キスは毒の味 夏石のアルバイト先に、アツアツカップルが入店してきた。
ここ、カフェ『Louis and the Angels』は老夫妻が経営している。住宅街の奥というわかりづらい立地にあり、流行る事のない、いわば「知る人ぞ知るお店」だ。
今日も、常連客が3、4人ポツポツと訪れ、そのまま閉店するだろうと思われていた。
しかし今日は違った。新客だ。4ヶ月ぶりの新しいお客さんである。
「あらまぁ!見ない顔ね!」
オーナー夫人が声のトーンをあげる。
こんな場所でカフェをやっているのだ。オーナー夫妻は、このカフェが流行る事を望まないだろうと思っていたが……それは間違いなようだ。
オーナー夫人は、新しいお客さんが来店するたびにパッと顔を明るくする。オーナーも表情は変えないものの、右足のつま先をあげ、トントン、と音を鳴らしている。オーナーの機嫌がいい時にする仕草の一つだ。
「ようこそいらっしゃいました。二名様でよろしいですか?」
夏石の先輩、神尾が対応にあたり、席に案内する。
「たっちゃん。コーヒーのいい匂いがするよ」
「ふうちゃん。そうだね、ここならゆっくりできそうだよ」
男女客はぎゅっとお互いの手を握る。夏石は知っている。あれは恋人繋ぎ……強く想いあっている者同士がする手の繋ぎ方だ。きっとこの2人は恋仲なのだろう。
「本物だ……」
夏石は思わず呟く。
夏石の周りでは恋愛イベントが起こり得ない。
「そよってさ、なんか不思議なパワーを放っているのよ。名付けて『恋愛封じパワー』?そよの近くにいると、皆、恋愛する気をなくしちゃうのよね」
幼馴染の言葉を思い出す。最初は幼馴染の冗談だと思っていたが……16年生きてきた中で、自分含め、周りで恋愛イベントが発生した話を一切聞かないあたり、本当ではないかと思い始めた。
友達が少ない事も一端なのだろうが……恋愛とは、自分にとって物語の世界の出来事だ。そのくらい遠いもの。幼馴染が笑って言う「アンタもアンタのとなりにいる私も、一生結婚できないかもね!」
神尾が、カップル客を窓側の席に案内する。窓から見えるのは、隣の家の植木くらいのものだが、カップル客は気に入ったようだ。2人横に並んで座る……席はそこと向いで4つあるのに、彼らは向き合う形にせず、隣り合うように座った……カップルとはこういうものなのだろうか?
見ると神尾の手が震えていた。表情はここからでは確認できなかった。
男性はコーヒーゼリーを、女性はパフェを注文する。
コーヒーゼリーは、実際にオーナーが入れたコーヒーで作ってある。苦味とコクが強く砂糖は控えめ。本格的な「大人の味」だ。するり、と喉を通る時に鼻に抜けるコーヒーの風味は格別。
パフェは、注文が入ってからオーナー夫人が盛り付けている。フルーツは時期によって違うのはだが、今回はイチゴだ。バニラアイスの周りにこれでもかとイチゴを乗せ、下には生クリーム。最下層にはしょっぱめのコーンフレークが入っており、飽きがこないように工夫してある。
「サービスしましょうね〜」
夫人はそう言うとチョコの飾りをパラパラとバニラアイスに降りかけた。どこのカフェのパフェよりも豪華で満足な品だ。
「ご注文の品です。どうぞお召し上がりください。小皿も用意しましたのでパフェが食べづらい時はご利用ください」
商品を目の前に持っていくと、男女の顔はパァッと明るくなった。目を輝かせている姿はまるで子供である。
「凄いよ!大きなパフェ!子供の時に夢見たやつだ!」
「よかったねふうちゃん。ずっと言ってたもんね。大きなパフェが食べたいって。僕のコーヒーゼリーも見て!ミントの葉が乗っていてクールだよ」
「たっちゃんみたいだね!」
ふふふと笑い合うカップル。その2人がテーブルの下で、ぎゅっと手を握り合っているのを、夏石は見ていた。なんとも言い難い気持ちが襲いくる。
男女は和気藹々と会話しながらデザートを口に運んでいく。
「あのお二方仲良いですね。見ました?テーブルの下で手繋いでましたよ」
夏石はヒソヒソとお膳拭きをする神尾に話しかける。
「人前でいちゃいちゃすんのやめてくれないかな。うざ……」
神尾は、カップル客に対して不満があるようで頬を膨らませた。
「恥ずかしいとか思わないのかな?恋は盲目っていうの?それって、相手の粗だけでなく周囲の目すら見えなくなっちゃうものなの?」
「言い過ぎですし……嫉妬ですか」
「そんなわけないでしょ」
神尾の苛立ちはカップルには伝わっていない。神尾はカップルの方を見向きもせず、お膳拭きを続けていた。
夏石はカップルの事が気になって仕方がない。お皿拭きをしつつ、2人を観察する。
事件は起きた。
「イチゴジャムが入っている。甘くて美味しい」
「いいねそれ」
そんな会話をしていた男女。突然女性が男性の顔に手を当てる。そして……。
キス、口付け、接吻……夏石の頭の中で沢山の言葉が駆け巡る。密着、息を止め、口を塞ぐ。甘い、甘い、唾液が口伝いに流れる。夏石は小説でしか読んだ事のない光景に興奮した。
これが、キス……好きあっている者同士が行う愛情表現。
ガシャンと後ろで音がする。神尾がお膳を落としたらしい。そして、
「見ちゃだめ!」
突然目の前が真っ暗になる。どうやら神尾が夏石の目を手のひらで覆ったらしい。
「先輩ちょっと!やめてください殴っていいですか?」
「直接見たら死ぬから!子供が見るものじゃないから!」
「死にませんし、そんな歳じゃありませんし!離してください!セクハラで訴えますよ!」
神尾の息が荒い。覆っている手が震えているのがわかる。これはどんな感情なのだろうか?
