ベテルギウスはまだ東の空にのぼっていない。 ―SIDE:OCZY―
これは俺とバデーニさんの関係が、不可逆的変化を起こすまでの話。
一、八月上旬――二枚の写真
八月上旬。夏休みに入ってすぐ、俺たち研究室メンバーは、引越し作業に明け暮れていた。
「ん……? なんだあれは?」
机の下の奥に、光るものが見えた。俺はしゃがみこんで、右手を伸ばす。指先に厚紙のようなものがふれた。中指と薬指で押さえて、埃まみれのまま、それをひっぱりだした。
写真だ。しかも二枚ある。一枚は夜空が写っていて、もう一枚には、バデーニ先生の顔がアップで写っている。この写真に、見覚えがあるような、ないような――。
「どうしたオクジー君」
記憶を探っていたら、すぐ後ろから名前を呼ばれて、はっとした。
反射的にそれらをポケットにしまいこむ。別に見られて困るものではない、と思う。だが、先生の写真を持っている自分が、まるでストーカーみたいで恥ずかしくなった。
「いや、なんでもありません」眉を下げ、笑顔を作ってから、振り返る。
「そうか?」
俺のすぐ後ろに立っていたバデーニ先生は、眉をひそめて首をかしげる。そして、目は俺のポケットをじっと見つめていた。
「はい、問題ありません」
いつもより、ゆっくり喋る。何かを隠したいときこそ、堂々としておくものだ、と誰かの言葉を思い出した。
「なら……いいが。とにかく、今日中に引越しを済ませたいから、手際良くやってくれよ」
「わかりました!」
俺は安堵と一緒に、ポケットの中の写真をそっと握りしめた。
「バデーニ先生! ちょっと手伝ってください!」
部屋の対角側にいた学生たちが、バデーニ先生を呼ぶ。彼らの前には、俺も見たことのない機械が並んでいた。「これ、いる? いらない?」などという声が聞こえてくる。
「ああ、いま行く」先生は頭を掻きながら彼らのほうへ向かった。
自分から完全に離れたのを確認して、俺はふーっと息をはいた。そして、ポケットからおそるおそる写真を取りだす。まわりから見られないようにそれを両手で包みこみ、顔を近づけて、こっそり確認した。日付が印字されている。二枚とも同じ六年前の日付けだった。六年、前……。
――ああ、思い出した。
両手で合掌するように、写真を間にはさんだまま、手を合わせた。目の前に六年前の夜が広がった。あれは学部三年の夏、選択した研究室に配属されたばかりのころだった。
バデーニ先生は憧れの存在だった。豊富な知識で繰り広げられる講義は、とても刺激的で楽しいものだった。同じものを見ていたはずなのに、知識が増えたことで、世界がガラリと姿を変える。そんな瞬間は、いつも強い快感と興奮があった。
けれど、知ればしるほど、逆に知らないことが増えていくようで、息苦しくなった。焦燥感に囚われた脳みそが、無知の深海へ、ぶくぶくと沈んでいくような感覚だった。学ぶのが、怖くなった。この分野は自分には向いていない。そう思った。正直、講義に出るのもつらかった。
でも、その苦しみは、いつのまにか心地よくなっていた。理由は先生がいたからだ。
あの人は研究のためなら、誰よりも苦しみ、泥臭くもがきながら、無知を恐れず前に進んでいた。その姿はとても輝いて見えた。先生と一緒なら、深海に沈んでも、安心して息ができる。大丈夫だ。そんな気がした。
俺は迷うことなく、バデーニ先生とフベルト先生の共同研究室を志願した。
天文学部の研究棟は理学部と同じ建物であり、大学敷地内でも最奥の、関係者以外誰も来ないような位置にあった。学部棟からは徒歩で三十分もかかる。しかも、研究棟まではゆるやかな上り坂が続く。大学生活を送るには大変不便な立地であり、理学部には気の毒だが、しかし、天文学部としては、ここはもってこいの環境だと俺は思っている。静かで、街灯も少なくて、その引き換えに、宇宙が近い。
