婚姻届奇譚 厭な空気だ。目の前にいる男から、こんなにも怒気を発せられた経験がこれまであっただろうか。
道満が晴明に対して故意に悪質な呪を仕掛けたり、不本意ながらも何かしらやらかしてしまったりした時には確かに晴明から叱られることはあったが、それはどちらかというと「しょうがないなァ」とでも言いたげな苦笑やため息を伴っての叱責だった。
これほどまでの怒りを正面からぶつけられたことは──無い。
しかしそんな道満の心持ちなどお構いなしに晴明は続ける。
「道満、目を逸らすな。きちんとこれを見なさい」
晴明が持っている紙切れをひらひらとさせながら、道満に言う。
「それ、は……」
道満が絞り出すように声を出した。
「私はこれを毎日記入して提出するようにとおまえに言いましたね?」
「ええ……」
「では、これが白紙なのはどういうことでしょうか」
晴明が紙切れ、もとい婚姻届を道満の方に向けながら問いかける。
「いや、その……」
「理由を述べなさい」
晴明は口ごもる道満の目をまっすぐに見つめ、怒りを含んだ声音で再度問いかける。
「あの、ええとですね……。確かに晴明殿は拙僧に、毎日婚姻届を記載して手渡すようにとおっしゃいましたが……」
「おっしゃいましたが?」
「いや、そのですね……。拙僧個人としましてはその行為にあまり意義を見出だせないと言いますか……」
「ほう? 何故でしょうか」
「な、何故って。婚姻届なら昨年役所にふたりできちんと提出したではありませんか。今更記入する意味などないでしょう」
道満の言葉を聞いた晴明は、無言で白紙の婚姻届を見る。そして道満に視線を移すと、静かに口を開いた。
「確かに私たちは昨年に婚姻届を提出しましたね。ですが常に新婚気分でいるために、私は毎日おまえにこれを記入してもらっていたのですよ。その旨については説明したはずですが?」
「……」
道満は言葉を失う。晴明は自分が何を言っているか理解しているのだろうか。一体どこに、毎日婚姻届を記載してパートナーに渡している夫婦がいるというのだ。
「ですが、拙僧はもう既に晴明殿の配偶者なのですから……。今さらこのようなことをしても……」
「確かにおまえは既に私の妻です」
「でしょう?」
「しかし」
「しかし?」
「私はおまえとの新婚気分をまだまだ満喫したいのです。よって毎日記入して提出してください。今後もきちんと提出してくれるというなら、今日の分の婚姻届が白紙だということについては目を瞑りましょう」
「そもそも婚姻届に今日の分も明日の分もないと思うのですが……」
「何か文句があるのか?」
「むしろ文句しか……あ、いえ、何でもありませぬその呪符しまってくだされ」
晴明が問答無用とばかりに道満に呪符を向けようとしたのを見て、道満は出かかった言葉を慌てて引っこめた。
「今日のところは許しましょう。ですが、またこのようなことを繰り返すのであれば私もそれ相応の対処をせざるを得ませんので、そのつもりで」
「ンン……」
「返事」
「は、はい」
道満は項垂れながら了承の返事をするしかなかった。
晴明は優れた男だ。仕事はできるし、見目も素晴らしく整っている。何故か当世においても陰陽術の腕は健在だし、性格だって基本的には秩序を尊ぶ性質をしているためか、他者に対してもその者から理不尽に無礼な真似をされない限りは穏やかだ。
しかしながら、彼の道満に対する接し方は常軌を逸していた。付き合っている時から薄々その片鱗を感じてはいたが、結婚生活が始まった途端、それが顕著に表れた。
大体道満と結婚した後も新婚気分を満喫したいからといって、毎日道満に婚姻届を提出させることを強要するのはどう考えてもおかしい。道満もあまり表には出さないものの、晴明と共に在りたいという気持ちはしっかりある。しかしこの行為を変だと伝えても晴明にはあまり分かってもらえず、むしろそれを変だと言う道満の方がおかしいとすら言われる始末で、最近では自らの中にある常識の方が揺らぐ思いである。
「道満」
いつの間にか怒りを鎮めたらしい晴明が、穏やかな声で道満の名を呼ぶ。
「な、何でしょう」
「私はおまえが嫌がることをしたい訳ではないのです。ただ、おまえのことを私なりのやり方で愛していたいだけですから」
「ンンンン」
「私はおまえを愛していますよ。おまえはどうなのですか?」
「それは、無論拙僧も……」
みなまで言わせず、晴明は道満の体を優しく抱き寄せる。道満も特に抵抗することはなく、おずおずと自らも晴明の背中に腕を回した。
「道満、おまえは私の傍にいてくれるのですね」
「ええ、はい……」
「私のことが好きですか?」
「……」
「道満?」
静かに微笑みながら道満の髪を優しく撫で、晴明は問いかける。
「拙僧も、晴明殿のことが……」
「うん」
「……す、好きです……」
「ふふ、嬉しいです」
晴明は道満を抱きしめながら、耳元に唇を寄せる。そして吐息がかかる距離でそっと囁いた。
「これからもずっと一緒ですからね」
「あ……晴明、殿……」
頬に手が添えられ、唇が重なる。啄むような接吻を何回か繰り返し、その隙間に「大好きですよ」と晴明が囁いた。
「ん……せ、いめ」
「おまえも私のことを好いてくれているとその口から聞けて安心しました」
「あ……ん……」
「私からの愛情表現、受け入れてくれますね?」
「はい……」
「婚姻届、毎日ちゃあんと書いてくださいね?」
「分かり、ました」
「ああ、嬉しいよ道満。これからもずっと、ずうっと一緒にいましょう。愛していますよ」
「……」
好いた相手との接吻によりぼんやりとする頭の片隅で、流されているぞと小さな警告音が鳴り響く。これは異常だ、目を覚ませ。誰かがそう言っているような気がする。
「おまえと結婚できて本当に良かった」
しかしそんな警鐘も、晴明に口を吸われて愛を囁かれると頭の中で次第に霧散してしまう。道満はなされるがまま、結婚相手の背中に回した腕に力を込めるのだった。