雨「わー、降ってきちゃったね」
俺の嘆きに虎於くんは小さく「ああ」と返してため息をつく。一緒に見上げた空は、灰色の雲に覆われて泣いていた。
雨予報が出ていたことは知っている。ただ、予報では1時間後から降り始めるはずだった。もう少しだけ持ち堪えてほしかったな。
今日は虎於くんと同じ現場だった。仕事終わり、偶然にもそれぞれのマネージャーの車が停めてある場所が一緒で、せっかくだからと二人で向かうことになった。
そこで問題が一つ。
訳あって現場付近の駐車場が使えず、停めてある場所まで少し距離がある。そこまで徒歩で向かう必要があるのだ。
困った顔の虎於くんを横目に、俺は自分の鞄の中へ手を入れる。
「はい、これ」
中から折りたたみ傘を取り出すと、虎於くんは驚いた顔で何度かパチパチと瞬きをした。
「さすがだな」
「天気予報を見て念のため持ってきたんだ」
「これで心配なくなったな。じゃあ行くか」
そう言って虎於くんはサッと歩き出す。俺は慌ててその腕を掴んだ。咄嗟だったので少し力を込めすぎたかもしれない。
「待って待って待って!いま傘差すから」
「ああ、そうしろ」
「うん。……あ、だからちょっと待って先に行かないで!そのままだと濡れちゃうよ」
「俺は傘持ってないから」
心底不思議そうな顔で首を傾げる虎於くんの腕を、いよいよ離せなくなる。何一つ伝わっていないことが分かった。
「俺だけ差して歩くなんて出来ないよ!ほら、一緒に入ろう?」
「一緒にって……あんたそれ、どう見ても一人用だろ」
指差された傘は、確かに決して大きくはない。二人を雨から守ることは出来ないだろう。
「それはそうだけど……じゃあ、はい!虎於くんが使って」
「なんでだよ、それだけは絶対に違う」
「違わないよ!俺は虎於くんが濡れないようにこれを出したのに」
「龍之介が使えばいいだろ。俺なにか間違ったこと言ってるか?」
「言ってる」
「いや言ってないだろ……」
呆れ顔の虎於くんにめげそうになる心を強く保つ。だってこんな雨の中を無防備に歩かせるなんて絶対に嫌だ。
「虎於くん、選択肢は二つだよ。二人で傘に入るか、虎於くんが使うか」
「絶対におかしい」
「おかしくない。ほら、選んで」
「…………その二択なら……二人で入る」
虎於くんは、俯きがちにモゴモゴとそう答えてくれた。
そんなわけで、いざ雨の中を歩き出したわけだが、やはり予想通りの展開だった。
「虎於くんもっとこっち寄って!肩がびしょ濡れじゃないか!」
「もう十分寄ってる!龍之介こそ、そっち側どうなんだ、見せてみろ」
「いや、お、俺は大丈夫だから」
「ほら見ろ!俺のこと言えないじゃないか!」
一人で差す時でさえギリギリ濡れるかどうかといったサイズだ。二人で入るのは誰がどう見ても無謀だった。
虎於くんは「だから言ったのに」と悔しそうな顔をしているけれど、俺はと言うと、実は少しだけ楽しくて頬が緩むのを必死に堪えていた。
虎於くんが俺に遠慮なくいろいろ言ってくれることとか、いろんな表情を見せてくれることとか、何よりこうして何の疑問も持たず近い距離で過ごしてくれることが、どうしようもなく嬉しかった。
「虎於くん、風邪引いちゃうといけないからちゃんと傘の中に入って」
そう言いながら濡れた肩に手をかけてこちらへ引き寄せる。
虎於くんの身体が驚いたようにビクッと跳ね、それからピタッと立ち止まった。
「お、おいばか、外だぞ」
「え?」
「誰かに見られたらどうするんだ」
「えっと、見られてまずいことある?」
「え?」
「男女ならまだしも、俺達だし……」
暫しの沈黙。虎於くんは慌てた様子で視線を漂わせ、小さく「あー」と呟き、それから完全に俯いてしまう。
「………………いや、その、なんでも、ない」
髪の間から見える耳が真っ赤になっている。
ああ、可愛いな。
そんな反応されたら、俺、調子に乗っちゃうよ。
「ねえほら、もっとこっち来て?」
「やめろ、触るな」
「嫌?」
「……その聞き方は、ずるい」
虎於くんは少しだけ顔を上げ、上目遣いにこちらを見る。照れたような、睨んでいるような、とても複雑そうな目だった。
それを無言で見つめ返していると、突然「あ!」と叫んで虎於くんはバッと顔を上げる。
「龍之介!傘!」
「あ、バレた」
「何やってんだ!頭まで濡れてるじゃないか!」
気付かれないのを良いことに傘を虎於くん側へ寄せていたのだが、ほぼ全身が雨で濡れた状態の俺を見て、彼はひどく怒ってしまった。
「あのな、そんなことされても嬉しくない!」
「分かった、もうしないよ」
「全然分かってない!もっと自分側に差せ!もういい、俺が持つ!」
虎於くんが俺の手から傘を奪う。今度は自分が傘から出ようとするから、それを阻止するために距離を詰めて肩を組んだ。
「ちゃんとくっ付けば濡れないよ。ね?」
「あんたは、ほ、本当に」
わなわなと震える虎於くんの顔を覗き込む。
赤くなった彼は俺の目を見て、少しだけ戸惑った様子を見せて、それから小さく息を吐く。
「……本当に、ずるい」
彼は困ったように眉を下げながら、小さくほほえんでくれた。
再び歩き出すのと、それぞれのマネージャーが傘を持ってこちらへ走って来るのはほぼ同時だった。
「現場で傘を借りれなかったのか」「なぜ自分達に連絡しなかったのか」と散々お叱りの言葉を受け、「気が回らなかった」と申し訳なさそうに答える虎於くんの隣で心の中で謝罪する。
ごめんね。同じ傘に入れると思ったら嬉しくて、他の方法なんて一つも思い浮かばなかったよ。