研究棟を出ると、あたりはすっかり日が沈み、藍色に満ちていた。待ってましたと言わんばかりの暑さが、じっとりと肌にまといつく。
視界の向こうに広がる雑木林は、風が吹くたび、一つの塊となって大きなうねりをあげた。異界にでもつながっていそうな薄気味悪さがあり、学生の間で「幽霊が出る」なんて噂になるのもうなづけた。うかつに近づいたら、吸い込まれそうだ。
研究棟と、その雑木林の間にある大きな道の真ん中に、空を見上げるバデーニ先生の姿があった。
「先生!」
「オクジー君、か」首をゆっくり倒し、俺を見つめる。
「珍しいですね、こんな早い時間に帰宅なんて」俺は、バデーニ先生が手に持っている鞄に目を向けた。とはいえ、もう九時は過ぎている。
「そうか?」
先生はあっさりした返事をするのみで、視線をまた夜空へと戻した。つられて一緒に空を見上げる。夏の大三角形が俺たちを囲っているように見えた。
天を満たす星たち。儚くて奥ゆかしい美しさに、思わずみとれた。
「今日の空、とても綺麗ですね」ゆめうつつのような心地だった。
「――ああ、そうだな」
バデーニ先生が言い終わるやいなや、湿気をまとった、なまあたたかい夜風が吹いた。しかし、そこに、不快感はなかった。
「そうだ!」
思い立った俺は、ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラを起動した。そしてレンズを夜空に向ける。
カシャッ!
「よし」
いま撮った写真を確認する。肉眼と比べたらもちろん劣るけど、それでも綺麗に撮れていた。
「スマホのカメラなんてたかが知れてるだろ」隣でバデーニ先生がため息まじりにいう。
「まあ、確かに」先生のほうへ顔を向ける。視線がぶつかった。「です、が……」
「ん? どうした?」
言おうとした言葉を飲み込んでしまった。
「オクジー君?」
なぜなら、目の前にいる先生が、とても綺麗だったから。
先生の虹彩には銀河が広がっている。
それはまるで、星々が先生を祝福しているようにも見えた。
スマートフォンをふたたび構える。今度はピントを先生に合わせた。
カシャッ――!
無機質な電子音は、星が流れる音と重なった。写真を撮ったのは、無意識だった。その儚さを留めておきたかったのかもしれない。
スマートフォンを下へおろすと、きょとんとした表情の先生と目があった。
「おい! 勝手になにしてる!?」
「す、すいません。先生がとても綺麗だったので……つい」
「は?」
「すいません。あ、写真確認しますか?」俺はスマートフォンを差し出した。
「しない」先生は手を突き出して、それを拒んだ。
勝手に撮るのはよくなかった。でも、先生が怒っているようには見えないし、消せとも言ってこない。
「――ほら、さっさと帰るぞ!」
先生はそう言うと、踵を返し、早足で坂道を下っていった。軽やかな足取りにおいていかれないように、俺も、先生の背中を小走りで追いかけた。
何も言われなかったし、写真はそのままにしておこう。
この二枚の写真は、先生に渡そうと思ってプリントアウトしたはいいものの、机の後ろに落ちてしまい、今日まで渡しそびれていたのものだった。俺は、いまさら渡す気にもならないその二枚を手にしたまま、窓の外に目をやった。午後二時の太陽が、大気中に容赦なく降りそそいでいる。
まぶしすぎる日差しのおかげで、現実に引き戻された。こんな猛暑の中、数百メートル先の仮校舎まで、大量の段ボールを運ぶのか。想像するだけで、全身の毛穴からから汗が噴き出しそうだ。
「オクジー君! そろそろ荷物を運ぶぞ!」他の学生と荷造りをしていた先生が俺を呼ぶ。
「あっ、ハイ!」
