「晴ぅ、月光蟲って知ってっか?」
「……魔の話してるんなら知ってるけど」
その話題が出たのは、本当についさっきの出来事だった。ちょうどVΔLZの収録としてスタジオに集合したものの、別収録で少し遅れてくるという弦月を待つため、のんべんだらりと適当に会話をしていた時にふと唐突に長尾がそう切り出してきたのだ。
ぼんやりとスマホで他ライバーとのやりとりを返していた甲斐田も、長尾に問いかけに顔を上げて首を傾げて見せたが、長尾の方はスマホを見たまま甲斐田へ視線を寄越すことはしない。すっとその画面に何かを打ち込み続けながら、それでも会話は続いていた。
「珍しいってまじ?」
「珍しいっていうか……まあほぼ人前には現れないし、そもそも短命だって話らしいしね。姿も分かってなければ、伝承っていうか……なんか桜魔のはずれのところにある一部地域で言い伝えがまことしやかに残っているって話は聞いたことあるけど」
「おおん、それって魔でいいのかよ……」
「一応遥か昔の調査隊がそう位置付けたから、それで良いんじゃないの。僕はお目見えしたことないから分かんないけどさ」
「ほーん」
心ここに在らずとでも言いたげな返答と共に、かたんと立ち上がった長尾を視線で追った甲斐田は、未だに眼前の同郷の友人が何を言わんとしたいのかが全く理解できていなかった。出会うことなど稀中の稀であるウルトラレアのその魔が何だっていうんだと口を開きかけた甲斐田だったが、それよりももっと先に長尾の方がずいと甲斐田の目の前へとスマホの画面を近づけてくる。あんまりにも近すぎるせいで目のピントが合わず、何……? と少し遠退くと、そこにはいつも活用している通話アプリの画面が映っていた。
相手は「剣持刀也」。先輩であり、甲斐田の所属しているユニットの仲間でもあり、そして友人の一人でもあるその人の名が何故。思わず目を凝らせば、そこに羅列している文字に甲斐田は素っ頓狂な声を上げてしまっていた。
「は? もちさん?」
「ん」
「……は?」
「おん」
「な、は!? どういう、」
「さっき来てたっぽくてよお。晴、助けに行って──」
「僕今日休みます!!」
「おー……言い出すより早かったわ」
それはもうもの凄い早さで、甲斐田は手元にあった荷物を掻っ攫うように掴んではスタジオをばたばたと出ていく。その動向を視線だけで追うように見つめていた長尾もまた、スマホのチャット欄に残してあったメッセージを送ってから伸びをするように椅子から立ち上がった。緊急事態による収録延期の申し出をスタッフにしなくてはいけないことと、おそらくそろそろ来る頃だろう弦月を拾うこと。そして、無策で今飛び出していった友人のフォローのため、桜魔への連絡とバックアップをするために。
相変わらず、何かと自分の大事な誰かのためなら後先考えないやつだな、なんてことを考えつつ、開け放たれたスタジオの扉を一瞥した長尾は、ふと少しだけ笑みを零してから自らも後を追うようにスタジオを出たのだった。
◇
月光蟲。桜魔では古くから口伝承のみで語り継がれていた魔である。月が出ている夜にしか活動の出来ない魔であり、更に短命であるとされている。その寿命の短さと人里離れた山奥などに生息している点からか、現存する魔の中でも圧倒的にデータが少ない魔でもあった。つまるところ、研究職出身としては是が非でも生け捕りにして持ち帰りたい研究対象ではあるのだが、問題はその魔特有の性質にあった。
桜魔において、魔や神と呼ばれる存在が引き起こす事件事故は多種多様に渡る。その中で稀に起こる「子供の山隠し」は、この月光蟲によって起こるとされていた。現世における神隠しと同列の事件であるそれは、山に立ち入った子供がぱったりと行方不明になってしまうことから来ていた。姿を消す前、行方不明になった子供と一緒に行動していた子供たちは、大人へと口々にこう言うのである。──白い光とけむを纏った、なにかに出会ったのだと。
故に、桜魔の大人たちは子供へと口酸っぱく言うのだ。夜の山には立ち入るべからず。そこには、月光蟲という子供を攫う魔がいる。喰われたくなければ、日が暮れる前に帰るべし。甲斐田も幼い頃に散々言い聞かされて育った言いつけであったが、それは桜魔であって現世の話ではないはずだった。の、だが。
