上げた最後の一本が目当ての薔薇だった。
「おまえに関わるとロクなことがない。これで二度目だぞ」
蜜柑のうんざりした声に、七尾は「そういうことを言うと、三度目が起こるもんですよ」
と答える。
悪びれていないのか、根性がすわっているのか、どちらにしても、疲れ果てた蜜柑にかける言葉ではない。とはいえ、七尾の口調にも疲労が滲んでおり、今しがたまで同じ作業をしていただけに、同情してしまいそうになる。
「じゃあな、二度と顔見せんなよ。好きか嫌いかでいえば、ちょっと関わりたくない部類の人間なんだからな」
二人で冷蔵庫を後にする。七尾の帰り道が同じ方向じゃないといいな、と考えながら、依頼人へ薔薇を届けるために、駐車してある車に向かう。