返事をしながら、手に持っていた写真を、当時の思い出とともに、段ボールの奥底へ押し込んだ。
二、十月――同棲
勉強はしたいけど、就職するべきか迷っていた俺に、バデーニ先生は大学院への進学を後押ししてくれた。そのおかげで、充実した学生生活を送ることができたと思う。それもあと数ヶ月で終わる。来年の三月には、博士課程が修了する予定だ。
研究室の引越しが終わって、皆で飲みにいったときのことだ。なんのきなしに、「十二月に部屋の更新があって」とバデーニ先生に話をした。すると先生は、「うちに住めばいい」って、「今日の晩飯は奢るぞ」みたいなノリで言ってきた。それが、あまりにも軽かったから、俺も、「ごちそうさまです!」みたいな感じで先生の誘いに乗ってしまった。
ルームシェアなんて、そんな軽いノリで決めるものではないのだろうが、気がつけば先生との生活も二ヶ月が経ち、外の景色も秋めいてきた十月。あの二枚の写真は、いま、俺の部屋に飾ってある。
「彼女と同棲したら冷めた」という友達は何人かいたし、「ルームシェアしたら険悪になって、親友だったけど絶好した」という話も聞いた。
しかし俺は、バデーニ先生、もとい、バデーニさんとの二人暮らしに、まったくといっていいほどストレスを感じなかった。とはいえ最初のころは、呆れたというか、驚きの連続だった。
当然のように玄関で寝る。三日三晩の徹夜も日常茶飯事で、四日目の朝、何度呼びかけても反応がなかったから、一度だけ救急車を呼んだことがある。あの朝は生きた心地がしなかったし、さすがに、ひとこと言いたくもなった。
一緒に住むとは、価値観をすり合わせることなのだと思い知った。しかし、気づいたことは他にもあった。憧れの人が、自分にとって身近な存在になると、そこには親しみ以上の感情が芽生える。
たとえば、興奮して嘔吐をする彼の背中をさすったときとか、玄関で寝落ちした彼を寝室へ運んだときとか。そんなときに、バデーニさんの脆さや弱さを感じた。それは、俺だけが知っている〝バデーニ先生〟の一面なんだと感じて、胸の奥がじんと熱くなった。親しみ以上に芽生えたものは、彼を慈しむ気持ちと、誰にも見せたくない、自分だけが知っていたい、という独占欲だった。
最近のバデーニさんは、「一緒に寝たい」と言いながら、あたりまえのように、俺の布団に潜り込んでくる。
きっかけは、バデーニさんが自分の寝床と間違えて俺の布団に入ってきたことだった。それ以降、気まぐれではあるが、彼は俺と寝たいとき、声をかけるようになった。
セミダブルサイズのベッドに、成人の男が二人、並んで寝るのは無理がある。それなのに、なぜ、バデーニさんは俺と寝たいと言うのか。寂しいのだろうか。介抱する俺に甘えているのか。それともただ、無意識にそうしているだけなのか。答えはわからない。聞けばいいのだけれど、この曖昧なやりとりに理由を求めたら、それは、あぶくのように簡単に壊れてしまう気がした。だから、聞けなかった。この『名もなき関係』を終わらせたくなかった。
寝ぼけた声で「オクジーくん」と呼ぶ甘い響き。伏せたまぶたの下に伸びる長いまつ毛。透明感のある白い肌。無防備な唇。背中に感じる温もり。そして、俺の腰やふくらはぎに絡ませてくる、腕と足。
俺しか知らない、その寝顔と寝相を、ずっと見ていたい――そう思わずにはいられなかった。
しかし、俺は困っていた。混乱していた。この密かな思いは、絶対に、バデーニさんに知られてはいけない。だって、彼にしてみたら、俺は院生の一人で、単なるルームメイトなのだから――。
いまも、俺の隣では、バデーニさんが寝息を立てている。時間は午後十一時を過ぎたばかりで、バデーニさんにしては早い就寝だった。