──長尾が甲斐田へと見せた、剣持との個人チャットのやりとりの中にあった画像。それは白い光と煙のようなものを纏った、ぼんやりとした何かがぽつんと暗がりの中に浮いている写真だった。それは桜魔出身でなければぼやけたライトの灯りか人魂かと聞き返しそうな代物ではあったのだが、その写真の下に書かれていたメッセージに甲斐田はひゅっと息を飲むような文面があったのだ。
『これ何か知らない? 幽霊っぽくなくて。魔とかだったりしたらちょっと嫌なんだけど』
「それどこで見つけたんすか」
『○○の山奥にある廃校。椎名宛に来ていた除霊案件なんだけど、椎名が風邪引いたから僕一人で来てる。何かずっと浮いて回ってて喋ってて、一応様子見てるんだけど』
「なんて言ってたかって分かります?」
『ほとんどは分からなかったけど、ゲッコウチュウがどうたらってのは聞こえた』
山奥、廃校、除霊案件、ゲッコウチュウ、そして剣持の年齢。子供扱いするには大きすぎるとはいえ、彼は間違いなく高校生である。世間一般的には子供であることは間違いないし、そもそも桜魔での山隠し事件では高校生ほどの年齢の子が行方不明になってしまった事案だって報告されている。ということは、件のそれがもし月光蟲であったならば。
剣持が長尾へと送っていた山は、事務所から然程遠くない場所ではあった。急ぎ足で捕まえて飛び乗ったタクシーの中でスマホを取り出した甲斐田は、肩で少し息をしながらも剣持へとメッセージを送る。どうか無事でいてくれと願うことしか出来ないのは、現時点で何も出来やしない自分があまりにも無力すぎるからだ。
走り出した夜の道、灯る光がタクシーの外で過ぎ去っていく。その頂点、夜空に打ち上がるように佇んでいたいっとうに明るい光は──眩しいほどの、満月だった。
最初の話では、取るに足らないいつもの依頼だった。数年前に廃校となった山奥の小学校に出る幽霊の噂を調査して欲しいという、まあ正直二人でさえやりたくない依頼だというのにまさか一人でやる羽目になるなんて思わなかった事案だった。とはいえ、除霊がメインではなくあくまで噂が本当であるかどうかの調査なので、さっさと行ってそんな非科学的なものはないのだと言い張って帰って来ればいいや、とそんな甘い考えで剣持は夜の廃校を訪れた、というわけだったのだが。
実際のところ、廃校とは言えど使われなくなったのはここ数年の内だったからか、剣持が思っている以上に校舎内は綺麗だった。自分より幾分か低く作られた手洗い場や窓に、小学校の名残のようなものを感じさせられる。机などはどうやら撤去されているようで、ロッカーや掃除用具入れなどの重そうなもの以外はなんにもなくなってしまった教室が延々と続くばかりの、夜で学校という非日常的な雰囲気から来る不気味さ以外は特に何の変哲もないただの廃校舎だった。……はず、だったのだけれども。
(……なんだあれ……?)
一通り校舎を見て回った剣持が、特に目ぼしい異変は無かったと早計に結論付けてそそくさ帰ろうとしかけた時のことだった。ゆらりと遠く、廊下の奥まったところから何か眩しい光が曲がって此方に向かってきているのが見えたのだ。まさかと咄嗟に近場の教室に転がり込み、背の低い扉の影に隠れるようにして様子を伺うと、それはどんどん灯りを大きくしながら剣持のいる教室を通り過ぎようとしていた。──何か、声を発しながら。
まずい、件の噂は本当だったのか。椎名のやつ今回こそは特別手当とかもらうからな、などと椎名の顔を思い出しながら内心毒づいていた剣持はどうにかしてこの状況を打破しようと意識を廊下へと向ける。つぶつぶと呟いているそれらのことなど聞きたくもないが、意識を向ければおのずと何を喋っているのかなんて否が応でも聞こえてきてしまうものだ。恨み辛みや自分を探している声だったらあまりにも嫌すぎるなと傾けた意識の先で、火の玉にも似たそれはじりじりと聞き取りにくい高い声の中で不意に「ゲッコウチュウ」と言った、ような気がした。