視界が明るくなる。神尾が手を外す。
視界が戻ると、濃厚な時間は既に終わっており、男女は和気藹々と、またデザートを食べ進めている。
「甘かった、でしょ?」
「うん……」
そんな会話が聞こえてくるが、夏石はそんなカップルより、神尾の事が気になった。
振り返ると……頬を赤らめた神尾がいた。涙目で肩で息をしている。
可愛い。素直にそう思う。
神尾みおは容姿端麗である。男性だが、化粧をし、身体の線が隠れるような服を着ると、女性に見間違えるくらいだ。実際、神尾は自分の性別を女性だと偽って生活している。大した理由はないらしいがおそらくは別でやっているバンドの活動が理由なのだろうと夏石は思っている。
「バ、バカ……」
「ストップ!」
次は夏石が神尾の後ろに周り口を塞ぐ。あまり大きな声で喚かれるとまずい。
「お客様がお帰りになるまで、一言も喋らないでください。私が対応しますので」
「うぐ……」
不満はあるようだが、納得はしたらしい。神尾が身体の力を緩める。
そうして時間はすぎて、なかつむまじいカップルは帰って行った。
夕方、閉店準備の片付け作業。夏石と神尾の間に気まずい空気が流れる。神尾がいくら女性っぽい見た目だからといって、本当の性別は男性で、それを本人も認めている。夏石と神尾は異性だ。あんなものを見た日には、気まずくもなる。
「ナツイシってさ、彼氏いるの?」
そんな気まずさを取り払おうとしたのか、神尾が声をかけるが、内容がおかしい。
「なんでそんな話題!?先輩こそ、恋愛経験ってどんななんですか?凄く動揺してましたけど、慣れてますよね?そんな男女両方とも落としてきましたみたいな顔してたら慣れてますよね!?」
思わず口が滑ってまずい、と思ったが夏石は止まらない。
「恋愛の1、2回……いや、2桁だってあり得る。先輩は憎らしいくらい美人なんですから、私なんかと違って沢山経験があるんでしょうね」
「い、いや……」
神尾の頬が赤い。
「嘘をつかないでください。てか神尾先輩は性別でいうとどっちに恋愛感情を覚えるタイプなんですか?」
「し、しるか!」
「じゃあ試してみましょうか?」
夏石は気がつくと、あるストーリーのヒロインの言葉を口にしていた。「好き、という感情がわからない」という主人公に、ヒロインがキスをして、身体を張って「好き」を教えるシーンがあった。
神尾の事がムカつく。熱った顔は、憎らしい程に彼の可愛いさを引き立てる。普段はうるさい彼だが、今はしおらしくしている。夏石は、そんな神尾の事が揶揄いたくなった。ここで、自分の「恋愛封じパワー」なるものの壁をぶち破ってみたくなった。恋愛イベントを、この手で、身体を張って、起こすのだ。
神尾の肩を両手で掴む。そしてつま先立ちから倒れ込むように……神尾の唇に自分の唇を当てがう。
お互いが息を止める。静寂。
体温の乗った神尾の唇は、とても、柔らかい。本で読んだだけではわからない感覚だと、夏石は思う。神尾がビクッと身体を震わせるがかまわず唇を重ね続ける。
これがキス……好きあったもの同士が行う愛情表現。
ややあって、永久とも一瞬とも思える狂った時間感覚から抜け出すように、夏石がバッ、と顔を、身体を神尾から離す。
「どう……」
夏石は息を切らしながら、神尾の方を伺いみる。神尾は……少しフリーズした後声にならない声を発し、その場に崩れ落ちた。
「調子に乗ってすみませんでした」
ここはカフェの更衣室。普段は(性別の問題があるので)交互に使い、制服に着替えるようにしているのだが今日は違う。オーナー夫妻をあまり心配させないため、夏石が倒れた神尾をここに引きずり運びこんだのだ。
「僕の、誰にも奪われたことのない、唇が……」
