物書きkgmさん ① 空港に訪れる人は皆、上を向いている。電光掲示板を眺めている人、アナウンスに耳を傾けている人、まだ見ぬ景色に胸を高鳴らせている人、帰路の穏やかさに心を落ち着けている人。その双眸はいつでも、星がまたたくようにきらりと輝いている。
そんな人々が少し足早に、時折ゆっくりと歩くのを見つめながら、アナウンスが鳴り響く通行路に面したテラス席で温かなコーヒーへと口をつけているとある男が一人いた。目の前で広げている薄目のノートパソコンには幾つか文面が羅列しており、足元にはボストンバッグが置かれている。膨らんだ鞄の中は今から行くのだろう旅へ向けられた期待や希望が満ち満ちているようだった。男の、アーモンドカラーにまばたく瞳のように。
「湊!」
そんな男の思考をふいに遮ったのは、出発ロビーに突如響いた女性の声だった。おや、と声もなく滑らせた視線の先には、派手なグレージュの髪色にピンクとパープルのメッシュを混ぜ込んだ男が見えた。手元で引き寄せているキャリーケースは小さく、小旅行にでも行くのだろうかと無粋にも男が想像を巡らせようとした瞬間、耳を突き通るように劈いた女性の声が男を現実へと引き戻してくる。
「だァから、一人旅行やって」
「んな訳ない、どっかに女隠してるんでしょ!? 聞いたんだからね、本命の女と一緒に店と客切って逃げるんだって!」
ああ、夜職の──それこそホストか何かをやられている方なんだろうな、と男はそこで何となく察しはしたのだけれども、まあ目の前のそれはどう見ても痴情の縺れにしか見えない。湊と呼ばれた方も何とも言えない表情で立ち竦んでいて、ああ可哀想にとコーヒーを片手にしていた男は素直な同情を寄せながら少しコーヒーを啜った。
どれだけ人心掌握に長けていても、ああいう職業の者は何かと面倒ごとに絡まれがちだ。男の仕事柄、何かと色々な職や立場に就いている人と巡り合うことが多いせいかそういう話はよく聞き齧るものだが、あの奇声を浴びせられている彼も恐らくばそういう類なのかもしれない。ゆうるりと勝手に男がそんなことを考えていると、唐突に口論を続けていたはずの女性の方がカツカツとヒールの音を打ち鳴らしながら此方へと歩いてきた。そう、端から見ているだけの無関係である男の方にだ。
なんだなんだ、ちらちら見ていたのがばれてしまって気にでも障っただろうかと男が静かに女性を見つめていると、女性の方は座っている男には目もくれず、座っていたテーブル席の口をつけてさえいない水のグラスを何も言わずに突如かっさらって、刹那。
「ふざけんじゃないわよ!」
止めに入ろうとしていた背後の彼、湊と呼ばれた男に思い切り中身をぶちまけてしまった。氷入りの、冷えきった水の中身を顔面めがけてすべて、だ。
呆然としている彼と呆気にとられている男を残したまま、水をぶっかけた女は何も言わないままグラスだけを大きな音を立ててテーブルへと置いてから、やはりヒール音を鳴らしてどこかへと去っていってしまった。大声が響き渡ってから今まで、およそ十数分程度の出来事。最早嵐ではなく台風のようだった。
「あ、あー……と、すんません。弁償します」
「……え? あ、ああ。別にあなたのせいじゃないでしょうに。水を弁償してもらうほど、狭量でもないですから」
去っていく女性の背中を眺めるように視線で追っていた男だったが、眼前に居たずぶ濡れの彼が申し訳なさそうに頭を下げたことではっと我に返った。
どう考えてもあの女性のせいだというのに、何を謝ることがあるんだろうか。そんなことを考えつつ、男がボストンバッグからハンドタオルを取り出して彼へと差し出すと、紫色の光彩は驚いた様子で男を見てから頭をゆるやかに上げた。
「寒いでしょう、氷も入っていましたし。拭いてください」
「あ、や、大丈夫っす。涼しくなったっつうか」
「痩せ我慢にも程ありません? 何か温まる飲み物買ってきますね。コーヒーは大丈夫です?」
「大丈夫っすけど……いやマジでそこまでしなくても」
遠慮を滲ませた焦る声色の彼へ、男はまあまあと向かいの席へ座ることをウンガス。本人には災難だっただろうとは思うが、男の内心では正直少し面白いものが見られたと思っているところだった。勿論、大変失礼ではあると思ってはいるが。
よし、今回は彼にしよう。男の中ですぐに決まったそれは、揺るがない期待になった。
「では、飲み物一杯分で構いませんので……あなたの人生を買わせてくださいませんか」
「……は……? なん、マルチ商法……?」
「あっははは! そう聞こえたならすみません。ただ、そんな大層なものじゃないんですよ」
男が手元の鞄から取り出したペンとメモ、そして薄いボイスレコーダー。それから引っ張り出した名刺入れからぴっと一枚取り出した表面には、「加賀美隼人」という名前が刻まれていた。
