今々昔々、ある天界に一人の天使がおりました。大変真面目なその天使は、同僚や部下からも慕われているような素晴らしい天使でありましたが、少々好奇心旺盛であるところが玉に瑕でした。
天使たちは地上の様々な魂を天界にある魂の休息所へと迷いなく案内する仕事が主でありました。彼の天使も天界から地上に降り立っては仕事のために魂を導いておりましたが、常々その仕事をこなすうちに天使の中にとある感情が芽生えるようになっていました。しかし、それを口に出せばきっと周りは物珍しい目で自分を見ることでしょう。故に彼の天使は、その感情を誰かに話すことはありませんでした。
とあるとある、晴れた昼下がりのこと。天使はいつものように地上へ仕事のために降り立ちました。あちらこちらを行き交う人間たちの合間で仕事の対象を探し、辺りを見回します。その双眸には、まるで宝石のように輝く魂たちがまるでオークションのように映り込んでおりましたが、その中でも一際眩しい魂を彼の天使は見つけました。
それは、まるで磨き上げられたダイアモンドのように虹彩を瞬かせている魂でした。思わず目を奪われた天使は、咄嗟に自分の中でひとつの感情が沸き起こります。──あの魂が欲しい、と。
「もし、貴方。聞こえていますね」
「…………」
彼の天使は最早、抑えることをしませんでした。自らの仕事を一度端へと追いやり、その魂を持つ人間へと近付きます。その合間、天使は自身の姿をその人間へと合わせました。元来天使は姿を持たざる者でしたが、死の近しい人々の前では度々その姿を人間の好みに変えることがありました。そのため、天使は今回も姿を変えて人間へと近付きましたが、今回に関しては目の前の目映い魂は仕事の対象ではありません。故にその者と同じ姿を取ったというわけです。きっと自らと同じ姿をした者の言葉であれば、目を止めるだろうと予測して。
案の定、その人間は自らを視認しました。然し人間はすぐに視線を逸らしてしまいました。見えているというのに一言も言葉を発することなく、自らを見ないふりをした。その事実に彼の天使は更に沸き立ちます。普通であれば歓喜の悲鳴のひとつ程度あがるであろうものなのに、この人間は自分が何なのか理解しておきながらもその存在を不認知した。傲慢で豪胆、慎重で大胆な行動です。彼の天使は更にこの魂が欲しいと思いました。
しかし、そもそも天界では仕事以外で天使が生物の、特に人間という地的生命体の目の前に現れることは極力避けねばならないとされていました。人間の中には本来見えざるものが見えてしまう者もいます。そういう者たちに姿を見られてしまうことは仕方がないこととされていますが、自ら姿を現すことはあまり良しとされておりません。特に今回に至っては仕事ではなく私情です。おそらくこの出来事が発覚してしまえば、天使は天界でこってり叱られてしまうでしょう。勿論、それで構わないと彼の天使は思ってはいましたが。
天使には生命の命を刈り取る力がありました。ただ、それは死の淵に立たされた者だけです。生命力に満ち溢れている命を奪うことは出来ません。ですが天使はどうしてもこの人間の魂が欲しい。天界に持ち帰って籠に入れて観賞用としても良いし、眷属として半永久的に侍らせても良い。とにかくこの魂がどうしても欲しくてたまらなかったのです。故に、天使は人間へ言いました。
「貴方、願いを叶えてあげましょうか」
「……は?」
「貴方の死の際まで、貴方の願いをなんでも叶えてあげましょう。多少程度の奇跡であれば簡単に起こせますし。代わりに貴方が死んだときは、その魂をください」
「嫌です。というか何ですか、あなたは」
「天使ですが」
「……何だって?」
「天使ですよ、ご存じありませんか?」
「……存じる存じ上げない以前に、そんな非科学的な生命体が実在しているという事実を信じたくないのですが」
「いるものはいますので、何とも。それとも、それっぽいことを言っておけばよいですか? 信じるものは救われますよ、加賀美ハヤト」
「不確定要素が強い何かに救われたいとさえ思いませんよ、似非天使」
人間の物怖じしない口振りに天使は楽しげに微笑みます。美しい様相であるのにも関わらず顔を歪める人間でしたが、天使にはそんなことを気にも留めません。必ず、絶対に、この魂を自らのモノにする。それだけしか考えておりませんでした。
──これは、唐突に天使を自称する謎の人物に取り憑かれてしまった加賀美ハヤトという人間と、人間を真に理解などしていない彼の姿を取った一人の天使の、偶像物語です。