キスしないと出られない部屋「こんなことは初めてだ、聞いたこともない」
長椅子に座る私の目の前で、扉に貼られた張り紙を読み終わったハンジ団長は額に手をあて、大きくため息をついていた。
――キスしないと出られない部屋――
「あぁ、起きた?」
長椅子から起き上がり、じいっとそこにいた人物―――ハンジ団長の姿を見つめていれば、動く気配に気づいたのか私に声をかけてくれた。
「えっと、ここは…」
頭が酷く混乱している。先ほどまで私は、訓練で疲れ果てて宿舎のベッドで寝ていたはずだった。
目を開ければ、憧れのハンジ団長が団服姿で目の前にいて、その上私に声をかけてくれている。私も寝巻きに着替えていたはずが、ハンジ団長と同じく団服を身につけていた。
そうか、夢か。これは夢なんだ。さっき眠りに就く前に「明日はハンジ団長のお姿だけでも見られますように」と祈りながら眠りについたから、きっと半分願いが叶ってハンジ団長の夢を見られているのだ。なんてラッキーなんだろう。
「ちょっとこっちに来てもらってもいいかい」
「あ、はい」
ハンジ団長に手招きされて、隣に立てば「おかしなことになっててね」と扉に貼り付けられた一枚の紙を指差した。
その紙には、こう書いてあった。
“この部屋から出るには、部屋の中にいる人間とキスをするしかありません。そうすれば、扉の鍵は開かれます“
“そうしてこの部屋を出れば、ここで起こったすべてのことは、誰の記憶にも残りません“
「さっきから何回か扉を開けようとしているんだけど、うんともすんとも言わなくて」
私が文章を読み終わったのを確認すると、ハンジ団長は扉を押したり引いたりしてみせてくれたが、それはびくともしなかった。
「うーん。部屋にいる人間って、どう考えても私たちだけだよね」
「そう…ですね」
四方を真っ白な壁で囲まれたこの部屋は、広さとしては六畳ほど。真ん中にさっきまで私が横になっていた長椅子以外は何も置かれていない。
「とりあえず、落ち着くために座ろうか」
「あ、はい」
椅子まではほんの少しの距離ではあったが、背の高いハンジ団長がエスコートするように背中を押してくれた。
さっきから部屋に二人きりなだけでも信じられないというのに、体に触れられてしまった。席に着いた瞬間直ぐに離れてしまったが、それでも心臓は早鐘を打ち続けていた。
私のどきどきなどお構いなしに、二人並んで席についてからハンジ団長はしっかりと目を見て自己紹介をしてくれた。
次に驚いたことに、私が自分から名乗る前に所属する隊と名前まで言い当ててくれたのだ。嘘みたい。私みたいな新兵のことまで覚えていてくださるなんて。
まるで、夢のようだと思った。
あぁそうか。これは夢なんだった。
「それにしても、変なことになっちゃったね」
「そう、ですね」
「キスしたら出られるって…俄には信じがたいが」
「……」
「してみても、いいかな」
「……っ」
ハンジ団長は、まるで軽く握手を交わそうか、くらいの気軽さで言葉を口にした。
私はそれが信じられなくて、思わず目を見開きハンジ団長の顔を見る。
「……なんてね。そんなにキスって簡単にできるものじゃないよね」
ごめんねと、ハンジ団長は私から視線を逸らした。
「私が相手で不満もあると思うんだけど」
「そんなこと、ないです…っ」
私は思わず大きな声で言い返してしまった。
「おや、そう?」
「あの、違うんです…不満とかじゃなくて…その、恥ずかしい話なんですけど…」
「……ゆっくりで、いいよ」
落ち着いて、と、ハンジ団長はさきほどエスコートしてくれた時と同じように、私の腰に手をあててくれ、少しだけ優しくさすってくれた。
「……っ、あの、その…恥ずかしい話、私、キスというのをしたことが、なくて…」
自分で口にしたことではあったけど、あまりに恥ずかしくて両手で顔を覆いながら俯いてそう伝えれば、ハンジ団長は「そう、だったんだね」とそのことを笑うこともなく、呆れることもなく背中をさすり続けてくれていた。
「だったら、余計に私とじゃ申し訳ないな…」
ハンジ団長は私から手を離し、一旦席を立とうとした。
その温もりが離れていくのが寂しくて、私は思わず縋るようにハンジ団長のジャケットを掴んだ。
「でも、あのっ、好きだったんです!」
思わず言葉を吐き出してしまう。こんな時に言う言葉じゃ、ない。―――全くもって相応しくない。
それでも。気がついたらその言葉は喉から滑り落ちるように、自分の意思とは関係なしにするりと吐き出された。
「好き…?」
「あの、その…」
