冬がいくら寒いとはいえ、都市部に雪が積もることは滅多にない。どんなにどんよりと落ち切った雲がかかろうとも、降ってせいぜいみぞれ程度なのがオチだ。とはいえそのみぞれも降るとやれ電車が止まるだの、やれ転ぶ人が増えるだの、やれスタッドレスタイヤが必須になるだのと面倒なことが増えるので、基本的には何も降らないでいて欲しいというのが、甲斐田の本音だった。
そんな寒空の中、ぼんやりと甲斐田が事務所の最寄り駅から緩やかな足取りで歩いていると、ふと見覚えのある背格好が自分より少し前を歩いていることに気付いた。あの紫色の髪の彼が、いつもは着ない服を着ている。最近寒くなったし、卸したてかな、なんて思いながら甲斐田はその肩をぽんと叩いた。
「もちさん、おはよ」
「ああ甲斐田くんか。おはよう」
「寒いねー! もちさんがコート着てるの新鮮だわ」
「流石に僕だって寒いからね。ブレザーだけじゃ体調崩すわ」
いつもの軽快な口調でぽんぽんと交わされる会話を享受しながら、もこもこといつもより膨らんだ年下の先輩を横目で見る。身体の薄い剣持ではあるが、聞く話によると甲斐田が思っているよりは意外と寒がりではないらしい。思えばろふまおでも寒がり代表の加賀美が十一月の中旬にはいくらか温かそうな格好をしていたのに対し、剣持は今日に至るまでずっといつもの制服だけだった。今日はここ最近に比べて確かに一段と冷える日ではあったが、そもそも剣持自体が寒さに強い方なのかもしれない。
ぼんやりと隣でマフラーに顔を埋める高校生を見て、甲斐田は無意識で息を零した。
「もちさんって高校生なんだなあ……」
「あ? 子供扱いか? アラサーがよお」
「やめてっっっっ今の僕には効くから本当に!」
「間違いないじゃん、三十路」
「うるさいなあクソガキィ!!」
けらけらとひどく楽しそうに笑うその肩を小突き、少しばかりじゃれるような口喧嘩を遊ばせる。いつも通りの会話に差し込む、底冷えの風。温まりかけた身体から体温が一気に奪われて、さっきまでわあわあと言い合っていた二人の間からすんっと言葉がなくなった。
ああ寒い、と呟いた甲斐田に、剣持は相槌を打ちながら横断歩道の手前で立ち止まる。それから、その大きな双眸をどんよりと曇った空へと向けながら呟いた。
「……雪、降ったらいいんですけどね」
「あー……でも今年、暖冬らしいですよ。降るかなあ」
「甲斐田くん異世界人だし、降らせられたりしないの?」
「天候は流石に操れないですよ。出来たら外出る時、毎日晴れにしてます」
「それは確かにそうか」
そんな取り留めのない掛け合い。ふいと視線を信号へと向けた剣持を見て、甲斐田も視線を空へと向けた。今にも一雨降りそうな雲行きは、帰りがけにはどうなっているだろうか。流石に自分には雪を降らせる術なんてものは持ち合わせていないけれど、もし降ったら、隣にいる先輩ははしゃいだりするんだろうか。……なんていう、ぼんやりとしたことを考えて。
甲斐田は、やっぱりこの先輩はなんだかんだ言って高校生なんだなあと再確認した。弁は立つし、大人顔負けだし、無茶振っても答えてくれるし、とにかく色々なことが自分より上手であるけれど。こういうところは、普通の学生の感覚を持ち合わせているんだな、などという──おそらく、口に出せばまた煽られるか怒られるかしそうなことを過ぎらせたりして。
ただ、ああ確かに──。青になった信号を渡り始めた剣持の背を追い掛けるようにして歩き出した甲斐田の口から、声がまろび出る。
「でも、雪。見たいですね」
「……そうだね」
「不破さんとかはしゃぐかも」
「んはは、確かに」
「ろふまおの外ロケでウィンタースポーツとかさせてくれないかなー」
「うわあ、なんか社長がスノボ乗るのとかちょっと想像できる」
「似合いますもんね、絶対」
「ふわっちと甲斐田くん、端で雪だるま作ってそう」
「もちさんと社長巻き込んで雪合戦に持ち込みますよ」
「社長の敵だけにはなりたくない。あー、でもふわっちも嫌だ。三対一にしよう、そうしよう」
「エッ、僕だけ孤立とか絶対嫌ですよ!?」
渡り切った横断歩道の向こう側で、剣持は肩を震わせながら隣で喚いている自分の後輩を見た。何とも言葉にはし難いような、いや、素直に言葉にはしたくない感情が沸き起こって、目を細めつつもその大きな肩をぱしんと叩き、肩を竦めてみせる。それは言ってしまえばただの八つ当たりでしかなかったのだが、こればかりはまあ、甲斐田のせいということにした。
未だ軽い口振りで言葉を交わしながら、剣持はふと頭の隅っこで思う。──まったく、気遣いと頭の回る後輩を持つと苦労する。そういうのは先輩に丸投げで良いっていうのに。──なんていう、ちょっとしたぼやきと愚痴だ。
ただ、それを口に出せば彼は調子に乗るということも重々に承知していたので、剣持はそんなことは一言も言わずに、いつもの口調で「これだから甲斐田くんは」などと笑ってやるのだった。