猿の過去暖かい日差しの入る窓際、大好きな母の膝の上でゆっくりと揺られる時間。この短い時間が大好きだった。
「湊人、ねぇ湊人。大好きよ。今日もあなたが生きていてくれて私は嬉しいわ」
そんなことをうわ言のように呟きながら、母は丁寧に湊人の髪を撫でる。
「俺も母さんのこと好きだよ」
そう答えた子供へ母親は何も言葉を返さない。
ただ名前と、大好きということだけを呟いてゆらゆらと揺れながら髪を撫でるだけだ。
それでも良かった、いつもは目もくれず布団に入り寝てしまう母がたまに見せてくれるこの一面が、子供の湊人にとっては堪らなく好きだった。
「…じゃあ母さんはもう行かなきゃだから」
そう言って膝から湊人を押しのけるとさっさと鞄を持って玄関へと歩いていく。
床に落ちているガス滞納の請求書に足を取られながら、湊人は母の後ろを走って着いていき
「ね、ねぇ、次はいつ帰ってくるの?明日?それとも今日の夜帰ってくる?明日の朝?ねぇ、ねぇ母さ」
しつこく服を掴み聞いてくる子供に母親は容赦なく平手を打つ。
打たれた頬がジンジンと熱い、叩かれた驚きのあまり頬に手を添え恐る恐る見上げると、母は先程とは打って変わって冷ややかな目をしていた。
「母さんしつこいの嫌いだな?静かな湊人が好きよ。ほら湊人、口を閉じていい子にしててご覧?そしたら母さん早く帰ってくるから」
返事は?と言いながら反対の頬を平手で打つ。
「…はい」
「うん、いい子ね。静かに待ってたら母さん帰ってくるからね、じゃあ留守番よろしく」
ガチャンと無常に閉められた扉と鍵、遠ざかっていくヒールの音。シンと静かになった部屋の中、ジンジンと痛む両頬を抑えてただ静かに「早く帰ってきてね」と呟いた。
物心ついた頃から父親は存在しなかった。
いや、存在しなかったと言うよりも母親が結婚していなかったのである。
母親にとって湊人の存在は、恋人である父親と関係を続けるための口実ただそれだけだった。
そこに母親としての愛情はなく、湊人が生きていれば恋人と繋がっていられるという目線でしか見ていなかった。幼少期に母の腕に抱かれている時も、母は湊人ではなく恋人のことしか考えていなかった。自分に向けられた愛情がないのは幼いながらに理解していたが、それでも母のことが大好きという気持ちを捨てきれなかったのである。
誰もいなくなったリビングへと戻る。
部屋の中に大量にある電気や水、ガスの請求書。絵本やおもちゃはほとんど無く、ガスは先日止まってしまったようで冷水しか出てこない。冷蔵庫の中は消費期限が先月の生の肉や生野菜、食べ残しのパンしかほとんど入っていない。自分の服は下着ぐらいしかなく、服は母か母の恋人のTシャツを一枚羽織らされた状態がいつもだった。母の服よりも父である恋人の服を着ている時の方が母が膝に乗せてくれる頻度が上がるので帰ってくるだろうか、と思う日は着るようにしている。それに気まぐれに洗濯もしてくれるので幾分か得だ。
本当は母親と沢山話がしたい、ずっと抱きしめられて、頭を撫でて欲しい。一緒にご飯が食べたい、お風呂も、寝るのも本当は一緒がいい。
痛いのは嫌いだ、でも平手を打つ時だけ母は顔を見てくれる。…だが先程のように我儘を言えば母はただ一言冷徹に「嫌い」と言い放つのだ。そう言われた瞬間は腹の中に氷でも詰められたような感覚に陥る、どうか母親からは嫌われたくないと引き止めたいのを我慢して、喋りたい口を噤むのだ。
日向にクッションを引きずって来ると、そこに丸くなる。暖かいが、何か足りない。
もしこうやって日向に母と二人で昼寝でも出来たら、それはなんて幸せだろうか。
「寒い…」
小さな体をさらに小さく丸めて湊人はそう呟いた。