むらさきの空 鏡が傾くと夜になる。見上げれば、視線の奥に星屑のような光が広がっている。でもあれは星じゃなくて人工の光。
今日の天気は、終日、晴れ。あらかじめ決められている天気と日照時間。全部が計算されている世界。でも、だからなんだっていうんだ。私はただ、やるべきことを、やるだけ。生きるとは、そんな日々の繰り返しだ。夢や希望なんて、生死の前では、いっきにかすむ。
視線を前に戻し、日銭を握りしめて、帰宅を急いだ。
――ピロリン。
しかし、踏み出した足がスマートフォンの音に呼び止められた。画面にはマチュのアイコンと、メッセージが表示されている。
『ニャアン、これから、ひま?』
――これから?
上に表示されているデジタル時計をちらりと見てから、画面のロックを解除して、両手で文字を打ち込む。
「これからって、もう夜だけど?」
すぐに返信が返ってきた。
『暇?』
「まあ、暇っちゃ暇、かな」
『そしたらさ! ちょっと私に付き合ってよ』
――えっ!? 今から?
文字を入力するためにスタンバイしていた指が、宙で止まる。しかしすぐに、「えっ、今から?」と、思ったままを打ち込んだ。
『うん、今から! 待ち合わせは、あの神社で! よろしく!』
私の戸惑いなどお構いなしに、待ち合わせ場所まで一方的に決められてしまった。
もしこれが電話だったら、「あ、ちょっと待って」などという動揺が、少しは伝わったかもしれない。でも、テキストメッセージでは、それができなかった。
腹の虫が素知らぬ顔で、私を帰宅へと急かしている。腹に手をあてて、歩いてきた道を振り返る。このまま戻れば、待ち合わせの神社には行ける、けど。
「おなか……すいたな……」声に力が入らないほど、お腹が空いていた。
テールランプが視界を横切り、騒音が耳をかすめていく。マチュはもうご飯食べたのかな。呼び出したのはあっちだし、夜ご飯くらい付き合ってくれる、よね。
私は背中に背負っているリュックサックの紐を、ぎゅっと握ってから、足跡をなぞるように引き返した。
◆
階段を登りきると、マチュは先に着いていた。街の騒音はこの神社までは届かず、私たちだけ世界から切り離されたみたいだと、ここに来ると、いつも思う。
「――よっ!」私に気づいたマチュは右手をあげる。
「どうしたの? 突然呼び出したりなんかして」
「いやいや〜……深い意味はないんだけどさァ」
そう言いながら、彼女は突然、両手を伸ばして私の前でくるくると回りだした。セーターの丸みをおびた袖から見える五本の指はピンと伸びていて、プリーツスカートのひだが優しく広がった。
私は、ふわふわとした心地で、そのなめらかな動きを目で追っていた。まるで夜に踊る自由の女神、そんなふうにも見えた。しかし、それを否定するかのように、マチュがピタリと動きを止めた。そして突拍子もないもないことを口にする。
「ニャアンの家に行きたいなって!」
「えっ!?」
「ていうか、泊まりに行きたい!!」小走りで寄ってきて、私の顔を下から覗き込む。
予想だにしない提案に、思考が追いつかない。なんて返せばいいかまごついていた私に、マチュは念を押すように、「いいよね?」と聞いてきた。
「え……と、家は大丈夫なの? ほら……親、とか」
「うん大丈夫! 今日は仕事で帰れないんだって」
そう言うと彼女は、また、くるくると踊り出した。気分がいいのか、鼻歌なんか歌っている。
彼女を断る理由は見当たらないし、家に入られて困る理由も、特にない――あ、いや。正直、プライベートな空間を詮索されるのは苦手だけど。
でも、「友達とお泊り」という少し特別な響きが、私の中にある密かなときめきをくすぐって、炭酸のようにぷちぷちと広がっていく。
マチュはいつだって、私の想像の上をいく。
「そう。それなら、うん。まあ、狭くてもいいなら」
「やったー!」彼女はぴょんぴょん飛びはねながら、両手を上にあげる。
「あ、でもその前に」浮かれている彼女の動きを右手で制した。お腹はもう、ペコペコだ。「夜店でご飯を食べたい……」
「夜店? ああ、それなら大丈夫だよ! ほら!」
マチュはおもむもろに自分のリュックサックを開ける。私は首をかしげながらその中を覗きこんだ。次の瞬間、目を見開いた。カップ麺に、クリームパンやあんドーナツなどの菓子パン類。おにぎり。しかも、クリームがふわりと盛られたプリンは二個もある!