背中にぴたりと押しつける体温と、整った呼吸のリズムが、俺の肌を震わせる。彼の腕がそっと前へ回りこんできて、指先がためらうように胸元を探り、スウェットをぎゅっと掴んできた。
ときおり、「ん……」とか、「うう……」という幼い声を洩らしている。鼓膜を甘噛みするその音が、俺の中に潜む背徳の疼きを、これでもかというほどに煽っていく。
この感情は、純粋な敬慕なのか、ひとりじめしたい独占欲なのか、美しくて甘い姿への情欲なのか、なんだかもう、よくわからない。
「……オクジー、くん」バデーニさんがため息とともに俺の名前を洩らす。なまあたたかい吐息が、直径約五センチの円をかたちどった。
刹那、胃液が煮えたぎる。腹の底では、貪りたくなるような衝動が蠢く。せりあがる血液は、ドッ、ドッ、と濁流のごとく全身を巡り、抑えられない猛りが、むくむくと姿を現した。
思わず両手で股間を抑えた。バデーニさんにばれたらまずい。しかも彼の手は、いま、俺の胸元に置かれている。胸壁を叩く心臓の音が、白い指先に伝わってしまうかもしれない。
少しでも体内の熱を吐き出したくて、音を立てずに、熱い息をはいた。
その時だった。
胸元にあったバデーニさんの手が、俺の指の間をすり抜けて、いびつに隆起している部分に触れたのだ。
全身の筋肉が硬直した――。下腹部に力が入り、ふくらはぎがつりそうになって、つま先がピンと伸びた。肩は石膏のように固まり、息がつまった。バデーニさんの動きに注意を向けながら、耳をそばだてた。聞こえてくるのは、太鼓を打ち鳴らすような俺の心臓の音と、息を潜めた呼吸の音。それからバデーニさんの寝息。
このまま手を離してくれたらいいのに、バデーニさんの指は、秩序を失った俺の脈動を、つつつ、となぞる。
「は……っ、」
抑えきれなかった声が、ひとつだけ洩れてしまった。嫌な予感が、背中に走る。
「オクジーくん、これは……一体」バデーニさんが俺の異変に気づいて、目を覚ました。
予感は、的中してしまった。その声のせいで鼓膜が凍る。視界はかすみ、ぐにゃりとゆがむ。半開きの口は頼りなく呆けたまま、力が入らない。
バデーニさんに、ばれてしまった。「言い訳をするべきか、誤魔化すべきか。本当のことを言うべきか」その自問自答は、警報音とともに、頭の中で何度も繰り返されている。どちらにせよ、黙っているわけにはいかない。
粉々に砕けた空気を、かき集めるように吸い込んでから、ぐっと、腹に力を入れる。それから、ぐるりと寝返りをうって、バデーニさんと向きあった。目があう。彼は、一瞬、目を見開いた。怯んだような、はたまた嫌悪に満ちているような視線を向けられた気がした。
でも。
「バデーニさん」とっさに、名前を呼ぶ。
「……どうした?」
――言え。なんでもいいから言葉を続けろ。
俺が、俺を詰める。
「俺はァ」
しかし、いざ言おうとしたら、変に力が入ってしまい、声がうわずってしまった。なんて最悪なタイミングだ。羞恥心が眉間に集まり、一気に顔が熱くなった。
しかしバデーニさんは、何もなかったかのように、顔色ひとつ変えないで、俺の言葉を待っている。眉間から、力が抜けた。空回りしていた気持ちが、スッ、と落ち着きを取り戻した。
そうだ、恥ずかしいことなど、何もない。咳払いをしてから、もう一度仕切りなおす。
「俺は、バデーニさんのことが――」ごくりと、唾を飲み込む。
なけなしの理性と恐怖心をぶっ壊して、直感と本能が、いまの俺を動かしている。そうでもしないと、〝その言葉〟は言えないから。
緊張で収縮した喉に、無理やり空気をねじ込んで、声帯を震わせた。
「俺は、好きかもしれません」――言って、しまった。
心臓が今にも飛び出しそうだ。鼓動が全身を震わせる。浮き足立つ感覚の中、心地よいめまいがした。
なのに、なんだこのすっきりとしない気持ちは。
――好きかも、しれません?