「良ければどうぞ。私、しがない小説家なんです」
◇
加賀美隼人は小説家である。大衆文学とも、エンタメ小説とも形容できるだろうが、ただのしがない物書きだと加賀美自身は思っていた。群像劇を手法として用いることが多く、時々旅先や旅自体を取り扱うような話を書くことも多い。そのせいか、元より取材旅行が多い方でもあった。まあこればかりは本人が旅好きであるということも強いだろうし、そもそも本人が空港という場所が好きであるというところにも起因しているように思えるが。
発刊は既に六タイトルほど。それらはすべて重版しているし、文学雑誌に月一の連載、エッセイも書いている。過去に映画の脚本もだ。名を探せば割とどこにでもいるし、仲の良い編集者に頼まれればおそらく漫画の原案やドラマの脚本も書くだろう。雑食に何でもやる方、というよりは、何でも楽しくやれるからやってみようと思う、というスタンスで今まで仕事をとっていたら、こうなっていたという方が正しいタイプだ。実際、読書好きの間では加賀美の名は有名な方なのだが、加賀美自身はそれをしっかりとは理解していないのが現状ではある。
「お、おった」
「……ああ! 不破さん。今日お帰りだったんですね」
「そ、二十分前くらいに着いたんよ。加賀美さんいるかと思って覗きに来た。加賀美さんも帰り?」
「ええ、私は二時間ほど前には。ちょっとアイデアを詰めていたところです」
あれから一週間ほど後。いつもの空港、いつものカフェのテラス席でメモを片手にノートパソコンのキーボードを叩いていた加賀美の元へ、ひらりと手を振る一人の男がやってきた。以前は頭から冷水を引っ被っていたその男──不破は、あの日とはうって変わって晴れやかで無邪気な笑みを浮かべながら、加賀美の向かいへと座ってもいいかと問いかけてくる。勿論と答えた加賀美にどこか嬉しそうな表情を浮かべながら、不破は握っていた小さいキャリーケースをテーブルの横へとつけてから、カフェのレジカウンターへと歩いていった。
初めて会った日より、憑き物が落ちたような顔つきになったなと加賀美はその背中を視線で追いつつ思っていた。あの時、フライトまでの一時間を巻きでインタビューした時に「客の揉め事の始末の問題で、店長から暫く休めと告げられた」と、半ば強制的に休暇を言い渡されたのだと話していたのだ。ずっと働いていたホストクラブだったこともあってか、思っている以上にショックだったのだと。後輩から気晴らしに一人旅でも行ってみたらどうかと言われて適当に取った国内旅行のパックプランだったはずだが、店の誰かの悪意で客にいいように言われたのか、それとも客本人がどこからか掴んだのか。実際はどうなのか分からないが、あんなことになったのだと不破は話していた。出だしからもうこけてんですよと笑った彼の声は乾いていて、加賀美はそんな彼に耳を傾けながらも、ぽつりと呟いたのだ。
「なら、そういう嫌な現実は一旦ここに置いていきましょう。飛行機に乗って空に飛んで見たことのない景色に降り立てば、もうそこは非日常ですから。旅先に降り立った瞬間から、今の不破さんとは切り離していいんですよ」
きょとんとしていた不破が、手元に握り締めていたカップの中身をまじまじと見つめた後に「なら、ホストの俺は一旦ここに置いて行きますわ」と零しながらぐいとコーヒーを呷ったのを、加賀美は何となく良いなと思ったものだ。あれは、初めて旅をする人しか得られないものだし、初めて旅をするからこそ得られるものだから。慣れていないからこそ感じることの出来る、逃避でも忘却でもない、非日常へ足を踏み入れた時に洗われる今までの自分の感覚。
「……不破さん」
「あい?」
「旅は、楽しかったですか?」
過去に飛ばしていた思考を、目の前にカップを持って現れた不破の姿を見止めたことで戻しながら、加賀美はぽつりとそう問いかけた。
「……めちゃくちゃ、楽しかった」
「ふふ、それは良かった」
「自分は家派やって思ってたけど、旅もいいもんすね」
「そうですよ。旅って、いいものです。……まあ、でも」
「……でも?」
「帰る場所があってこそですけどね」
これからまた現実へと戻っていく自分たちだけれど、それはきっと、フライトの前の自分たちとはまた違うものになっているだろう。新たな体験は、いつかの自分を塗り替えていくものだから。
人は、怒涛のようにやってくる日常を乗り越えるために。そして新しい自分を見つけるために、旅をするのだとしたら。
「おかえりなさい、不破さん」
「……んはは、ただいま。加賀美さん」
そんな非日常から帰った時、誰かが「ただいま」と言ってくれるまでが、旅なのかもしれない。