七五三話 十一月十五日。一般的に七五三の祝い日とされている今日、甲斐田は一人、皇国の中心部から少し外れたとある神社へと訪れていた。
「えーと、奥から三番目の列の……左から……か、か、加賀美……あった」
所狭しと角切られた石が並ぶその場所の一角。加賀美の名を彫り込んだそれはこの神社の官史が言っていた通り、そこに在った。来訪者を久しく迎えていないのか、石造りの花瓶には何も入っていない。そこへ、甲斐田は持参していた菊の花を丁寧に差し込んでからゆっくりと手を合わせる。長く、長く、想いを込めて。
空はひどく澄んでいて、青く、鮮やかだ。そんな青天の下で甲斐田はたっぷりの時間を使い祈ってから、一度目を開くとそうっとその石を──墓石へと向き直った。
「……来るのが遅くなってすみません。隼人のお父さん、お母さん」
加賀美と書かれた墓石。それは、あの日小さな我が子を守った両親のものだ。自らの小さな小さな子にただ生きて欲しいと願い、そしてその子は様々なことはあったものの、今なお元気に育っている。彼らに代わることは出来なくとも、甲斐田もまたそんな数奇な運命を辿った少年がいつか「生きていて良かった」と言える日が来るまで、彼の成長を支え見守る大人の一人であった。
少年たちを家族に迎えることを決めたその日から、甲斐田は近いうちに此処へ来なければならないとずっと思い続けていた。仕事と育児の合間、結婚さえ経験のない甲斐田にとってある程度成長したとはいえ、三人の子供の面倒を見るのは思っている以上に大変だ。剣持やオリバー、長尾や弦月や他の人たちの助けを借りつつもなんとかやってきてはいるが、中々時間が取れずにいたのも事実で。
その機会が唐突に訪れたのは、加賀美が迎える六歳の誕生日の直前。仕事の用事で甲斐田の病院に訪れていた弦月が不意に思い出したように言った言葉がきっかけだった。
「そういえば晴くん。一番ちびちゃんの子、今五歳じゃないの?」
「え、隼人のこと? 一応もうそろそろ六歳になるけど、今はそうだね」
「ああー……だからか」
「えっ、何」
「神様コミュニティで聞いたんだけどさ」
「何そのコミュニティ」
「ちびちゃん……隼人くんか。五歳の詣、来てないって。厄払いの加護が切れちゃうから、早めにおいでって言ってたよ」
「……あ、ああ! 七五三か! うわ忘れてた……熨斗目とか家にあったかな。本家に取りに……いやちょっと大おばあ様にバレると面倒か……?」
「正装じゃなくっても良いんじゃないかな。ただ、厄除けの千歳飴は取りに行った方がいいかもね」
桜魔皇国において、子の成長を祝い、厄払いや健康を祈願するために行われている七五三の行事はひどく重要な催事だ。各地に点在する鬼子母神像を祭る神社で厄払いを受け、祈祷を施した千歳飴を子が食べるまでが恒例行事とされ、厄に狙われやすい子供時代に神から加護を受けて忌避しようという習慣だ。甲斐田も遥か昔には本家の親族に連れられ、普通の家庭であればおそらく謁見することなど出来ないだろう鬼子母神、その方直々に厄除けを施してもらった記憶があった。とはいえ、もう遥か遠い薄らとした記憶のためにその姿は思い出せず、ただものすごい大きな神であったという認識のみが脳裏の隅に引っかかっているだけではあるが。
とはいえ、特段七五三に年齢制限はあるわけでもない。鬼子母神は子を憂い、慈しみ、愛する神であるため、その加護を受けることはいつでも出来はするものだが、それでも年齢の指定があるのは子供という存在の特異性から来る災厄や魔への耐性のなさ、そして狙われやすさから起因しているのだろう。
弦月からの助言の後、甲斐田は折角だからとその週の休日に不破や剣持も連れて鬼子母神の奉られている神社へと足を運ぶこととした。神主を兼任している官史からあれよあれよという間に弦月へと連絡が行き、良かれと思ってか弦月が皇国中心部に坐している鬼子母神、その方に直接便宜を図った挙句そのままかの方が御座す神廟へ通される羽目になった時は流石に甲斐田自身もやりすぎだろと思ったりしたが、同じようにドン引いてる剣持を含めて子供たちへと快く加護をかけてくれた母なる神は、やはり十数年経ってもなおその御心も見目も、兎角大きな神であった。
その時同席していた弦月がふと、「折角だし写真撮ったら?」とわざわざカメラを引っ張り出して四人家族揃っての写真を撮ってくれ、すぐに現像したものを出してくれなかったら、きっと甲斐田がこうして加賀美の亡き両親の墓を訪れるのはもっともっと先になっていたかもしれない。
「……見てください。隼人、一年でこんなに大きくなったんですよ」