好きです、と言い切れなかった。
素直じゃない、と思ったのは、俺の理性か、はたまた本能か。精一杯の気持ちを、真っ直ぐぶつけるつもりだったのに。どこかに隠れていた恐怖心が邪魔をした。
しかし――。
「ブッ! くくく……あはは!」バデーニさんは突然吹き出した。
「えっ? ちょっ、」
笑って……いる?
あの、バデーニさんが?
肩を揺らして笑っている。怒りはつねに垂れ流しているけど、笑う姿を見るのは初めてだった。情報量が多くて、俺の頭の中では、混乱が大渋滞を起こしている。
「な、なんなんです? 俺の必死の告白なのに!」
「ああ、すまない。でも……」笑いを噛み殺しながら、バデーニさんは言った。「君はまったく素直じゃないな」
――――――は?
この人は自分のことを棚に上げて何を言ってるんだ。だがしかし、俺もたいがいだ。回りくどい言い方をしたことは自覚している。
俺は、がっくりとうなだれた。これは大失敗だ。間違いなく。告白というには、あまりにも不格好すぎる。
けれどバデーニさんは、どこか困ったような表情を見せていた。心なしか頬も赤い。そのまま俺の後ろに視線を向ける。その先には、二枚の写真があった。
「あの写真」バデーニさんが指をさしながら静かに呟く。
「ああ、あれは」
どこから説明しようか記憶を整理していると、彼が話を続けた。
「覚えている」
「え」
「君が、『今日の空、とても綺麗ですね』って言っていたのも覚えている。あと、隣にある私の写真は、あのとき、許可なく撮ったものだろ」
「はあ、す――」もはや口癖ともいえる謝罪の五文字が舌の上で溶ける。思わず口を噤んでしまった。
バデーニさんが潤んだ瞳で俺を見つめていたのだ。体を丸め、股の間に押し込んだ両手を、もぞもぞと動かしている。頬と唇が、真紅に染まった。ぱ、と小さく開いた口の奥に、てらてらと光る舌が見える。
――やっぱり、俺は、
「好きです。バデーニさん」
あなたの、すべてが――。
俺はもう、自分を誤魔化さない。バデーニさんの瞳の奥をじっと見つめた。だって、俺と一緒に寝るって、そういうことですよね。俺は、あなたが心を許せる存在だったということですよね。うぬぼれたって、いいですよね。
――あなたの瞳の奥にある、秘めた思いはいったい何ですか?
そっと、色素の薄い髪の毛に指を通す。青い虹彩が揺れた。どろっとした欲情がその青を濁らせていく。綺麗事だけでは、もう、済まされない。
「バデーニ、さん」
羨ましくて、愛おしくて、独り占めしたくて。触れたいけれど、怖さもあって。これは、バデーニさんが教えてくれた、色あざやかな感情だ。
「オクジーくん」
とろりとした声の音で、バデーニさんが俺の名前を呼んだ。そして身をよせてきた。
俺は覚悟を決めるように、バデーニさんを、ぐっと引きよせた。ぎこちない腕の中に、彼の体温がすっぽりと収まった。
「……キス、してもいいですか?」もっと、あなたに近づきたい。
バデーニさんは、驚いた顔で俺の顔をのぞきこんできた。それから、ふっと、息を洩らすように笑った。
「君は……本当に、優しいな」青い目が細くなる。
唇がゆっくり重なると、ばらばらの鼓動が一つになった。俺は横目で二枚の写真を見た。――あの頃には、もう、戻れない。
目を閉じたまま俺の唇を求めるバデーニさんの姿に、意識が引き戻される。甘い蜜を飲みこんだ。
夜が、濃くなる。