三角関係未満 はあ、とため息をつきながら帰路を急ぐ。自分は別に今の仕事は嫌いではないのだが、上司が何だか自分にだけ態度が違うのが気にかかる。
早く帰って体と心を休めよう、と帰り道の途中にある公園の前を通りかかった時だった。
「……ン?」
まだ街灯が点々と照らす公園のベンチのそばで、うずくまった人がいる。病人だろうか、と思わず目を凝らすと、それはまだ若そうな青年だった。
「もしもし貴方。大丈夫ですかな」
「ううん……」
そういえばこういう時は「大丈夫ですか」って聞いちゃいけないんだったな、とインターネットで見た記事を思い出す。こういう時は、何と言えば良いのだったか。
「ンンン……あ、そうでした。何か手伝えることはありますかな?」
確か、こういう時は「何かできることはないですか」と聞くのだと書いてあったはずだ。その言葉を聞いた青年――と呼ぶにはいささか若すぎる彼は、顔を上げてじっとこちらを見つめた。
「おなかすいた……」
「えっ」
予想していなかった答えに思わず声を上げると、青年はへにゃりと眉を下げた。
「ごめん……急にこんなこと言われても困」
「大変、儂の家においでなさい! 残り物で申し訳ありませぬが、昨日作った煮物がまだ大量にございます故!」
「……へ?」
青年の言葉を遮ってそう言うと、彼はきょとんと目を丸くした。よいしょ、とスーパーの袋を抱え直してから青年に向き直る。
「家はすぐそこです。寒いでしょう、ほら早く」
「え、えっ」
青年を立ち上がらせ、公園を出る。そして戸惑う彼を半ば強引に自宅のあるアパートまで連れて帰った。
「……おじゃまします」
「洗面所は出て右にあるので手を洗ってきなされ。上着はこちらに。儂は食事の用意をしておきますから」
「あ、あの」
「すぐ終わりますからね。あ、厠はその奥にありますから、使いたかったら適当に使ってくだされ」
青年を洗面所に押し込み、キッチンへと向かう。一人で暮らしているのでそこまで広くはないが、二人分の居住空間が確保できないほど狭いわけでもないアパートだ。やかんに水を入れて火にかけ、冷蔵庫を開ける。昨日作って保存しておいた肉じゃがを取り出し、電子レンジに放り込む。
「本当に……大丈夫かな」
洗面所から戻ってきた青年は、そう言って視線をさまよわせていた。
「若い者が遠慮しなさるな。困っている方がいれば手を貸すものですぞ」
「でも俺、さっき会ったばかりなのに……」
「良いのですよ。ほら、座りなされ」
まだ何か言いたそうな青年を無理矢理座らせて、ご飯とおかずを皿に盛りつける。丼飯に目を輝かせつつ、青年は少し気まずそうな顔で「ありがとう」と言った。
「お礼は結構。腹がすいていたのでしょう? 存分に召し上がれ」
「……うん、いただきます」
手を合わせ、青年は肉じゃがに箸を伸ばす。彼が美味しそうに食べる姿を目を細めて見つめた。やはり人に自分の料理を喜んでもらえるのは嬉しいことだ。特に自分は一人で暮らしているため、他人に手料理をふるまう機会も少ない。こうして誰かに食べてもらえるというのは、とてもありがたいことだと思う。
「すっごく、おいしい」
「ンフフフ。それはようございました」
素直に喜ぶと、彼は照れくさそうに目をそらした。その仕草が何だか可愛らしくてくすくす笑いながら、自分も食事を摂り始める。
「行く所が無いのですか? でしたら儂のところにおればよろしい。飽きたら出て行けば良いのです」
「いや、でも……」
「ひとまずしゃわあを浴びてきなされ。着替えは……少々大きいかもしれませぬが、儂の服を貸しましょう」
「え、でも」
「遠慮するなと言ったでしょう?」
強引に彼を洗面所に押し込み、タオルと着替えを置く。青年がシャワーを浴びている間に皿を片づけた。
何の運命か急に始まった同居生活だが、不思議と嫌悪感は全くない。むしろわくわくしている自分に驚くぐらいだった。