少しばかりの無言の後、甲斐田はポケットから一枚の写真を取り出した。弦月が現像してくれたそれは、満面の笑みを浮かべている小さな少年が写っている。新しい兄弟と、父親代わりの自分に囲まれて、一片の曇りもない笑顔で。
初めて病院に来た時、彼の事情を聞きつつ診察をした時の表情とは大違いだ。あの頃の加賀美は子供らしからぬ憔悴しきった表情で、ずっと俯いていた。言葉も少なく、食も細く、我儘どころか要望のひとつも言いやしない子供だったのだ。自らを庇って両親が死んだという事実をあの年齢で理解してしまっている、残酷にも聡い子供だった。
そんな彼が、こうして笑えている。彼を診ていた主治医として、そして一介の大人として、親代わりとして、それがどれほど嬉しいことか。
「多分、僕は御両親の代わりにはなれません。一番強く、大きな愛情を注げるのは御両親だから。……だけど、御両親が命を賭して守った隼人が大きく真っ直ぐ育つまで、僕はたくさんの愛情を隼人に注ぎたいと思います」
いつか、大きくなった彼とここに来られた時。彼がどれだけの愛を両親から受けていたのか、伝えられたら。その時はきっと、加賀美は自分の道をしっかりと歩み踏み締めることが出来ているだろう。そう、信じて。
「もし僕が上手い父親代わりになれていなかったら、……叱りに来てください。隼人のお父さん、お母さん」
最初から全部上手にやろうとしなくっていいんじゃないのと言ったあの優しい親友の言葉には、きっと反してしまうけれど。出来る限りの努力をすることは、間違いなどないはずだ。
とはいえ、仕事がある日の家事は子供たちに任せきりではあるが。
「……僕ももうちょっと頑張らないとな!」
もう一度、静かに手を合わせた甲斐田が気合いを入れるように立ち上がれば、さあっと一陣の風が吹きつける。柔らかな緑の香りに、応援されるような心地になって視線を上げれば、既に傾き始めた空は橙色のベールを薄くかけていた。
そろそろ帰るか、と歩き出した甲斐田のポケットの中で、唐突に音が鳴り響いた。スマホが鳴ってるな、と取り出せば、画面には着信と共に剣持の名が浮かび上がっている。今日は仕事の都合で外出するからねと三人には言ってあったが、何か用事でもあったかなとその電話を取ると、電話特有の小さなノイズと一緒に『もしもし!』と元気な声がした。
「もしもし? 隼人?」
『はあい、はるせんせ! もうかえってきますか?』
「うん。今出るところだから、多分三十分そこらはかかるかも」
『とうや、いまかえるみたいですっ』
どうやら剣持が加賀美に電話を掛けるように言ったのだろう。電話越し、少し遠くの方で剣持が話す声も聞こえてくる。ほぼ毎日のように連絡がてら電話をかけるように言ってある剣持との電話越しは、六割ほどの確率で不破や加賀美の声がするのだ。おそらく面倒臭がっているのではなく、下の子たちも元気にやっていると知らせたい、のだと思いたい。甲斐田的には、そうであって欲しいと願っていた。多分、半分くらいは自分で話すのが面倒なんだとは予想出来るのだけれど。
けれど今日、このタイミングに限ってその電話越しに響く加賀美の声に、甲斐田は何となく運命のようなものを感じて、戻りかけていた足をもう一度墓地へと向けた。加賀美の両親が眠る、あの墓の前まで。
『きをつけてかえってきてくださいね』
「はーい。あ、ねえ、隼人」
『はあい?』
「隼人、次で何歳?」
『ええっと……ろくさい、ろくさいになります!』
「そうだね。勉強は楽しい?」
『おべんきょう……たのしいです!』
「そっかそっか。んー……そうだな……」
『……はるせんせ?』
「……隼人は、うちにきて楽しい?」
それは、少しばかりの大人の我儘なのかもしれない。あの小さな子であれば、そう言ってくれるとどこか確信めいたものもあって。けれど、そう言って欲しいという願いのようなものもある。
ただそれ以上に、ここで眠る電話越しの彼の両親に、彼が今日も元気でやっているのだということをどうしても聞かせたかったという、甲斐田のエゴでもあったのだ。
『ん、たのしいです! はるせんせも、とうやも、みなとも、みんないっしょだから!』
「……そっかあ。それは良かった」
『だから、はやくかえってきてくださいっ』
「はーい。早く帰りまーす」
ぷつりと途切れたスマホの画面を少し見て、甲斐田は滲みかけた涙をゆっくりと飲み込むと今度こそ歩き出した。願いのような、祈りのような、それでいて確かな決意を胸の奥底で握り締めながら。
帰路は未だ少しばかり遠いけれど、温かな光を灯した家へ帰るために甲斐田は少し急くように墓地を後にする。ふわりとまた吹き抜けた風はそんな甲斐田の背中を押すように通り抜けて、三人の子供たちの父親の歩みを少しだけ早くさせたのだった。