加賀美が初めて異変に気付いたのは、以前収録の折に甲斐田が作業のためにと袖を捲った時、前腕に真新しい傷のようなものを見たのが最初だった。インナーの端からちらりと顔を覗かせたそれはまだ痛々しいほどに赤く、おそらく最近出来たものだろうと察するのは容易なものではあった。が、加賀美はそれに声をかけることはなく、知らないふりをして視線を逸らすことにしたのだ。
自らのユニットメンバーが異世界人であることは勿論理解している。彼の国は当たり前のように未知の何かと戦い、尊い命が喪われることもあるような場所であるとも。住む世界が違えばそんなこともあるか、と加賀美は結成時頭のどこか遠いところでそんなことを思ってはいたが、目の前の甲斐田は割と普通そうだったとでも言えばいいだろうか。彼と過ごすことが増えた半年か一年の節目頃に、一人で今までのことを振り返り何となくひとりごちたことをよく覚えていた。そりゃあそうだ、普通そうにしているに決まっているだろうなんて、自分が傲岸不遜な面を取っていないのと一緒だと気付いたのだ。まあそもそも、加賀美自身代表取締役としての一面の時も傲岸不遜な面など取ることはあまりないのだが。
つまる話何が言いたいかというと、加賀美は甲斐田の前腕にまざまざと残っている傷を見て、ああ彼はそういえば異世界人だったなと何となく思い出したのである。
「甲斐田さん」
「はあい」
ただ、その日を境に、加賀美の中で何度もあの時感じた例の違和感を抱くことが増えてしまった。とある日には彼の爪の先が黒く焦げていることもあったし、またとある日には掌に小さな切り傷がついているのを見かけたこともあった。おはようございますと入ってきた時、薄っすらとした鉄臭さが鼻腔をついたこともあったし、一度ぎょっとしたのは彼の羽織りの裾に、少しばかり血が飛んでいるのを見たことだった。流石にその時はこっそり声をかけ、慌てた彼はすぐに洗い落としに休憩室を出ていったけれど。
そんなわけで、加賀美は自分の中で作り上げた甲斐田という人物のイメージと目の前で何度も見つけてしまう事柄のズレのようなものを、どうにかして脳裏で合致させようと努力していた。彼は異世界人なのだから、そういう世界に生きている者なのだから。そう言い聞かせるように何度も何度も、自分の中で納得をつけようとしていた。
それが、加賀美の中で、自分が彼に出来る最大限の配慮であると思っていたのだ。
「……つかぬことを聞くんですが。甲斐田さんって記憶違いでなければ、研究職ではなかったでしたっけ」
「そうですよ。間違ってないです」
「では、その。……どうしてそんな事態に?」
それは何の変哲もない、とある収録現場での出来事だった。加賀美と甲斐田はそれぞれ別の録音作業のために事務所を訪れており、本当にただの偶然でばったりレコーディングブースの待合室で顔を合わせたのだ。歌詞を読み込んでいた加賀美の視界端に映り込んだ見慣れた羽織りのカラーリングに、挨拶をしようと顔をあげる。その瞬間、目に飛び込んできた彼の顔に思わず言葉がつっかえてしまったのだ。
いつもは眩しいほどに輝いている青の双眸。そのひとつが今日は何故か眼帯によって覆い隠されていた。いや、それだけであれば特段加賀美は何も言い出さなかっただろう。問題はその隠されている目の下あたり、頬に伸びる肌へ大きく真新しそうな赤い傷がありありとついていることだった。
流石に加賀美もどうしたんですか、それ、とうっかり声を抑えることもなく零してしまうと、甲斐田は苦笑を浮かべて「魔にやられちゃいました」と返してきた。まるでさも、失敗をしてしまったかのように、笑みを浮かべて。
だからだろうか。ずっと加賀美の中で抱いていた違和感が、ぶわりと大きく膨れ上がったのは。
「ええと、僕の研究所って魔の研究とかで生きたものを観察として飼うことがあるんですよね。やっぱり中には獰猛なのもいまして……今回はちょっと僕がヘマをやらかしちゃったってだけです」
すみません、と付け加えられた謝罪を聞いて、やはり加賀美はどこか疑問を拭えずにいた。その謝罪は、どういう意図があるのだろうか。自分が謝られる理由などなく、ただ甲斐田さんはそうやって傷を作っていて、危険を冒してまで研究を辞めずに。
とうとうと思考が巡って、何も言えない口が薄い息を吐くことしか出来ない。何か言わなければとどこか頭の端で思っているはずなのに何も口に出やしないままでぼうと彼の顔を見上げていると、ふと甲斐田が何かに気付いたように四角い箱のようなものを取り出した。彼の羽織りにも記されている十字にも似たマークが彫られたそれに、甲斐田は手を翳しながら一度加賀美の元から離れる。その背を見送りながら、加賀美は頭の中をぐるりと回り続ける思考をどうにかして繋ぎ止めようと床を見た。
自分が何を思わんとしているのか、何を言わんとしているのか。大人になってもそんな、言語化につまるような出来事が横たわるなんて思いもしなかったせいか、一巡しても的確な言葉は見つからないままだ。何だ、と口を小さくついて出た一言は、丁度何かをして帰ってきたらしい甲斐田の足音で掻き消えてしまった。
「社長、すみません。次ブースの使用、僕飛ばして繰り上げちゃってもいいですか?」
「え。ああ、別に私は構いませんが……急用ですか」
「はい。桜魔に帰らないといけない用事が出来ちゃって。急ぎってほどじゃないんですけど、早めにやっつけちゃいたいので帰ろうかなと」
「……」
