オアシス「ねぇ、あれ…高塔の所の弟君じゃない?」
颯の指差す方向に、宗雲は訝しげに目を向けた。商業地区の端。娯楽地区との境の、色鮮やかな建物の入り口で、押し問答を繰り広げている二人の男。片方のスーツの男はどこにでも居そうな風貌だが、もう片方は見覚えがある。葡萄の様な、ワインのような。自分に似た鮮やかな紫の髪色の男。颯の言うとおり高塔エンタープライズの高塔雨竜だった。
「なんかさぁ…ちょっと、揉めてない?」
困惑を浮かべた雨竜の瞳は不安そうに揺らいでいて。いつもの様に正論で言い負かすことが出来ていないあたり、相手は接待の相手か何かだろうか。
放置しておく事も出来る。そう頭には過ぎったが、宗雲の足はいつの間にかそちらへと向いていた。
「こんにちわ。高塔社長の…秘書の方、でしたね。お久しぶりです。……今日はこんな所で…如何されたんですか?」
極力、穏やかに。そのつもりだったが、近付いて見えた雨竜の姿は不安でいつもよりも小さく見えて。何を言えばこんな風になるのだと頭に血が上って。「そちらの方は?」と問う声の語気は強くなる。隣に張り付いていた見た事もないその男は、一瞬不満を言いたそうに口元を歪めたが。後ろを付いてきた颯が「宗雲、待ってよー」と声を上げたのを機にぐっとその口を噤んだ。
「…宗雲……ウィズダムの…」
「おや、私の事をご存知でしたか。失礼ですが、何処かでお会いしましたか?」
「………此処らでその名を知らぬ者は居ませんよ。……すみませんが、忙しいのでまた……。雨竜くんも悪いね、引き止めて。またご挨拶に伺うから。…社長によろしく」
そういうと逃げるようにその場を去っていった。シンと静まったその場で、一番に口を開いたのは雨竜だった。
「……すみません、助かりました」
探るように見つめる宗雲の視線から逃れるように。俯いて、落ち着かない様子で自身の指を撫でる。助かったという言葉からも、やはり困っていたのだと理解できた宗雲は、これ以上困らせないように、その理由を聞き出す言葉を慎重に選んでいた。
「あの人、なに?変なことされなかった?っていうかさ、顔色悪くない?大丈夫?」
矢継ぎ早に質問を投げかけたのは、颯だった。明るい調子の声で、自分が聞きたい事、全てを聞いてくれた事に、宗雲は驚きつつ。同じ様に驚き拍子の抜けた顔で瞬きを繰り返す雨竜を見て、緊張が解れたなら良かったと胸を撫で下ろした。
「……所要でこちらの近くへ来ていたのですが…少し、具合が悪く。休んでいた所をあの方に見られて、休んだほうが良いと半ば無理やり…。会社で贔屓にしてくださっている方なので、無下に断る事も出来なくて…」
ぽつりぽつりと、申し訳なさそうな小さな声で紡ぐ。はぁ…と大きなため息をついたその顔は苦しそうに眉をひそめて、顔色は青白いという言葉がぴったりだった。
「でもさ、本当に具合悪そうだから、休んだほうがいいよ?」
「いえ、もう会社に戻るつもりでしたので」
頭を軽く下げ、1歩歩みを進めた雨竜だったが、力が抜けたのか、カクンと身体が大きく揺れた。壁に肩が当たりそうになった時、寸前の所で宗雲が手を差し出して雨竜の身体を支える。
「ここから、お前の会社までどれ位掛かると思っているんだ。少し休め」
「…でも」
ポケットから取り出したライダーフォンで時間を見る。予定の時間が迫っているのか、雨竜の表情は一層険しくなった。
「今の状況でまともに仕事が出来るのか?……お前の代わりが出来る人間くらいいるだろう」
宗雲の言葉に、雨竜の表情は曇っていく。それを隠すように深く俯くが、堪えきれない悔しさが小さく肩を揺らして。ショックを受けているのだと颯が見てもすぐに分かる。
「宗雲……ちょっと…!」
颯が宗雲の肩を揺らして声を掛けたところで、彼ははっと口を噤んだ。重苦しい空気に、揺れる小さな肩。うっ、と小さな声で息をのむ声が聞こえた。
「すまない……その、少し強く…言い過ぎた。…仕事をするなら休んだほうが良い……そういう意味だ」
服の裾をギュッと強く握りしめながら「わかってます」と返事する雨竜の声はいまだに少し震えていて。3人の間を漂う雰囲気は息もし辛く感じるほどに重苦しかった。
「…とにかく休んだ方が良いだろう」
再び訪れた静寂を割いたのは宗雲だった。支えていた雨竜の肩を抱き寄せて、動くのを促す様にトントンと優しく叩く。
「颯、先に戻って開店の支度を頼む。…落ち着いたら戻る」
「りょーかい」
そのまま、大通りを流れるタクシーを捕まえると、雨竜を半ば無理やり押し込む様にして宗雲も一緒にそれに乗り込んだ。
「何処へ?」
尋ねても、宗雲は雨竜の方を見る事もなく運転手へ「中央区の仮面カフェへ」と淡々と続けた。あぁ、なるほど、素性も事情も知っている彼女の店なら、本来関わる事の無い2人が一緒に訪れても、あれこれ言わずにすぐに事情を理解してもらえるだろう。