ゲッコウチュウ、ってなんなんだ。虫に詳しいわけではないが、剣持もそこそこに生きている自覚があるしそれなりにものを知っている自覚がある。が、今まで聞いたことさえない名前に首を傾げつつ、ゆらりゆらりと教室前を通り過ぎて行った件の光を扉の隙間からちらりと覗いてみる。はじめは懐中電灯を持っている幽霊らしき姿か、もしくは提灯だか火の球だかを勝手に想像していた剣持だったが、その後ろ姿を見た瞬間、ん? と不意に謎の違和感を覚えたのだ。
(あれ、幽霊とかそういうものとはなんか違う気が……)
何となく、と言ってしまえばおそらくそれだけでしかないだろうその違和感だが、剣持は椎名と過去何度も除霊案件に乗り込んだ経験があった。それも相俟ってか、自分の第六感を疑うことすらしなかったその思考は、心当たりがありそうな事案をざっと脳裏から探し始め、割とすぐにひとつの思い至りに行き着いた。
もしかしてこれ、桜魔で言う魔とかいうやつなんじゃないか。ふと浮かんだ後輩で同じグループに所属している空色の双眸のことを思い出して、剣持はそんなことを考えた。以前、桜魔から現世へと時々魔が紛れ込むことがあるんですよねと話していた彼の言葉をふと思い出し、まさかと思いつつ自らのポケットからスマホを取り出すと、大きな音が鳴らないようにしながらその光の写真を撮る。魔の研究者である甲斐田に送れば何かわかるのかもしれないと彼とのチャット画面を開いた剣持だったが、一瞬の逡巡の後にその宛先を長尾へと変えることにした。理由は至極簡単、夜にこんな場所でこんなものに遭遇していると知られたら、思っている以上に仲間思いで過保護なあの青年が五月蠅くならないわけがないと思い出したからだ。
写真をそのまま長尾へと送り付けると、割とすぐに返信が返ってくる。諸々の話をして魔であるかどうかを問えば、長尾は「まあちょっと分かんないんで調べますわ」と至極あっさりした返事が返ってきた。幽霊なぞはいなかったが、本職である彼に丸投げしてしまえばまあ問題はないだろう。そう判断して、遠く過ぎ去った光を視認してからそそくさと帰るために立ち上がった、瞬間だった。
がたん。不意に耳元で、大きな物音が鳴る。何、と視線を向ければ、どうやら背もたれにしていた掃除用具入れに持っていた竹刀入れが引っ掛かっていたようで、立ち上がった瞬間にけたたましい音を響かせてしまっていたようだった。痛いほどの静寂の中でそんな音が鳴り響けば普通以上によく響いてしまうもので、むしろ今ので悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたいくらいだわ、と正された竹刀入れをきちんと肩へ引っ掛けようとして、唐突に嫌な予感を感じた剣持は廊下へと視線を戻して、今度こそ悲鳴を上げた。
「うわあああああああっ!? まっ、ずい……!!」
まさかと思って向けた視界の先では、先程遠くまで行ったはずの件の光が、先程より早い速度で真っ直ぐ此方へと戻ってきている最中だった。既に二つ向こうの教室の扉の前まで戻ってきていて、ゆらゆらと大きく揺れ動きながら剣持を見つけたかのように飛んでくる。まずいやばいと剣持の方も慌てて教室を出ると、校舎の正面玄関まで駆け出し始めた。
記憶の中で歩いてきた道順をどうにかして遡るように廊下を走るが、幾つかの角を曲がった時点で剣持はあまりにも不自然なことに気付いてしまった。
「っくそ、ぉ……こんなに角曲がった記憶ないし、廊下ずっと続いてんのおかしいだろ!!」
調査は既に終わった中、帰ろうとした矢先に件の灯りとは鉢合わせたが故に本当であれば角など一度曲がればすぐそこが正面玄関のはずだった。が、未だ剣持は玄関には辿り着くことが出来ず、同じような光景をぐるぐると回り続けているばかりだ。さっきも過ぎ去ったはずの教室、外の様子がなにも見えない窓の向こう、そして未だふわふわと追い掛けてくる何かも分からない灯り。長尾にSOSを求めようにも、スマホを取り出している暇さえない。そこそこに走っているために足は少しずつ縺れ始めているし、息だって上がりかけている。
最早詰みかと奥歯を噛み締めた剣持は最後の博打に出るため、眼前の曲がり角を勢いよく曲がってから自らの肩にかけていた竹刀入れを下ろし、その先へと手を突っ込んだ。
「おら何かわかんねえやつ!! ふよふよふよふよ追いかけ回しやがって、ここで叩っ切ってやってもいいんだぞ!!」