甲斐田のその一言を聞いた瞬間、加賀美は唐突に胸の奥底で燻っていた違和感がまた大きく膨れ上がって、頭ごと支配してしまいそうな心地に襲われた。目の前の甲斐田が何かを言っているはずだというのに、それらが耳を通り抜けては引っ掛かることさえしなくなっていく。
それなのに、目の前にいた甲斐田が「じゃあ、お疲れ様です」と言った一言だけが急に加賀美の頭をクリアにした。咄嗟に立ち上がりつつも彼の手首を掴むと、振り返った甲斐田は驚いた表情で加賀美のことを見つめていた。
放した方がいいと、頭では分かっていた。けれど、身体はひとつも言うことなど聞きやしなかった。
「どうしたんです社長、何かありました?」
「いえ。……特には、無いのですが」
「はい」
「……どうしてでしょう。離してはいけない気がして」
正直なところ、自分でもどうしてそうしているのかが分からない。けれど加賀美の表情を見てか、向かいの甲斐田は何処か哀しさを滲ませた笑みで加賀美を見る。
その瞬間。加賀美は自分の中で抱いていた違和感の正体にようやく気付いた。彼は間違いなく異世界の住人で、常に死と隣り合わせるような世界に居る。そんな当たり前ことを反芻して、だからこそ加賀美は鮮明に、強烈に、ただ強く思った。
「分かっています。分かっていますよ。甲斐田さんには甲斐田さんが守りたいと願う世界がある。それは理解しているんです。……けれど、あなたにとってのそれであるように、私にとって守りたいものの中に、あなたが入っている、のだと思います」
自分が彼であれば、きっと自分だってそうしている。大切な世界を、人々を守るためならば命を賭すことも厭わないだろう。けれど、どうしたって自分は彼にはなれないし、彼は自分には成り得はしない。だから。
加賀美は、確かめるように思考する。彼は間違いなく、自分の大切なユニットの仲間であり、友人の一人なのだと。だから、喪いたくないのだと。彼が彼の守りたいと願うものを守る過程でその尊き命を消費することは、どうしても嫌だった。
そんな、子供のような我儘を。彼を尊重すべきであると重々に承知している大人の自分が堰き止めていた。無意識下の攻防は、加賀美の中で違和感として在り続けていたということに、今更気付いたのだ。
いつもであれば遠慮と謙遜で深いところに突っ込むことなどない加賀美が発した言葉だったからだろうか。甲斐田はどこかやはり驚いた表情のままで加賀美が握っていた自分の手首を見て、もう一度加賀美の方を見る。そうして、少しばかり嬉しげに目尻を落としてから、自分の手首を握る加賀美の手の上から、空いた方の手を重ねた。
「……思います?」
「……すみません。実は今自覚しました。情けないことに」
「あははっ、社長らしいなあ」
「元々心配自体はずっとしていたんですが、こう……甲斐田さんは甲斐田さんがすべきことがあるということは分かっていたので、口出すのもなと思い……」
「うん。……ありがとう、社長。心配してくれて」
そうして笑みを深めながら、甲斐田はそうっと加賀美の手をゆるやかに握った。お互いの少し温い体温が、双方の生を鼓動と共に伝えている。それだけで加賀美は少しだけ、ああ生きているんだと安堵に似た溜息を吐いた。
どうか、出来得る限り生きていて欲しい。そんなどうしようもない、叶うはずのない願いが過ぎる。けれど加賀美にとって甲斐田という男は、血の赤も百合の白も、棺の黒も似合わない人であるという思いがあった。どこまでも澄んで伸びる、快晴の青が何よりも似合う人だと。
「大丈夫、早々死にやしないですよ」
そんな加賀美の心情を見透かしたように、甲斐田は笑った。
「まだまだろふまおでやりたいこと、沢山ありますしね。そんな簡単に死ねやしないです。ワンマンライブだって一回とは言わず、二回だって三回だって、何度だってやりたいじゃないですか」
「……ええ、勿論です」
「でしょ。ファンの皆にまだ見せてないものだっていっぱいあるし。っていうかそれこそ僕が死んだら、円満解散なんて言えないじゃないですか。もちさんにガチギレされる方が僕は怖い」
「……っははは!」
「だから、大丈夫です。意地でも死にませんから」
そうやって、まるで憂うことなどないとでも言いたげな甲斐田の表情は、まるで嘘などひとつも滲むことなく、晴れ間に浮かぶ太陽のような笑顔だった。故に加賀美は、やはり残り続けはする一抹の心配を一度心の奥底に眠らせて、握っていた手をようやく離した。
心配することが仲間であるならば、信頼することもまた仲間だ。そう、自分に言い聞かせて。
「……気を付けてくださいね」
「はい」
たったそれだけの応酬だけで、加賀美は国へと帰る甲斐田を見送る。また次会える時にも、同じようにまばゆいばかりの笑顔を見せてくれることを信じながら。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい、甲斐田さん」
そうしてスタジオの扉を出ていった彼の翻った羽織りの裾を見つめて、目の奥に焼き付けた後。少しだけ張り詰めていた息を吐き出しながら、加賀美は壁へ凭れるように背と後頭部を預けた。
胸に去来する不安と戦うのは、いつでも待つ側の苦悩でもある。それを改めて、認識してしまった。この歳になってそれを抱える羽目になるか、そう過ぎらせて。
それでも、彼は行ってきますと言ったのだから。
「……ただいまを、お待ちしていますよ」
そうぽつりと零した加賀美の一言は、誰にも聞こえることはない。けれど間違いなく、一人のとある研究者を守る祈りとして、彼に降り注いでいた。