醒めきらない頭が、網膜に光を取り込む。ああ朝かと思った不破の視界には、立ち昇った太陽が映り込んでいた。眩しさに目を細めた彼の隣で、わあと小さな声を上げる女性の声が耳へと滑り込んでくる。
「ああ、もう朝なんだ。眩しいね、ミナト」
「……そうだね」
朝六時過ぎの歓楽街はひどくさみしい。闇夜の中で浮かび上がる不夜城のように、あちこちで誰かの声がしたり、ネオンがうるさく輝いているのが不破の日常であった。誰かの顔色を伺うのは特段苦だと思ったことはなかたが、時折頭の裏がぼうとすることはある。ただそれさえ不破は隠すことが上手く、夜の仕事中にそれが誰かにバレることは一度もなかった。
既に何件かアフターと称してバーを梯子した後だからか、隣にいた姫は少しばかり酔いが回っているようで口調がふわふわと怪しい。丁度道端を走っていたタクシーを停めて彼女を乗せると、姫は不破の胸ポケットへ紙切れをするりと滑り込ませてからぽんぽんと叩いた。確認せずとも、それが無言のアフター代のつもりであることは何となく察する。おそらく黙ってバーの料金を払っていた不破へのお返しのつもりなのだろう。奢りのつもりだったが、ここで今変に押し問答しても、と一瞬過ぎった不破へ笑いかけた彼女は、ひらりと手を振ってタクシーへと乗り込んで行ってしまった。どこか敵わないなと思ったのは、彼女がもう古い常連客だからかもしれない。
去っていくタクシーの背中へ手を振った不破は、その姿が見えなくなってから、また大きく溜息を吐いた。夜はもう明けようとしている、さっさと帰ってしまおうと思っているはずなのに、足は縫い付けられたように動きやしない。何度かまばたきをしてから、ようやく張り付いていた足裏が重たく動き出した頃、不破の視界に淡い桃色が唐突にちらついた。
「……んあ?」
さらりと頬を撫でた、春を思わせる風が花弁を運んできているのだと気付いたのは、目の端に大きな桜が見えたからだ。歓楽街の路地を進んだ先にある小さな公演は、遊具などないベンチばかりの素朴のまのであったが、その中心部に大木が咲き乱れていた。ここに桜の木なんてあったかと近付いて見上げた不破の目の前で、桃色の花弁はひらひらと舞い落ちてくる。鮮やかなその光彩は陽の光で浮き出されては、深い紺と橙の間で目一杯に腕を広げていた。
グレースケールの景色、落ち切った黒。時折、不破の視界はそういうモノクロで満たされる時がある。以前はよくそう見えることが多かったが、今はそれも少なくなった。夜の仕事が減ったからだろうかと不破は思っていたが、そうではないことを最近、どこかで勘付き始めていた。
偽っているつもりはない。嘘を吐いているわけでもない。けれど、それはどうして、ひどく息が詰まる心地がするときがあるのだろうか。プライドだってある、自分はこうであるという誇りもある。楽しさがないというわけでもない。ならば、何故。
『アニキー! 桜、綺麗ですよ!』
どうしてか、見えもしないはずの馴染みの顔が浮かんだ。いつだったか、四人で外ロケへ行った折、満開に咲いた桜の木を見つけた時があった。半分寝こけていた不破へ、ブロンドグレージュの彼は思い切り自分の肩を叩いて桜を指差していたのだ。眩しさに目を細めたその双眸の先で、彼は楽しそうに木へと駆け寄っていた。それがまるで、ひどく似合いで。
彼奴にはこの世界がどういう色に見えるんだろうか。そんなことを、ふと思ったのだ。そして今もそれは、同じように考える時がある。あの底抜けに明るくて、努力家の男が見ている景色は。
「……お前が見る景色、見てみたかったなあ、ハル。」
この網膜を分け合えることなど出来やしない。言葉というものは時に残酷であり、稚拙であり、無意味である。目に見えるものは目に見えるようにしか受け取れないし、それは思想や感受によって左右されるのだ。同じものを見ても、不破と彼は同じものを受け取れない。
だからこそ、時々羨望を抱く。あの青空を思わせる眩しさが見ているものは、どんなに美しく綺麗なのかを、知りたくてたまらなくなる。そんなことは、はじめから叶わないというのに。
──春冷えの霞み、明ける夜の中で浴びる花雨。この双眸には眩しすぎたと頭のどこかで思いながら、不破は踵を返し、公園を後にする。ひらりと落ちてきた花弁は、どうやら不破の頭に積もっていたようで、一度落としてしまおうかと手を伸ばしかけたものの、それはやめることにした。徒歩数十分の帰り道の間でいくつ花弁が残るか分からないが、道端に花弁を振り落としながら歩くさまはそれはそれで面白いかもしれないと過ぎったのだ。
ふわふわとアルコールを残した足取りは、冬の残り香の合間を抜けて進んでいく。心の奥底で掠めた、「本当に兄弟だったら良かったのに」などというどうしようもない感情は一度桃色の花弁の中に埋めてしまおうと、不破はゆるやかにそう思った。