「誰だ! 俺のカバンに虫のおもちゃ大量に入れたやつは!!」
「まぁ、かずさんしかいませんよね」
「はーちゃん、チクっちゃダメ☆」
「今日こそは許さねぇ!!」
「キャー、ひーちゃん激おこ〜」
「ちょ、ちょっと喧嘩はやめよう? ね、臣くんも落ち着いて、あっ!」
それは練習中に起こった。春宮永臣がペンを取り出そうとカバンを開けたところ、大量の虫が入っていた。あまりの気持ち悪さに一瞬固まったがよく見ると動いていない。本物そっくりな偽物だと気づき、春宮は目を吊り上げて怒り出した。こんなイタズラをするやつは一人しかいない。わかっていたがあえて尋ねるように怒れば、反郷粋が楽しそうに頬を緩めて誰がやったかを白状した。やった本人――伊佐良和も告げ口した反郷も、春宮が怒ったところでまったく気にしていない。ヘラヘラと笑っている二人に春宮の怒りが頂点に達する。それに気づいた二人が逃げ出し、春宮は追うために足を踏み出した。そこへ今までハラハラと様子を見ていた大里帆波が手を伸ばした。なんとか春宮の服を掴んだ大里だったがそれで春宮が止まるはずもなく、暴れる春宮の腕がペットボトルを持っていた大里の腕に当たる。しまったと思った時には遅く、ペットボトルが宙を舞った。
「しゅーちゃん、危ない!!」
春宮と大里が目で追うペットボトルの先には、楽譜を見て話し合う柊迫侃と雛乃秀がいた。いつもの喧嘩だと気にせず話し合いをしていた二人はペットボトルに気づいていない。そのことに気づいた伊佐が声を上げる。柊迫が顔を上げ、その顔が驚きの色に染まった。雛乃も顔を上げたが、ペットボトルに背を向けているため気づかない。柊迫の視線を辿るように振り返ると、ペットボトルが水を撒き散らしながら雛乃に当たった。
「っ」
「しゅーちゃん!!」
「秀さん!?」
ペットボトルの当たった頭を押さえながら雛乃が蹲る。伊佐が慌てて駆け寄り、隣にいた柊迫はしゃがんで雛乃の様子を見た。頭を押さえる手や首がいつもより細く見え、シャツが肩からずり落ちているように見える。疲れているのかと瞬きをしてもう一度見たが、柊迫は先ほどと変わらない感想を抱いた。
「しゅーちゃん、どうしよう……」
「どうもこうもないだろ」
しかも伊佐と話した雛乃の声がいつもの低音ではなかった。それどころか柊迫の聞き間違いでなければ女性の声に聞こえた。どういうことだと柊迫が悩んでいると、春宮たちがやってくる。
「おい、怪我はねーか?」
「風邪をひくといけませんし、体操服を持ってきましょうか」
「ごごご、ごめんよー! まさかペットボトルが飛んで秀くんにあたるなんて!?」
「いや、気にするな。元はといえば伊佐が悪い」
その声に春宮、大里と反郷がピタリと動きを止める。雛乃の声がいつもと違うことに気づいたようだ。春宮がどういうことだと目を向けてくるが、柊迫もわかるはずがなく柊迫は首を横に振ることしかできない。その時、雛乃が顔を上げた。顔が雛乃なのに雛乃じゃなくて、伊佐以外の四人がピシッと固まる。
「あー、しゅーちゃんの美少女顔にみんながやられてる」
「男が女になったから気持ち悪いんだろ」
「何言ってんの!? しゅーちゃんほどの美少女は他にはいませんー!!」
「わかったから騒ぐな」
――この受け流し方は間違いない。
少女が雛乃であるということを理解した四人だったが、はいそうですかで終わる面子ではない。
「はぁあぁああ!? え、なんで? なんで秀くんが女の子になってるの!?」
「これまたえらい美人さんですねぇ。かずさん睨まないでくださいよ。心配しなくても俺はほっさん一筋ですから」
「え、ほんとに秀さん女の子なの? なら俺と甘いもの食べに行こ。あと猫カフェも」
「おい侃、なんで俺じゃなくて雛乃を誘うんだよ。雛乃、侃と出かけるなら俺も一緒に行くからな」
「俺は構わないが柊迫の許可を取ってからにしてくれ」
そう言って雛乃が立ち上がった瞬間、制服のズボンがストンッと落ちる。伊佐以外の四人は慌てて目を逸らした。
「あ、すまない」
「服がだぼだぼのしゅーちゃん、ちょー可愛い!! これ彼シャツじゃん! 自分のだけど彼シャツじゃん!?」
「何を言っているんだ、お前は」
赤い髪をかき上げながら、雛乃はため息を吐いた。楽しそうに飛び跳ねる伊佐はこのことについて説明する気はなさそうだ。いまだ雛乃から目を逸らす四人にはなんと説明をしようか。また面倒なことになったと頭を悩ませながら、とりあえずズボンを上げようと雛乃は手を伸ばした。
***
その日、雛乃はいつも通り伊佐と校舎を出ていつも通りの帰り道を歩いていた。いつも通り伊佐が一人でよく喋り、いつも通り雛乃は適当に相槌を打つ。そしていつも通りの分かれ道で雛乃は伊佐と分かれ、いつも通り一人で歩き出した時だった。
ポケットに入れてあった携帯が震えた。取り出して確認すると、先ほど分かれたばかりの伊佐からの電話だった。忘れ物でもしたのだろうかと携帯をタップする。それを耳にあてようとした時、強く押されて雛乃の身体が傾いた。持っていた携帯が手から滑り落ち、何が起きたのかわからないまま道路とは反対側へ倒れていく。掴むものはないかと手を伸ばしたが空を切るだけで、バシャッという音と衝撃を受けて雛乃の意識は黒く染まった。
