第五本目 剣持刀也 「兄」 前にあったことで、今でも時々思い出すことなんですけど。
実家で一緒に住んでる兄は仕事をしているんで、まあ一緒に住んでても時々顔を合わせないことがあるんですよね。生活ルーティンが違うんで仕方の無い事なんですけど、ある日兄がふと自宅の廊下で歩いていたのを見掛けたんです。
いや、当たり前の光景ですよ。勿論僕だってその瞬間は疑問なんて何も持ちませんでした。ああ兄帰ってきてるんだなと思って、廊下の奥に行く兄を横目で見送ってから、僕は別の部屋に入ろうとしてました。そうしたら、目の前の扉を開けた先に兄が座ってたんですよ。
流石には? みたいな声が出かけて、さっき見た背中をもう一度見ようと思って廊下の方に目をやったんですが、いるわけなくて。で、目の前の兄はいつものように他の家族と話していて、聞けばずっとそこに居たって言うんですよね。じゃあ僕が見たのは夢か幻覚か、なんか疲れてんのかなと思ってその時は気にしないことにしました。
でも、それからというものふとした瞬間に、自宅で兄を見かけることが多くなったんですよ。勿論幻覚の方、というか、見間違いの方ですね。さっきトイレから出てきたと思ったら僕の後ろからやってきたりだとか、玄関に向かってるのを見た後に玄関から入ってきたりだとか。そういうのを忘れた頃合いに見るわけで。なんか妙に気味が悪いなとは思いつつ、家族に口にするのも何かなと思ったんで、ずっと黙っていたんです。
あれはー……確か、とある収録があった日でしたね。がっくんと同じ収録だったこともあって、迎えに来てくれる予定で準備をしていたんです。で、そろそろ出るかと思って自室の扉を開けたら、一瞬目の前を兄の姿が通り過ぎました。でも、急に開いた僕の部屋に目もくれないまま歩いて行くから、ああまたいつもの幻覚だか何かだろうなと思って、廊下の先にまでは目を向けませんでした。案の定、玄関に行く途中に母へ出ることを伝えるためリビングに顔を出したら兄もいたんで、やっぱりあれはそういうものかと思って自宅を出たんです。
がっくんが迎えてくれた車に乗って事務所まで向かう途中、他愛ない会話をしながらふとさっきのことを思い出したんで、がっくんに話してみるかと怪談を話すようなノリで言ったんですよね。掻い摘みつつも何度かあったこともついでに話したら、がっくんは軽い口調で打っていた相槌の最後になるほどー、なんて言いながら僕にこう言ったんです。
「刀也さん。そのお兄さん、もし話しかけてきたりするようになったら教えてくださいね」
……何で? とは聞けませんでしたね。怖いというか、気持ち悪くて。さも当たり前のように信じたことも勿論なんですけど、何で話しかけてくるかもしれないとか、それを教えて欲しいって言ってきたのかとか、そういうことを一瞬にして考えて、うわ気持ち悪っと思った後に「わかった」とだけ返事しておきました。
──あれから、兄の幻覚のようなものはまだ見てません。これからもずっと見ないままでいたいと思ってはいます。あのがっくんの一言で、あの兄の影に「話しかけられるかもしれない」という可能性を毎度毎度過ぎらせたくないんですよね。次会ったら最後なような気がしてるのが、正直一番嫌です。