酔いがさめたら その日、道満の体調はすこぶる悪かった。嘔気、倦怠感、出たり止まったりを繰り返すしゃっくり。立ち上がれば目眩がして、まっすぐ歩くこともかなわない。
仕事は休職中なこともあり、部屋にこもりきりでベッドの上で死んだように横たわっていた。
原因は十中八九、テーブル上に散乱している酒瓶や缶の類だ。ビールに始まりストロング系のチューハイ、日本酒、焼酎。床に無造作に置かれている資源ごみの回収袋の中身も、これら酒類の空き瓶や空き缶がほとんどである。
休職するにあたって診断書が必要だというため渋々行った病院で、アルコール依存症と診断を受けてからおおよそひと月が経つ。治療のために週に一度は来いと医師に言われているが、道満は病院の予約をすっぽかし続けていた。
何故こんなにも酒を飲むようになったのか、と病院でも聞かれたが、うまく答えられずその時は「仕事上のストレス」だと誤魔化してしまった。本当の理由を説明したところで、他人には理解されないであろうことを分かっていたからだ。
夢を見るようになったのは思春期を迎えたあたりからだった。最初はどこか懐かしい野山の風景の中を駆け回ったり、古文の授業で見たような古い字の書かれた書物を読んでいたり、特に変わった夢は見なかった。
夢の内容が不穏になり始めたのは、道満が高校を卒業した頃からだ。懐かしくあたたかかった田舎を出て、大河ドラマなどで見る都の景色の中、きらびやかな装束を着た人たちに囲まれて、美しい装飾の施された屋敷の中を歩いている。自分は植物の葉のような色をした着物を着て、何か祈ったり儀式のようなものを執り行ったりしていた。
その頃から時々、夢の中に狐を思わせるような目をした綺麗な男性が出てくるようになり、道満はその男性を夢で見る度に憧れと嫉妬、憎悪が入り混じった不可思議な感情に支配され、胸を掻きむしりたくなるような心地を味わった。とはいえそういう夢を見ているうちはまだ、今のようにアルコールを大量に摂取するようなこともなかったのだが。
あの夢を初めて見た時の夜を、道満は今でも鮮明に覚えている。
暗闇の中で頭を抱えている自分に、何か良からぬ存在が囁きかけている。
「今のままでは――」
その先に続く言葉を聞いた自分は狂乱したように泣き、喚き、終いには囁きかけてきたその存在を悪しきものだと分かっていながらそれと混ざり合った。
目が覚めた時には嫌な汗で寝間着がびっしょりと濡れていた。その日道満は職場に体調不良で休むと連絡を入れ、生まれて初めて昼から酒を飲んだ。
次の晩に見た夢はもっと酷かった。都の街を覆う血、腐臭、死体。その惨事を引き起こしたのが自分自身だということを、道満は何故か理解していた。
その日から眠ることがとても恐ろしくなって、酒を飲まなければ満足に寝つけなくなった。泥酔して寝た日は夢も見ずに眠れる。そのことに気づいてから、道満の酒量は日に日に増えていった。泥酔して眠っては起き抜けの不快感に悩まされ、迎え酒をして何とか人並みに振る舞えるようになる。しかしそんな状態で、社会的にきちんとした生活ができるはずもない。自分からアルコールの匂いがすると職場の同僚から上層部に伝わり、ついには休職して治療をするように命じられてしまった。
怠い体を引きずるようにしてトイレで用を足し、台所で水を飲む。アルコールで灼けた喉と食道はただの水すら受けつけるのに時間がかかるようになってしまっており、何度もむせながらどうにかコップ一杯分を飲み干した。
空き瓶と空き缶でいっぱいのごみ袋を押し退けながらベッドへと戻る途中、ふと玄関の方を見る。酒を買いに出て戻った後、鍵をかけるのを忘れていたことに気づいたが、結局鍵をそのままにして道満はマットレスへと倒れこんだ。
どうせこんな自分を訪ねてくる人間などおるまい。万が一泥棒や強盗が入ってきたとしても、この部屋には盗んで得になるような物はもはや存在しないし、例え命を奪われたとしてもどうせ自分など生きている価値もない人間だ。
二日酔いの頭で死に関して思いを馳せながら、道満は気絶するように眠りについた。
そばに誰かがいる。誰かは手を伸ばして道満の額に触れ、汗で貼りついた髪を払う。ひんやりとした手が、アルコールで火照った肌に心地いい。
「道満」
名を呼ばれた。どこか懐かしいその声の持ち主を、道満の体は知っているような気がした。
ああ、やはり鍵をきちんと締めるべきだったのだろうか、と道満は少しばかり後悔した。薄く目を開けるとかつて夢で見た切れ長の瞳と視線が合う。
声を上げようとした瞬間、何か強い力に引きずられるように深い眠りへと誘い込まれた。
□■□
明らかに健康とは言い難い顔色を見てしまうと、強い後悔に襲われる。寝汗をかいたのか額に貼りついている髪を一房払い、名前を呼んだ。うっすらと開いた彼の目は、かつての黒曜石のような輝きも褪せて焦点もぶれているようだ。
空いている方の手で印を結び、術式を発動する。対象を深い眠りへと落とすこの術は、かつての彼なら容易く祓えただろうごく軽い呪いだ。再び閉じられた瞼を指先でそっと撫で、布団をかけてやった。
「今度こそは手遅れになるまいと、思ったのだが」
独り言を呟く。
「今はただ眠りなさい、道満。目が覚めたら一緒に病院へ行こう」
再会の挨拶はその後で、だ。
道満が眠るベッドの傍らで寂しげに佇む晴明の姿を、カーテン越しに射し込む西日が薄く照らしていた。