わたあめの海 今思えば、わたあめの中に入り込んだような、淡い色の世界だったと思う。
◇
ベージュ色の砂浜は、なめらかな触り心地で、一歩足を踏みいれた私を優しく包み込んでくれる。
頭の上に広がる青は、いくら目をこらしてみても建物の影は見えなくて、教科書で見たことのある「空」と同じ色をしていた。一部分だけ強い光源があるが、あれが「太陽」だろう。
目の前に広がる水源は、教科書で見た「海」の想像をはるかに超え、気が遠くなるほどの広さであった。電子音でしか聞いたことのなかった波の音からは、奥行きと強い生命力が感じられた。
「あの線のところが行き止まり?」私は海の奥に向かって指をさして言った。
「あれは地平線、だよ。マチュ」
「ちへい……線、どこかで聞いたことがあるような……」
地理の授業を思い浮かべた。コロニーの形成や宇宙については詳しく学ぶのだが、地球に関しては簡単にしか扱わない。
私が授業の記憶を探っていると、青紫色の髪の毛の彼が言った。
「海と空の境界線、という意味」
「ってことは、やっぱり行き止まりってことだよね?」
「ううん」彼は首を振る。「この大地に行き止まりはないんだよ」
言い終わるやいなや、風が強く吹いて青紫色が彼の顔を隠した。私も咄嗟に自身の髪の毛を手で押さえる。
「――しょっぱ!!」
「えっ、なになに?」後ろから突然大きな声が聞こえてきて、思わずふりかえった。
「マチュ、これ塩っぱいよ!」
紫色の長い髪の毛を左右に振り、舌を出しながら彼女が言った。
「そりゃあ……海だからねぇ」
「知ってたの?」
「んー。授業で習った」
「そっか。ねえ、マチュも舐めてみない?」
彼女が両手いっぱいにすくった海水はとても透き通っていて、なおかつ太陽の光を一身に浴びていた。
「綺麗……」彼女の両手から水がなくなってしまうまえに、私は人差し指を水にぴちょんとつけて、そしてひと舐めした。
「――じょ、っぱッ!! 思ったより塩っぱいよこれぇ!!」
「だよね! マチュもそう思うよね」
私はもう一度自分の指を舐めて、ふたたび「しょっぱ!!」と声を上げた。そんな私の姿に彼女が笑うから、つられて笑った。二人で笑いあった。
「ねえ。二人とも、日の入りってみたことある?」彼がいう。
「日の……」
「入り――ああ、ニチボツのこと?」これも地理の授業で学んだ知識だ。地球には日の出、日の入りがあるという。コロニーでも昼と夜はあるけれど、それは決められた時間に鏡が動くことで、内部に入ってくる太陽光を調節しているだけ。全てが計算のうえで行われている。
しかし地球の日の出と日の入りの時刻は計算で決められているものではない。と教科書に書いてあった。
「そう。あの地平線に、太陽がしずんで夜になるんだ」
「沈む……?」彼女が小首をかしげた。
太陽光が〝沈む〟という感覚がいまいちピンとこない。
「まあ、見ればわかるよ。もうすぐだから、見てく?」
私と彼女の二人は顔を見合わせたあと、声を重ねて、「見てく!」と彼に向かって言った。すると、青紫色の髪の毛の隙間から、「わかった」と声が聞こえた。
ザザア、ザザアという音が、心拍数に同期して、血液の流れが潮の流れと重なる。海が、私たち三人をつないでくれている気がした。
◇
「――テ。――マテ。――アマテ、起きて、アマテ」
「んぅ?」
「ほらもうすぐ音楽の授業だよ!」
「……あ、れ……? 海、は?」
「うみ? 夢でも見てたの? ――あっ、ほらもう時間ないよ。わたし先いくよ?」
「うん」
重たい頭を持ち上げて、ゆっくりと回りを見渡した。黒板、机、椅子、教室のドア、見慣れたターコイズブルーの制服――窓、それから私の教科書と鞄。耳に届くのは、上靴が廊下を走るゴムの音や、女子たちの賑やかな話し声。
「あれは、夢、だったか」
地球の夢を見たような気がしたのだが、きっとそれは、さっきの授業が地理だったせいかもしれない。あれはとても心地の良い夢だった。思い出そうとするだけで、体がふわふわと軽くなる感じがした。「行けるならもう一度あの世界に行ってみたい」と、心地の良い夢から覚めたあとはよく思うのだが、同じ夢の世界に行けることなど、ほぼない。
私は大きく伸びをして、深く息を吸った。窮屈な空気を取り込んで、立ち上がる。
「さ、行くか」
ぱん、と両手を叩いて、鞄から音楽の教科書を取り出した。
ぺろりと舐めた唇が、なんだか少しだけ塩っぱい気がした。