幸福の庭 たしかに頼って欲しいと思っていたし抱え込みすぎないでくれと願ってもいたのだ。しかしこの頃の隊長のシンへの職務丸投げっぷりは常軌を逸しているとしか思えない。モニタの前でううんと唸りながらシンは頭を抱えた。進まない報告書、積み上がる指令書、経費の精算書類、部下の指導案。どう考えてもシンの領分ではない案件まで運ばれてくるものだから弱ってしまう。
本来の担当者であるヤマト隊長は先刻、にこやかに「あとはよろしくね〜」と退勤してしまった。今夜は恋人とディナーデートらしい。朝からソワソワしていることには気づいていたし彼はそもそも何ヶ月も前から今日のこの日の定時上がりを宣言していた。分かっていたことなのだから、この山を少しでも崩しておけと苦情のひとつも言いたいところだが、あいにくこの上司に弱いシンは「頼んだよ」「シンならできるよ」「さすがシン!」なんて持ち上げられたらひとたまりもなかった。「任せてください!」とあれこれ引き受けて今に至るのである。そんな軽率なシンを知るルナマリア以下、同じ隊の面々は自業自得と笑いながら彼らも彼らでデートに墓参りにと忙しいようで。まだ定時から二時間も経たないうちに夜番の職員を除けばシン以外の誰もいなくなっていた。
平和は良いものだ。コンパスの出動は年々減っていてモビルスーツ戦になるのも今では数ヶ月に一度、あるかないかだ。それでも備えは必要だからとキラは新装備開発に勤しんでいるし、シンも後輩の育成に励んでいるところである。それもこれも例の情報組織がかすかな異変も察知し芽を摘む活動を日々、世界各地で行っているおかげだろう。なかでもシンのよく知る二人がタッグを組んで大活躍しているようだ。
ふと制服のポケットに入れっぱなしにしていた携帯端末の存在を思い出す。
「やっべ」
電源を入れるなり画面いっぱいに通知が流れ込み背筋が凍った。今日はかねてから約束していた大切な夜である。いまの今まですっかり忘れていたのでシンにとってはそうでもないと思われてしまったのかもしれないが少なくともこの連絡の相手、アスランにとっては。
慌てて通話画面を開き彼の番号を入力する。職務が職務だけに数ヶ月おきに変わる彼の端末の番号をいちいち登録し直していてはきりがない。コーディネイターの中でも特に優秀というわけでもない自負のあるシンでも一応気になる相手の11桁の番号くらいは暗記している。
「アスラン!」
『なんだ?』
ワンコールで繋がった先は不機嫌を隠しもしない声色で、シンはどうしたものかと言葉を詰まらせた。しばし無言の時間が続いて「すいません…」ととりあえずの謝罪をすると、小さなため息が返ってくるからシンは身を縮めた。普段ならひと言くらいは文句をつけるところだが今日は言い訳も出来ないほどシンに非がある。
二の句を継げずにいるとがさごそと通話口から何かを探る音がして、まもなくシンの頭の上に小さな塊がいくつも降ってきた。
振り向くと仏頂面のアスランが空になったチョコレートのアソートパックを片手に立っていた。低価格帯のそれはオーブで流通しているものでシンにも馴染みがある。
「足音しなかったですよね」
「忍び歩きは得意なんだ」
「扉の開閉もなかった」
「キラが帰る前に開けておいてくれたみたいだな」
「不用心……」
開け放たれた扉に気が付かずあーだこーだと騒ぎ立てていた自覚もあったからシンはそのまま机に突っ伏した。
「俺以外見てないと思うが。ここまでだれともすれ違わなかったし」
「あんたに見られてんのも…なんかやだ」
呟くとアスランの不機嫌が僅かに和らぐ気配がして、頭をポンと叩かれる。
「それで、いつまで俺はほったらかしにされるんだ?」
「あー………やっぱ怒ってます、よねえ」
「そうだな」
返す言葉が見つからず口を噤んでいるとアスランは呆れたように笑った。
「忙しいのも知っているし、仕方ない。少し様子を見に来ただけだから」
「えっ、ちょ」
そのまま踵を返すものだからシンは慌ててその手を掴んだ。ここまできっと計算づくでシンを見る目はどこまでも試すようなものだ。
「て、手伝って」
「バカ言うなよ」
軽い力でシンの手を振り解いたアスランは対角のデスクから椅子を引っ張ってきて腰掛けた。一応別組織に所属する彼にはなから力を借りようなんて気は無くて、しかしこの場に引き留めたい意図は伝わったようで安堵する。腕を組んで目を伏せる彼の吐息が一定のリズムになるのを見届けてその瞳が再び開かれるまでに山積みの仕事を片付けてしまおうと意気込んだ。