声を荒げながらも取り出した竹刀には、万が一何かに遭遇してしまった時用として山ほどの御札を張り付けていた。目の前のそれが幽霊どころか何であるかさえも分からない状況でこの竹刀が効くのかも分からないが、このまま体力切れで命共々おじゃんになるくらいならば、一矢報いる方に賭けた方がまだ望みはある。
ぐっと握り込んだ竹刀の先端は、否、剣持の手はかすかに震えていた。こんな状況に至ったことなど今まであるはずがない。確かに霊らしき何かに遭遇したことや襲われかけたことがなかったわけじゃないが、そういう時は大抵隣に椎名がいたものだし、そもそも霊能力者である椎名が最終的にはどうにかしてくれたものだ。まさか一人、それも霊であるかどうかも分からないものに対峙して、生きて帰れる保証なんてどこにもなかった。
ぐ、と息を浅くして目の前の灯りを睨みつける。剣持が走ることを止めたせいか、灯りの方もゆらゆらとその場で佇むように揺れながらも、やはり此方へじりじりと近付いてきているようだった。間合いに入ったら切る、間合いに入ったら切る。そう自分に暗示をかけ続け鼓舞するように竹刀を握った剣持の前で、灯りはふいに先程まで途切らせていた声のようなものをぽつりと吐き出した。
『──』
「……え? なに?」
『──……はぐれ、ないで──』
そこに滲んでいた声の震えは、幼い少女の悲痛な一言で。
思わず呼応するかのように竹刀を握る手から力を抜きかけた剣持は、言葉もなくその灯りへと一歩だけ、近付こうとして。
「──もちさん!! 近付かないでしゃがんで!!」
「……ッ、は……あ……?」
「我が家名、甲斐田の名において命ずる! 水陣守壁、氷結!」
それはあまりにも唐突に静寂を切り裂いてきた、ひどく通りの良い声だった。はっと剣持が声の方を見遣ると、ひどく焦った表情の甲斐田が自分と灯りの間へと滑り込んでくる。背中で庇われるように立ち塞がったその羽織りはすぐさま術のようなものを口にすると、甲斐田の目の前へ大きな氷の壁が現れた。きらりと瞬くように、それでも確固たる拒絶を前にした灯りは、ぐるぐるゆらゆらとひどく大きくその場で揺らめいてく。
「甲斐田くん、何で、」
「説明は後! ……っコイツ、まだもちさんのこと諦めないつもりか!」
珍しくも大きな舌打ちを見せた甲斐田の躯体の向こう。先程まで手のひらサイズだったはずの灯りは拒絶されたことに苛立ったかの如く、その灯りをどんどん膨れ上がらせていた。
封じるのも斃すのも、それは甲斐田の専門ではない。特に戦闘の準備さえしてこずに身一つで飛び出してきた状況下でこの大きさに対抗できる術はないだろう。そう判断した甲斐田は、もう一つ術を口にしてから剣持へ走るよう促す。早く離脱して、長尾を呼んだ方が早いと踏んだのだ。
急かされるように走り出した剣持は、先程まで幾ら走っても辿り着くことさえ叶わなかった正面玄関前に自分がいることに気付いて、思い切り玄関の扉を開ける。外は夜と森の匂いが入り交じり、上がっていた息に刺さる程冷たい空気が漂っていた。
「甲斐田くん早く!」
「分かってる、って! ……よし!」
開け放った扉の前で後ろを振り返った剣持の眼前で、甲斐田は簡易的な捕縛の術を二重にかけてから走り出した。彼の後ろでは灯りが膨縮を繰り返しながらも、甲斐田のかけた術を振りほどこうとするように大きく膨らもうとしているのが見えた。
走り出した甲斐田が玄関を出たのと同時に、剣持はぐっと学校の扉を閉める。がちゃんと大きく響いた扉の向こうで、点滅するように光はぐわんぐわんと揺れ、それは徐々に玄関へと近付こうと蠢いているように見えた。まずい、と剣持が甲斐田の方へと視線を向ければ、甲斐田もまたこくりと頷いて走り出す。一旦この廃校を、学校を出てしまおうと駆けたその足はざかざかと生えきった雑草を掻き分けて、風に揺らめく木々の合間を揺らしていく。
ただ無言のまま、剣持は振り返りそうになる自分を抑えながら廃校を後にした。遠くから響くあの灯りが発している「おいていかないで」という少女の泣き叫ぶ声は、森を出る直前までずっと聞こえ続けていた。
◇
幽霊は確かに居なかった。が、結局のところ魔はいた。それを椎名にどう説明するか悩みに悩んだ剣持は、考えあぐねた上でとりあえずいなかったと報告することにした。霊はいなかったのだから、何ら嘘は吐いていないと自分の中で言い訳することとしたのだ。
