朱雀散歩「あ、みなと!」
「みなとだー!」
「おーおーちびっ子元気か~?」
「げんきー!」
「そーかそーか、んならええやん」
朱雀領南西部にある、桔梗の市。この領で一番に大きい観光名所であり商い処でもあるその市には、時々ミナトと呼ばれる華美な見目の青年が訪れることがあった。市で働く者の間では特に有名で、彼がやってくると近いうちに何故か大きい商機が舞い込むなどという迷信さえあるような謎の男として、まことしやかに囁かれていたのだ。
とはいえ彼自身が何か市へと干渉するわけではなく、ただ他の客と同じように市で物を買い、飯を食い、時折馴染みの子供と遊んでくれるという、ごくごく普通の客であった。やはり昔馴染みも多いからか、見知らぬ者が増えていれば挨拶をし、見知っていたはずの誰かが居なくなっていたらその所在を訊いたりもするが、それは他の馴染みの商人でも良くやることである。人によっては彼を旅人だと言う者もいたが、それにしては旅人らしい様相もしていない。何処に住んでいるのかも分からないとされているため、市で働く者たちは彼がどこからやってきているのか、何者であるかということをてんで知らないのである。
以前、とある老舗饅頭屋の店主の爺がミナトに何処から来ているのかを聞いたことがあったそうだ。が、彼は買い込んだ饅頭を口いっぱいに頬張りながらきょとんとした後に、ぱちぱちと目をしばたたかせながらどこかに視線を向けたのだという。
彼が見た先へ爺も同じように目を向けると、そこは朱雀領北方に位置する霊山、朱明山。この土地の名を冠する氏神、朱雀の住まう山とされているその場所を見たミナトは、饅頭を飲み込んだ後にからからと人懐こそうな笑みを浮かべて言ったそうだ。
「あれ、俺ん家」
それが嘘か真かはさておき、それからというもの市ではミナトの居住地を問うのはやめにしようという暗黙のルールが平定された。理由はただ一つ、それが虚言だった場合、不敬と称されて朱雀様にすっ飛ばされるミナトなど自分たちが見たくないからである。
そうして今日も、身元不明の青年、ミナトはいつも通りの人懐こい笑顔を振りまきながら、朱の羽織りを翻し、彼の双眸と同じ紫の色硝子眼鏡をかけて闊歩している。彼が誰であってどこから来ているかなど、結局のところ市の者たちには関係がないのだ。今日も今日とて彼が楽しそうに市の者たちと喋り、飲み、食べ、遊んでいるのであれば、それで良いのだから。
◇
「お? 加賀美さんじゃん」
「ああ、不破さん。すみません、事前に連絡もなく押し掛けて。どこかでお出掛けで?」
「ん、これ」
「……饅頭、ですか?」
「そ。美味いよ、食う?」
「……なら、有難く」
時は少し傾き、朱雀領神宮殿にて。紙袋を両手に抱えて帰宅した朱雀の眼前に入ったのは、来客の間で自らの眷属から茶を淹れて貰っている白虎の姿だった。一瞬何か予定をすっぽかしたかと過ぎった朱雀だったが、白虎の一言目に無言で胸を撫でおろす。どうやら、一報無しの来訪だったらしい。玄武ならともかく、白虎がなんて珍しいななどと思いつつ、彼の疑問に答えるために傾けたのは、腕に抱えていた紙袋だ。そして少しばかり転がる、たくさんの饅頭たち。
市の者はおそらく知る由もない、ミナトの正体。──彼らが気さくに話しかけている彼が、自領の氏神である朱雀その者であるという事実は、それこそ朱雀本人が言い出さない限りは、誰も知り得ることなど出来ないだろう。
「……ん、うま」
「うちの領の爺さんが作っとるんよ。ずーっと昔から」
「ああなるほど……ん? 待ってください、あなたまさかその姿のままで麓に降りてるんですか?」
「……あっ」
「ちょっと? 不破さん?」
「あー、あーあーあー待った待った加賀美さん。一旦ちょい落ち着こ、饅頭食お」
「饅頭で丸め込もうとしないでください! 詳しく聞くまで帰りませんからね」
「元の用件から一旦聞こ、な?」
「用件も一度横に置いておきます。今はあなたのその素行から聞かねばならないですから」
「ああー、ほんま堪忍して、なっ? バレとらんから、バレとらん」
「そういう問題じゃないでしょう!」
最年長に首根っこを掴まれた朱雀は、それでもどこか楽しげに苦笑を漏らしながら白虎へと手を合わせる。これは多分、どんなに叱っても話を聞きやしないんだろうなと頭の隅っこで何となく感じつつも──白虎は、机へと置かれた紙袋へと目をやった。
氏神は、様々な方法で民草を見守っている。それが直接的であっても、間接的であっても、巡り巡って民を守り、見つめていることには他ならない。結局のところ、姿を隠し人里に降りて民草と触れ合うこの方法が、朱雀にとっての民草の愛し方ということなのかもしれない。