「食べるものは、た〜くさんあります!」言いながら、ニイ、と笑った。「一緒に食べよ!」
「う、うん。ありがと」
用意周到なマチュに面食らった。私が断っていたら、これらはどうなったのだろう。しかし、そんな些細な疑問は、マチュと一緒にクリームが乗ったプリンを食べたいな、という甘い高揚感によって、隅に追いやられていった。
上を向く。変わり映えのない街の光が、少しだけ、色鮮やかに思えた。
いつのまにか階段を降りようとしていたマチュが、「早く行こー」と私を手招きしている。駆け足で彼女の背中を追いかけた。
◆
人を家に呼ぶのは初めてだった。そのせいか、ドアノブにかけた手に、緊張がぴりっと走った。スチールのドアを開けた瞬間、後ろから、待ってましたと言わんばかりの様子のマチュが声をあげた。
「へえここがニャアンの家かあ! おじゃましまーす!」
脱ぎ捨てた私の靴の横で、マチュは自分の靴を揃えている。視界に入った彼女のしぐさに、私は思わず、目をそらした。マチュはハイバリー高校のお嬢様で、私と違って育ちがいい。脱ぎ散らかした私の靴に、彼女は気づいたのだろうか。
しかし、それはとんだ杞憂だった。
「わあ! お風呂とトイレが一緒なんだね!」
「あっ、ちょっと勝手に開けないでよ!」
人の家に上がるやいなや、マチュは断りもなくユニットバスのドアを開ける。
「ニャアンって紫好きなの?」トイレの蓋のカバーを指さして言った。「その制服も紫だしさ」
「別に、安かったから買っただけ」
人の家のドアを勝手に開けるマチュに、私の靴が乱れていることを気にするなんて、そんな繊細な部分があるわけがない。
呆れながらため息を吐いたら、肩の力が少し抜けた。
「ふうん。そっか」マチュが両手でドアを閉めた。
私のすぐ隣にいるマチュ。いつもより彼女の気配が濃く感じられた。部屋が狭いからだろうか。一挙一動が気になってしかたない。
「ベッドにでも座って」部屋の中をぐるりと見渡しているマチュに言った。「なんか飲む? って言っても麦茶しかないけど」
「飲むー! あっ、そうだ夜食! ニャアンは何食べる? カップ麺? おにぎり?」
彼女はベッドに座り込み、あぐらをかきながら、リュックの中を漁る。
「カップ麺」私はマチュに麦茶を渡しながらそう答えた。
「オッケー!」
かわりに、カップ麺を受け取った。
それからマチュはおにぎりを片手に、「よいしょ」といいながらベッドから降りて、そのまま窓へと歩み寄る。
「いやしかし、ここはずっと騒々しいねぇ! ずっとこんな感じなの?」
窓を開けて下を覗き込むマチュの、ピンク色の髪の毛がなびいていた。
「うん、でも今日はまだまし。昨日なんて、どっかの誰かが喧嘩してたよ」
「え〜!? ちょっと見てみたかったなぁ」
「そんなの見たって面白くないよ」
やかんを火にかける。手持ち無沙汰になった私は、麦茶を口に含んだ。大容量のお茶パックを買って、毎日煮出しているものだ。だから味はいつもと同じ。なのに、そのまろやかな渋みが、いつもとは違う、いびつな時間を刻んでいく。
マチュはそれ以降、何も喋らずに、ただ黙って、外の景色を見ながらおにぎりを食べていた。定位置が取られてしまった私は、キッチンに腰をあずけ、やかんが音を鳴らすのを待った。こういうときに限ってというか、こういうときだからこそなのか、なかなかお湯が沸いてくれない。私の部屋なのに、なんだか落ち着かなかった。
腹ごしらえを終えた私たちは、マチュから順にシャワーを浴びた。
私はひとくくりにした髪の毛の上からバスタオルを巻き、さっきと同じように窓際に座るマチュの横に腰を下ろした。バスタオルを外すと、なまぬるい風が濡れた髪の隙間を通り抜ける。その清涼感が心地よくて、そっと目を閉じた。風上がマチュの方に変わると、シャンプーの香りが、いつもより強くなった。
「あのさ」「そうだ!」
二人の声が重なった。思わず顔を見合わせる。先に笑ったのはマチュだった。つられて私も笑ってしまった。
「え〜なに? ニャアンから言ってよ」
「マチュが先でいいよ」
マチュも私も、笑いがこぼれて声が音にならない。
「そう?」マチュは一度深呼吸して、声を整えるようにしながら言った。「ねえ、プリン食べよ!」
「それ! 私も言おうと思ってた!」思わず、マチュの言葉に指をさした。
そして、また目が合う。私たちの瞳を繋ぐ空気が、細い糸のようにピンと張った。一瞬だけ、音が消える。次の瞬間、二人一緒に、堪えきれなくなって吹き出した。
「冷蔵庫から出すね」息をひいひい吸いながら、私はなんとか言った。
「ありがとー!」
マチュは目尻にたまった涙を、手で拭っていた。
何が面白いの? と聞かれたら、正直よくわからない。でも、とにかく笑いたくてしかたなかった。箸が転んでもおかしい年頃、なんてことわざを聞いたことがあるけれど、いまの私たちはまさにそんな感じかもしれない。
横隔膜がくすぐったく動くのも、頬が自然に持ち上がるのも、声を出して笑うと胸がひらけるような感覚も――それからマチュの声が耳に届くのも、全てが心地よかった。