「で、電話が繋がったのに何も話さないしゅーちゃんのことが心配になり、引き返した僕が倒れてる美少女しゅーちゃんを見つけたってわけ」
「なにそれ怖い。でも秀さんが川から出られてよかった。そのままだったらと思うとぞっとする」
「それがその時の記憶が曖昧で、どうやって川から出たのか記憶にないんだ」
「僕が着いた時には川から上がって倒れてたし……誰かが助けてくれたとか?」
「それならかずさんが助けてくれた人と会うんじゃないですかねぇ? そんなに距離は離れてなかったでしょうし」
「でもでも何で秀くんは川に落ちたんだろ。たまたまぶつかっちゃったのかなぁ? じゃなかったら」
「誰かの恨みを買って突き落とされたか……」
一通り説明をした雛乃の後を伊佐が引き継ぐと、それぞれが思ったことを口にした。春宮が言うように恨みを買うようなことをしたのではないかと雛乃も考えたのだが心当たりはない。一同が無言で頭を捻る中、反郷がふと雛乃に目を向ける。
「ところで学校や警察に連絡はしたんですか? また同じことが起こるかもしれないし、もし通り魔的犯行なら次は違う誰かが被害に会うかもしれない」
「そうなんだが女のまま警察にも行けないし、濡れてるから家に帰ることにしたんだ」
「お風呂に入ったら今度は男の子に戻って、どうゆうこと!? って騒いでたら行くタイミング逃したよね〜」
「水を被ったら女に、お湯を被ったら男になるなんて言えないし、川に落ちただけだからな。足を滑らせたんじゃないかと言われて終わりだろう。だから誰にも言わなかった」
「そうだったんですね」
雛乃の言葉に納得したのか、反郷が頷きながら呟いた。練習を中断して始まった説明も終わり、雛乃は隣に座る伊佐を見上げた。気づいた伊佐が雛乃に笑顔を向ける。
「どったの、しゅーちゃん?」
「悪い。お湯をもらってきて欲しいんだが」
「お湯か〜」
「購買にならあるんじゃない? カップ麺用にお湯が常設してあるから」
「ありがと、ふっきー。僕もらってくる!」
バタバタと教室を出て行った伊佐を見送ると、反対隣に座っていた柊迫が声をかけてきた。振り返ると普段とは違い高い位置に柊迫の顔があり、雛乃は視線を上に向ける。
「やばいよ、秀さん。その表情はいけない。勘違いする人続出だよ」
「何のことだ? 俺は柊迫を見ただけだ」
「秀くんの上目遣いがめちゃかわ! ってことだよ!!」
「上目遣い……?」
「無意識ですよねぇ」
「普段自分より高いやつなんていないからな……約一名を除いて」
春宮の言葉に柊迫、大里、反郷は今いない伊佐を思い浮かべた。伊佐は毎日、この上目遣いを見ているのだろうか。
「それで柊迫はそんなことのために俺を呼んだのか?」
「え、あー違うよ。秀さんにお願いがあって。さっきも言ったけど、ケーキ屋さんや猫カフェに一緒に行ってほしいんだ。お客さんが女の子ばっかりで男一人で行くのは気が引けるんだよね」
「そういうことか。俺は構わないが、春宮と二人で行くのは駄目なのか?」
「猫と戯れたいのに、女の子が群がる臣さんの相手はしたくない。ケーキ屋さんも同じく」
「そうか」
疲れた顔をする柊迫から視線を動かすと、俺のせいじゃないと不貞腐れる春宮が見える。不可抗力だろうが恋人がナンパされる姿は見たくないだろう。雛乃は柊迫に視線を戻すと手を伸ばしてポンポンと頭を撫でた。それに驚いた柊迫がそっぽを向いて恥ずかしそうに頬を染める。
「練習がない時ならいつでも空いている。日時を決めたら連絡してくれ」
「……ありがと」
「おい、俺も行くからな!」
「オレもオレも! 面白そうだから行きたい!!」
「ほっさんが行くなら俺も行きたいですねぇ」
「ちょーっと待ったぁああぁあ! しゅーちゃん、浮気はいけないよ!!」
「早かったな」
大きな音を立て勢いよく開かれた扉から、伊佐が雛乃に飛びつくように入ってくる。勢いのまま抱きついてきた伊佐をそのままに、雛乃は伊佐を見上げた。
「みんなとカフェに行くことになった」
「聞こえたよ〜」
「伊佐も行くだろ」
「え?」
「行かないのか?」
「……行きますぅううぅぅう!!」
伊佐が両手で顔を覆って何か呻き出す。それを不思議そうに見つめる雛乃だったが、大事なことを思い出し伊佐の服を引っ張った。
「お湯はあったか?」
「アリマシタ。コチラデス」
片言で答える伊佐からボトルを受け取り、雛乃は蓋を開ける。ボトルを傾けて頭にかけようとしたら、大里の大声に阻まれた。
「そのままかけるの!?」
「そうだが?」
「服や床が濡れません?」
「少しなら大丈夫だろ」
「火傷はしない?」
「それなら水を足してきたので大丈夫でぇっす!」
「そうか」
伊佐の言葉に短く返すと、雛乃はくるっとボトルを傾けた。湯が勢いよく頭に落ちる。バシャッという音とともに真っ白な湯気がもくもくと立ち上った。そして湯気が消えると、元に戻った雛乃がいた。