件の魔は、月光蟲と呼ばれる桜魔皇国特有の魔であった。何の因果かあの廃校へと辿り着いたらしい魔であったそれは、どうやら子供を引き寄せて隠してしまう代物らしい。口数の少ないタクシーの車内でそんな説明を甲斐田からされた剣持は、あの時聞いた声がそれに起因しているものなのだろうと一旦自分の中で納得させながらも、何とも言い難い勘がまた別の意味を探しているような気がして、何処か気持ち悪い感触に見舞われていた。
確かにあれははぐれないでと、おいていかないでと言ったのだ。それはなんだか、子供を引き寄せて隠すにしてはもう少し、何かもっとあるような。何とも形容し難い、それでももう既に自分が関われる管轄外であるところまで行ってしまったこの出来事に、口を噤むことで穏便に済ませようと自分の感情を落ち着けていた、数日後のことだった。
「もちさん、ちょっと話したいんですけど」
「……え、何?」
「例の、前の廃校の話です」
ROFーMAOの収録のため、事務所の休憩室でぼんやりとスマホを見ていた剣持の元へ、いつもであればもう少し遅めにしかやってこないはずの甲斐田が珍しくも早めにやってきたかと思っていれば、開口一番にそんなことを言い出した。真剣な顔つきから、茶化すこともままならなさそうだと判断した剣持はいいですよと椅子から立ち上がり、別室へと移動する。人気のない空き部屋の扉を閉めた後、甲斐田は一呼吸置いてから、持ち込んでいた鞄の中からふいに何かを取り出した。
こつん、と机の上に置かれた、ひとつの保存容器に似た瓶。手のひらより少し大きめのそれの中には、あの時見た灯りが収まっていた。
「……えっ、これ!?」
「はい。あの後、長尾に手伝ってもらって回収しました。この魔が物凄く珍しくて稀少な魔であることは話してましたよね」
「確かに、聞いたけど……」
「タクシーの中で剣持さんが聞いたと話していた声。それとこの魔の性質から引き起こされてきていた山隠し……現世で言う神隠し、ですね。その関連性を取るために、色々桜魔に戻って調べてみました。で、多分もちさんも巻き込まれた身だし、知っておいてもいいのかなって思ったのでここで報告します」
「まあ、僕は大人だから深く聞かないようにしてたけどね。でも聞いていいなら聞こうじゃないか」
「……まず、結論から言います。この魔は、神隠しをする魔じゃありませんでした」
「……は?」
「…………導く魔だったんです。夜更けの山に立ち入り、道に迷ってしまった子供たちを帰路に送るための、導きの月光だった、はずだったんです」
甲斐田が落とした視線の先。その灯りは確かに、満月を思わせる柔らかな月の光に似ていた。
「元は山神が堕ちたもの、らしいです。山に住み、山の恵みを享受し、また山へそれを還元する。なので、山にしか住めない魔だったみたいです。けれど、山には人間も立ち入るでしょう。山の恵みを得るために、そして子供たちは、山を遊び場とするために」
「まあ、田舎とかだとよくある話だけど……」
「……もちさんは、夜の山って入ったことありますか?」
「この前行ったじゃん」
「あれは廃校だったでしょうが。あと道も結構分かりやすかったし」
「まあそうだけど。……あー、それ以外だと、まあないかも……?」
「……夜の山っていうのは、大人でも迷うほど道が分かりにくいもんなんですよ。暗いし、同じ景色ばかりだし、頼りになる目印もない。それに崖だって多いから、足を滑らせれば死に至ります。寒くなるのも早いので、凍死する可能性だって高い。危険な野生生物に見つかれば、きっと」
「……そういう場所に子供が一人で迷い込んだら、一発アウトだって?」
「そう。……そしてこいつは、そういう山に迷い込んでしまった子供を無事に里まで返してあげるための灯りとして、存在しているはずだった」
ただ、と言葉を区切ったその指先はぐっと握り込まれている。それに呼応してか、瓶の中の灯りも小さく揺れていた。
「……あまりにも、小さすぎたんです。子供一人の命を背負うには、何もかもが足らなすぎた。言葉を覚えても、灯りを大きくしても、子供は簡単に山で命を落としてしまう。神隠しでもなんでもなくて、ただ、山で迷ってしまった子を導くには、あんまりにも何も出来なかった」
