「卒業おめでとう!」
不意に耳へ滑り込んだ声に、剣持はふと立ち止まり、視線を向ける。新緑色の先にはどうやら、近所の学生らしい制服姿を身に纏った少年少女たちが肩を寄せて笑い合っているところだった。手に握る一輪の花や大きな紙袋に詰まっているお菓子、風船がどこかお祭り感を醸し出している辺り、彼らは誰かに見送られた立場なのだろうということが見て取れる。
そうか、もうそんな時期か。ゆるやかな逸らしと共に彼の双眸は、近場で背を伸ばしていた木へと移り変わる。今年は暖冬だという話であったはずなのに、未だ寒さが尾を引き続けている三月上旬の東京の花は、つぼみのままで風にその枝を揺らしていた。
春は出会いと別れの時期であるらしい。十六歳を繰り返している剣持にとっても、確かにそれは正しい認識であった。この身は学生として日々従事しているが、春はすべてがまっさらになる。いつかの友人たちは年を繰り上げて先輩になり、学び舎を旅立っていく。剣持は数年前から既に学校行事には出席せずともよくなっていたが、卒業式だけは毎度顔を出していた。笑顔と少しの涙を携えたかつての友を見送るために。社会という名の世界に進んでいくだろう彼らの背を覚えておくために。
自らの年齢が止まっていることを、剣持は停滞とは呼称していない。特段悲観もしていなければ、悲哀のつもりでもない。ただどこか、これに付随する言葉は。
「…………何だろうな。」
見つからなかった。羨望でもなければ、憧憬でもなく、喪失とも言えない。ただ揺蕩う、薄くかかった寂寞のような。けれど間違いなく、新しい道へと踏み出した彼らへの賛辞は胸の底から湧き出している。
木漏れ日の温かさの中で、少しだけ風に奪われた末端の冷たさのような心地。この時期における離別は、そういうなにかを感じる気がした。冬から春におけるいくばくかの感傷が剣持の胸を支配した時、彼はまたふいに視線を空へと上げた。
青空はどこまでも澄んでいて、雲はただ静かに流れている。あと少し暖かくなれば、この景色に桃色はとてもよく映えるだろう。新生活を祝福するように、揺れるはずだ。ああそれはどれだけ、喜ばしいことなのだろうかと。
指折るように数えた思い出を、忘れ去ることはない。どれだけの出会いがあれど、過ごしてきた季節は消えることなどないのだから。
故に、思う。門出はいつだって、見送る側は嬉しいのだ。
「卒業、おめでとうございます」
誰にでもなく漏れ出た言葉は、ゆうるりと息になって揺蕩った。春桜の季節、着慣れた制服が変わるであろう、あの日の彼らに向かって。