ハンジ団長も目に見えて困っている。わかっているけど、口にした言葉を否定する気はない。だってそれは、心からの気持ちで。ずっとずっと、秘めてきた想いで。
「私のことを、好いていてくれたの?」
ハンジ団長はもう一度椅子に腰を下ろして、今度は優しく頭を撫でてくれた。
「は…い」
ハンジ団長を見上げる。目が合う。なんて綺麗な瞳なんだろうか。その瞳の中に、私だけが写っている。嘘みたいな世界。
「ありがとう」
「……はい」
「もったいないな…この部屋を出たら、せっかくの告白も忘れてしまうのか」
「あの、でも私の気持ちは、ずっと変わらない、ので…」
「ふふっ、嬉しいな。できれば覚えていたいけど」
ハンジ団長は唇に笑みを乗せ、そうして震える私の手をそっと握ってくれた。
「えっと…そのお気持ちだけで、私は報われてる、ので…」
「ありがとう。じゃあ、いいかい」
ハンジ団長は手を握ったまま、私に顔を近づけてくる。
「は、い」
ゆっくりと目を閉じる。すぐに、柔らかな感触が自分の唇に重なったのがわかった。その瞬間に、何処からともなく「カチリ」と音がした。
ミッションコンプリート。これでもう部屋から出られるはずだ。
もうお終い。あとは扉から出ていくだけ。そう思ってゆっくり目を開けたが、ハンジ団長は私から体を離す様子は微塵もなかった。
目の前には、瞼を伏せて私に口付けるハンジ団長の顔。
聞こえて、なかったのかな。
私は自分から動くことは出来ず、ただ目の前の美しい顔をじっと見つめていた。
近くで見ると思った以上に長いまつ毛。その姿は、どうしようもなく美しくて。
ハンジ団長は手を握ったまま、長い時間唇を重ねてくれていた。
最後に、ハンジ団長は私の唇をはむっと彼女の唇で挟み込み、そうして優しく微笑んで「開いたみたいだね」と言った。どうやらハンジ団長にも、鍵が開く音は聞こえていたようだ。
唇は離れていったけど、手は重なったまま。
「……」
「……」
「もう…出られますね」
沈黙に耐えられなくなったのは、私の方。思わず言葉を口にすれば、それを合図にハンジ団長はパッと手を離し「そうだね、いこう」と扉に向かって歩いて行った。
二人並んで、扉の前に立つ。
「覚えてないかもしれないけど」
扉の取手を持った瞬間、ハンジ団長は私の目を見ていってくれた。
「本当に、嬉しかったんだ」
じゃあ、またねと、彼女は振り返らずにその扉から先に出ていこうとした。
―――あぁ。夢が終わってしまう。
「あの…ハンジ、団長っ」
一歩足を扉の外に出した彼女の袖を、強く掴んだ。
これは、夢。夢なのであれば、もう少し都合の良い展開を望んでもいいのではないか。どうせ、なかったことになってしまうのであれば…。
「どうした?」
ハンジ団長は、振り返って優しく問いかけてくれる。やっぱり、とてもお優しい。想像していたよりも、ずっと。
夢だから―――? ううん。もうそんなことは、どうでもいい。
「あの、嘘でもいいんです。私のこと、好きだって言ってくれせんか」
団服を掴んだまま、眉根を寄せ、泣きそうになるのを堪えながらそう言った。
バカなことを言っているのはわかっている。けれど、まもなく覚めてしまう夢なのであれば―――。
「……好きだよ。私のことを好きになってくれて、ありがとう」
ハンジ団長は私の頭を撫でて、そうして耳元でそう囁いてくれた。
そうして最後に、もう一度触れるだけの口付けを、くれた。
「本当に、覚えておけたらいいのにな」
じゃあねと、ハンジ団長は今度は振り向くことなく、扉から出ていった。
私もハンジ団長に続く。―――続こうとした。
でも、できなかった。この部屋で起こったことを、ハンジ団長がくれた言葉を、決して忘れたくなくて。
それでも、前に進まなければ。この部屋にずっといることはできない。
意を決して、足を踏み出す。
―――その優しさも、温もりも、唇の温かさも、全部。
私は何があっても絶対に、忘れません。覚えています。
ずっとずっと、大好きです。一時の感情なんかじゃ決してありません。
友人にも散々否定され続けています。「憧れてるだけでしょ」「直ぐに別の男の人を好きになるよ」など、軽い気持ちで話を流される毎日です。
だからハンジ団長自身が私の気持ちを否定しないでくれてどれだけ嬉しかったか。私はハンジ団長が気持ちを汲み取ってくださった事実だけで、生きていけます。
だから今日のこのことがなかったことになったとしても、私には何の問題もありません。ただ変わらない日々が続いていくだけだとしても。それでもずっと、変わらずあなたのことを想い続けています。
心の中でそう、唱えながら、私は扉をくぐった。
<キスしないと出られない部屋/了>