プリンを食べ歯磨きをすませた私たちは、一つのベッドで寝ることになった。私は横向きで、壁にぴたりと寄りそうようにし、なるべく背中がマチュにぶつからないように気をつかう。寒くはない。それでも何かにくるまれていないと、眠りにつく前はなんだか心細い。それはマチュも同じようで、一枚の掛け布団は、なかば取り合いのような形になり、私の取り分はほんの端っこが肩にかかるだけだった。不安な気持ちはそのままだけど、背中に伝わる温もりに、少しだけほっとしている自分がいた。
「ねえ、大学、狙ってるの?」マチュが口を開く。
「え」私は顔をひねりマチュを見た。彼女の後頭部が目に入る。マチュは私に背を向けていた。
「本棚に赤本あるから」
赤本、という言葉に肩に力が入った。マチュの頭の奥にある、本棚に焦点を合わせた。窓の外を車が通り過ぎるたび、ヘッドライトの光が差し込み、背表紙を撫でるように影が流れていく。一番分厚い背表紙である〝ジオン工科大学〟と書かれた去年の赤本に目を細めた。
口の中に残っている歯磨き粉のミントの爽やかさが、一瞬で苦味へと変わる。その赤い本は、もう挑戦はしないつもりなのに、手放す気にはなれなかった一冊。見て見ぬふりをしながら月日が経ち、最近は気にも留めなかった一冊――。
「ニャアンは真面目だねぇ」
マチュがくるりと寝返りをうって天井を見つめた。そのとき、布団が彼女のほうへと持っていかれ、体が晒された。やわらかい温もりを追いかけるようにして、私も仰向けになった。少しだけ布団を引っ張り、取り戻す。
真面目。
頭の中で反響するその言葉が、心臓をチクリと刺した。そんなんじゃない、って腹の底が騒ぎだす。見たくもない濁った感情が、胃液とともに、たぷんたぷんと波を打つ。
「マチュは――」天井を横切る車の影のを目で追いながら、彼女の名前を呼ぶ。
「ん?」
――「なぜそんなことを言ったのか」と聞きたかったはずのに、口から出た言葉は全く別のものだった。
「マチュは地球に行ったら何がしたいの? いや、海で泳ぎたいのは前に聞いたけど」自分の中にある何かを誤魔化すように、早口でまくしたてる。「それ以外で」
「わからない」
間髪入れずに返ってきたマチュの言葉に、私は布団の端をぎゅっと握り直した。わからない、とは、意外だった。新たなマチュの一面を知ってしまった。そんな気がした。そしてそれは、私があの赤本に託して諦めた感情と、きっと同じなのかもしれないとも思った。
見てはいけないものを見るような気持ちで、おそるおそるマチュの横顔を伺う。同じだといいな、なんて期待をしながら。
しかし、彼女の凛とした目は、私のそれとは全く違っていた。〝わからない〟に満ちた瞳の色では決してなかった。その瞳の中に、私が抱えている濁りはどこにも見当たらない。窓の外から差し込む夜の光が、マチュの輪郭を形取る。
「今はまだわからないけど、地球に行けば、見つかるかもしれないじゃん。やりたいこと!」顔をぐいん、と私の方へと向けた。「いや、絶対、見つかる気がするんだ!」
「そんな……」簡単じゃない、と言おうとして口をつぐんだ。マチュがまだ何か言いたそうにしている。
「そういうニャアンはどうなの? 大学行って、何したいとか、決まってるの?」
人の叫び声や空き缶が転がる乾いた音、それから、ごうごうという機械が低く唸るようなじめっとした音が耳に届いた。この街は昼夜問わず無機質な音が響く。この音は、サイド6に来たばかりの頃の、不安の中にわずかにあった希望の音。
いや、違う。
この部屋でひとり、無理だと諦めた夜に聞こえた、心が静かに砕けていく音。
私は小さな声で返す、「なにも、ない」と。
「そしたらさ! ニャアンも地球に行ったら、きっと見つかるよ! 大学でやりたいこと!」
――そんな簡単じゃない。
私はマチュの言葉を否定するように首を振った。
窓の外から聞こえてくる騒音が、だんだん大きくなる。その音は悲鳴にも絶望にも思えてきて、気がつけば、目の前には逃げる私の手足を掴んで離さない故郷の人々の顔があった。
――生きられれば、それで、いい。はずなのに。
「大丈夫だって! 私とシュウジは強いから! お金もすぐ貯められる。だから――」飛び起きたマチュが大きく振り返る。スプリングと私の体が大きく揺れた。「一緒に地球へ行くよ! 絶対」
彼女の顔は逆光のせいで薄暗い。しかしエメラルドグリーンとピンクに縁取られたまっすぐな瞳だけは、はっきりと見えた。その瞳が目の前の幻想をかき消して、私の網膜を焼く。目の奥がかあっと熱くなり、そのあとすぐに、心臓の鼓動が速くなる。
ベッドはまだ小さく揺れている。
「うん」口をついて出た言葉に、眠っていた気持ちが、ぱちぱちと目を覚ます。
マチュはいつだって予測不能。いつだって、そう、いつだって。差し出された友の手を掴んで、未来を感じてみたい。わずかな望みがあるのなら、私も、夢を見たい。
窓の外から差し込むヘッドライトが、彼女の横顔を一瞬だけ照らし、そっと夜の中に消えた。私は静かに目を閉じる。