「……ああ、だから、」
──『はぐれないで』『おいていかないで』。灯りは、確かに剣持へそう言ったのだ。危険と常に隣り合わせの山の中で、頼りのない灯りからはぐれないで欲しくて。そして自らに恐怖し走って行ってしまう剣持へ、一人になってしまったら危ないから。だから、そんな言葉を。
双眸を細めて瓶の中を見る剣持に、甲斐田は少しの無言を揺蕩わせた後にそれで、と切り出した。
「彼らは、子供を救えなかったと知るや否や、命を絶っていったみたいです」
「……は? なん、」
「……桜魔では、昔から山で命を落とした人はその魂さえも山で迷い続けると言われています。山っていうのは一種の神域なので、そこに閉じ込められてしまうと。所謂あの世には行けないと言われているんです。……だから、山で命を落とした子供たちがきっと寂しがるから。ひとりぼっちでずっと悲しむから。そんな彼らに寄り添うために、月光蟲は自らの命を絶ってまで死した子供の魂を導こうとしたみたいです。──彼らは、月明かりだから」
何もかもが見えない、真っ暗闇の中。ざあざあと揺れ動く木々の擦れさえも不気味な中で、一筋落ちる月の灯り。そんな、ただどこまでも優しく、柔らかく、温かな光。そんな心優しい、そしてあまりにも切ないひとつの灯りが、そこには在った。
言葉を失った剣持の前で甲斐田は瓶を掬うように持ち上げると、中身を一度見遣ってから剣持へと差し出した。息を詰まらせて甲斐田を見る剣持に、その青空の双眸はこくりとひとつ頷いてみせる。
「調査中もね、こいつずっと心配してたんですよ。もちさんのこと」
「……僕を」
「あの子はちゃんと帰れたのか、元気でいるのか、怪我はしてないのかって。だから、今日ちゃんと会わせて、もちさんが無事だってのを見せてやりたかったんです」
そう言われながらも受け取った瓶を両掌で包むように剣持が抱えると、先程まで小さかった月光蟲は瓶いっぱいに溢れんばかりの明るさで膨らんでは、ゆらゆらと楽しげに揺れてみせた。
「……この魔は、甲斐田くん家で保管とかされるの?」
「勿論。一応桜魔の研究職の中じゃ僕はそこそこ偉いですからね。本局に引き渡したら何されるか分かんないんで、うちで保護して、まあ時々調査してーみたいな感じの予定です」
「……ふうん」
「会いたくなったらいつでも連れてきますよ。こいつ、もちさんに懐いてるから」
「いや、魔ってそんな簡単にこの世界の人間に懐くもんなの?」
「こいつは特別ですよ。だって、こいつにとっては初めて救えた大事な子供ですからね」
つい、と瓶を突く甲斐田の視線は、いつも気安く絡む時とは違った慈しみを滲ませている。ああ、何だかんだ言ってこの人もきちんとした大人なんだと剣持は心の内で改めてそれを感じつつ、ただ面と向かってそう褒めるのも何だか嫌で、ほんの一瞬だけ思考を巡らせた剣持は、とあることを思い出して顔を上げた。
褒めるのは何となく癪だ、けれど。これはきちんと、伝えなきゃいけないと思い出して。
「甲斐田くん」
「はい?」
「助けに来てくれて、有難う」
結局、月光蟲が優しい魔であったとはいえ、あの瞬間、剣持が感じた恐怖と危機感は間違いないものだった。そこに割って入ってくれた、手を差し伸べてくれた甲斐田は確かに格好いい大人そのもので。
小うるさい過保護いじられキャラであることは変わりないけれども。剣持にとって、彼が頼れる一人の大人であることは確かだった。
「……何言ってるんですか。当たり前でしょ、助けに行きますよ」
「はいはい」
「って言うかねえ! あんな時間に高校生一人あんな場所行って、仕事とはいえまじで危ないって──」
「あー……始まったよ、絶対言い出すと思った」
いつも通り、いつものやりとり。わあわあと騒ぐ甲斐田に冷たい視線を向ける剣持だが、そんな彼がどういう人間かだなんて、今更知らないはずがない。今回の出来事で、それが確信に変わっただけだ。
本当、お人好しがすぎるな。内心でそんなことを思いつつ適当にあしらいながらも肩を揺らす剣持の手の中で、真昼の明るい部屋の中でも煌々と灯る月光蟲は機嫌が良さそうに小さく揺れるのだった。