「今日の夕餉は何にしましょうかねェ。立香殿は何か食べたい物がありますかな?」
「いや、俺は別に何でも……」
「ンンンン、『何でもいい』が一番困るのですぞ!」
週末の午後。藤丸立香と名乗った青年と一緒にスーパーで食材を買いながら、道満は唸った。
彼はどうやら、遠方から半ば家出同然にこの街にやってきたらしい。生活費はどうやって捻出しているのかと尋ねると、まだ出てきたばかりだから今までアルバイトしていた分の貯蓄で何とか食いつないでいるのだと言う。
「では食材は儂が適当に見繕って参ります故、貴方は菓子売り場でも見ておられなさい」
「お菓子は特に欲しくないんだけど……」
「おやァ? 失敬、甘い菓子を好んで食すほど子どもではないというのですか!」
「いや、まあ……そんなとこ」
照れたように笑う立香が愛らしくて、道満はその背中をぽんぽんと叩いた。
「儂も偶には甘味が食べたくなります故、一緒に買いましょう。先に良いのがないか見てきてくれますか?」
「うん、じゃあ俺あっち見てくるね」
嬉しそうに笑う彼の背中を見送り、道満は生鮮食品売り場へと向かう。あれやこれやと食材を買い込んでいると、忌々しい男とばったり出くわした。
「おや、買い物ですか」
「……ええ、まあ」
道満の勤め先の上司である男が、怜悧な笑顔を浮かべて近寄ってくる。
「近頃は莫迦に楽しそうですね、おまえ」
「ばっ……? べ、別にそのようなことは……」
骨格からして一般人とは違う容姿の良さは、ラフな私服姿でも健在である。狐を思わせる切れ長の目や、日本人離れしたスタイル。如何にも女に好かれそうな出で立ちではあったが、道満はこの男の笑った顔が好きではなかった。
「最近は業務の成績も上がっているし、どうしたことかと思ってね」
「お戯れを。いやそれにしても、貴方もこのような庶民的な場所で買い物をするのですね? 失礼ですが、少々意外で」
「あはははは。私にだって、普通の生活を楽しむ権利はありますとも」
どこか刺々しい雰囲気に気づかないふりをして、道満はにこやかに応対する。早く会話を切り上げ買い物を終えて家に帰りたい、とそればかり考えていたのだが。
「道満、きなこ味のチョコだって。おいしそうだから一袋買ってみても……」
嬉しそうに駆け寄ってきた立香が、道満と対面する男を見て首を傾げる。
「道満、知り合い?」
「仕事先の上司です」
「そうなんだ。はじめまして!」
にこにこと愛想よく挨拶をした立香を見ながら、男はぴくりと眉を動かす。
「君は……?」
「藤丸立香です! ちょっと訳あって道満のところに置いてもらってます」
立香の言葉に、男はさらに眉を曇らせた。
「それはつまり、一緒に暮らしているということかな」
「はい! あっ、そうだ道満。さっき精肉売り場を通ったら鶏肉がセールになってたよ。俺今日は唐揚げ食べたい」
「揚げ物ですか。まあ、たまには良うございましょう」
きゃいきゃいはしゃぎながら会話を交わす二人を、男はじっと見つめている。何を考えているのか今ひとつ読めないその目に、道満はため息をついた。
「すみませぬが、連れと買い物の途中ですので」
「あ、うん……引き止めてすまなかったね。また来週」
男はひらひらと手を振りながら踵を返し、そのまま去っていく。姿が見えなくなったところではあ、と大きく息をついた。
「……ねえ道満、もしかして今の人苦手?」
「ンンン、貴方には関係のないことですぞ」
あの男とはできれば関わりたくないのだ。露骨に眉をひそめると、立香は苦笑した。
「また眉間の皺が深くなってるよ」
「……この顔は生まれつきですので。さあ、早く買い物を済ませて帰りましょうぞ。今日は塩唐揚げです」
「塩唐揚げ! 良いね、俺大好き!」
幸せそうに笑う彼に、道満も少し微笑んだ。