「謝るので、そんなに泣かないでください。本当に経験がないとは思わなかったんです。ほ、ほら!初経験がJKって、周りからすればステータスなのでは?」
自分勝手な行為なのはわかっていた、が奪った唇はもう、本人に返せないのだ。
熱に当てられたのかもしれない。夏石にとっても初めての経験、人生初のキスだった。その場の雰囲気が、夏石の行動をかりたたせた。あの柔らかさがまだ、口に残っている。
「嫌い!ナツイシのこと嫌い!」
「私も神尾先輩の事嫌いです」
「キスしたのに!?」
「別に好きだからキスしたわけじゃないですし。一種の嫌がらせですから。誤解なさらぬよう」
「意味がわかんないよ!」
神尾がまた泣き出すので、ハンカチを顔に押し当て黙らせる。
「ぴー」
神尾がそのハンカチで鼻をかむ。
夏石は神尾の事が嫌いだ。嫌いだといったら嫌いなのだ。妬みや嫉みだと思われてもいい。嫌いなものは嫌いなのだ。だから、大胆な事ができる。神尾への嫌がらせとして。憂さ晴らしとして。
しばらく更衣室で休んでいると、扉の向こうから、オーナー夫人が声をかけてくれる。
「もう店戸締りするけど。みおちゃん帰れる?」
「うん、大丈夫だよ。ちょっと目眩がしただけだから」
2人で外に出る。
空は夕暮れ時、影になった神尾の顔はどういう表情を浮かべていたのだろうか?
想像しながら夏石は帰路につくのだった。
初めてのキスは、嫌いな先輩の味。
「何これぇぇ!!」
夏石は手に持っていたスマートフォンをぶん投げ、悲鳴にも近い声を上げる。スマートフォンが壁に当たって大きな音を立てている事も気にせず、ベットに飛び込んだ。
夏石の幼馴染は小説を書く趣味がある。そして読書が趣味の夏石によく添削をお願いしてくるのだが……今回は自信作らしい。
「そよの添削がいらないくらいの超良作よ!でもとりあえず読んでもらいたいからテキスト送るね」
そうして届いたのが、夏石と先輩がキスをする話だった、というわけだ。タイトルは「キスは毒の味」。作品自体が毒だ。劇物だ!
「脳みそが焼ける!!クソ野郎絶対殺す!何が『じゃあ試してみましょうか?』だ!私そんな事言わないから!そしてそんなに性格悪くないから!!」
枕に顔を埋めて叫ぶ。
「まずさ!?あの人にキスした経験がないわけがないでしょ!?あの顔よ!?あのあざとさよ!?人気ロックバンドのmiomioだよ?あり得ないでしょ!フィクションだとしてもあり得ないから!」
幼馴染は妄想過多である。常に妄想の世界に生きており、それをリアルの世界に、こうやって、作品として引っ張り出してくるのだ。
幼馴染は神尾と私のバイト先が同じである事を羨ましがっていた。
「超美形と働けるなんてさ!ストレスフリーでしょ?」
「いや、あの人歩く災厄なんで。最悪よ。早く辞めてほしい」
羨ましがる気持ちが妄想として滲み出してきたとしてもだ、作品として書き出し、それを本人に見せるなんて言語道断。
夏石は頭を掻きむしる。
身体が熱い。これは怒りのせいなのか、はたまた……。
夏石はベットから立ち上がると、台所へ向かった。こんな日は冷たいフルーツティーでも飲むのが良い。熱った身体を冷ますとしよう。
手に取ったのは神尾からもらったフルーツティーのパック。
先輩の味……変な言葉が脳を掠めるが、頭を振って振り払う。
ーキスには強い毒性がある。身体が痺れたように動かなくなる、そして意識が揺れるような感覚と、動悸、息苦しさ。
唇を重ね合わせた瞬間、相手は主導権を手放す。さらに続ければ、相手の意識すらも奪える。
毒はやがて身体を巡り、自分のことしか考えられなくなる。
それがキス、だ。
安易に、相手の唇を奪ってはいけない。やがて毒は自分をも蝕むのだから。
誰かのメモ書きより