この人が変な所へ連れて行くなんて思いはしないが、先ほどの事が頭を掠めなかったわけでもない。むしろ最悪直接会社に一緒について行きそうな雰囲気だってある。だから、行先が仮面カフェだと分かった時は無意識のうちに、ほっと息が漏れていた。
するりと見かけよりも逞しい腕が背中を撫でる。どきりと身体は跳ねたが、距離を取るよりも早くその腕はそっと雨竜の身体を抱き寄せた。
「体重をかけて良い、少しでもいいから休んでいろ」
肩口に頭を預けように頭を撫でる。ふわりと甘い香りが鼻を掠めた。果物のような、花のような。きりりとした厳しい見た目とはまったく違う、優しい言葉と香りに、雨竜は小さく頷いてそっと瞼を閉じた。
***
「動けるか?」
その声に、瞬きを2,3度繰り返し瞼を持ち上げる。いつの間にか目的地に到着していたようで、カフェのドアの前で宗雲が雨竜の腕を引いた。動かなければ。そう思っても意識はまだはっきりとしていなくて、足元も覚束ない。
「えと…あ、の…」と言葉にならない声が漏れた。車を降りてから車が動き出すまであっという間で。もうお金は払ってしまったのかなとか、どれ位時間がたったのかなとか、考えている間に宗雲に抱えられるようにカフェへと入る。
慌てふためくエージェントと執事を制するように「VIPルームを借りる」と言い放った宗雲に連れられて店の奥へと進んだ。ぼんやりとしたままVIPルームのソファへ腰を下ろした雨竜は、くわりと小さく欠伸をして目元を擦る。
「ここなら人目も気にならないだろう。休んで体調が良くなったら戻ったらいい」
少し乱れた雨竜の長い前髪をはらい、顔を覗き込んで。宗雲は言い聞かせる様に紡ぐ。
「あの…」
「どうした?」
「もう、行ってしまうんですか?」
顔が曇り、不安そうに瞳が泳ぐ。横へ腰を下ろすとぎしりとそこが歪んで、それを合図に雨竜はより深く頭を下げる。顔が見えない様にしている様だった。
「一緒の方が良ければ、ここに居る」
「……もう、少し、だけで…いい、ので……」
てっきりおびえられていると思っていた宗雲は驚いたと言わんばかりに瞬きを繰り返した。眠くて、少し素直になっているのだろうか。そう思えば頬が自然と緩んでしまう。
「こっちへ…」
タクシーの中と同じように、雨竜の身体を引き寄せる。
「すみません」
「気にするな」
少し嬉しそうに小さく笑いながら発せられた謝罪に、宗雲も小さな声で返事をした。
***
「これは、どういう事ですか」
カフェに訪れた高塔戴天は、エージェントに導かれVIPルームに入った。中の様子がわかった途端、眉間に皺を寄せ、そこに座る男を睨みつけた。ソファに座る宗雲の脚には、雨竜が頭を預けて心地よさそうに寝息を立てて。身体には大きなブランケットが掛けられていて、まるで子供か恋人にでもするように優しく彼の身体を撫でていた。唇を噛みしめ、戴天の唇が歪んでいる。それをみた宗雲は逃げる様に視線を自分の脚の上で眠る雨竜へと移した。
一方雨竜はそのよどんだ空気を察してか、息苦しそうに眉を顰めて身体を捩る。男二人の体重が掛かるソファはぎしりと音を立てて、雨竜の身体の動きに合わせて歪む。宗雲はその身体が落ちてしまわぬように、慌てて腕を伸ばして引き寄せた。促されるまま元の場所へと戻った雨竜の表情がすこし穏やかになっていた事に宗雲は小さく胸を撫で下ろした。
「…に、…さん…」
ふいに漏れた言葉に、戴天の表情が一層険しくなる。けれどすぐにその表情はいつもの様に取り繕った感情の見えない物に変った。一度、ワザとらしく大きなため息をして。数回瞬きを繰り返す。
「ご迷惑をおかけしました。今、連れて帰りますので」
一歩、歩みを進めた戴天に、宗雲は一度目線を送る。言いたい事がある、と言わんばかりの険しい表情だった。その表情に、戴天の足はすぐに止まる。その様子を見て、宗雲は雨竜に掛かっていたブランケットを、彼の耳を塞ぐように掛け直して、そこを優しく抑えた。
「上に立つものならば、もう少し…周りの人間の様子にも目を配ったらどうだ」
「冷暖自知。あなたに言われなくても社員の事位、分かっています」
返ってきた言葉が気に食わなかったのか、宗雲の手に力が籠りブランケットに皺が寄る。
「…弟なんだろうが、もう少し大事にしたらどうだ」
「していますが」
「お前の所と取引している奴に、連れて行かれそうになっていたんだぞ」
その言葉に、細められていた目が大きく見開かれた。
「会社と繋がりがあるからと…気にかけていたようだ。どうせ帰った所で、こいつからお前に言う事は無いだろうから、俺から言っておく」
「……それは…」
教えてもらい有難いと思う反面、素直に言う事は出来ず、戴天は言葉を飲み込む。
「…ん、…ぅ?」
顔を覆うように掛けられたブランケットのせいで息苦しかったのか、雨竜がもぞもぞと動き出した。
「……ここは?」
身体を起こし、眠気眼の雨竜は自分の意識と記憶を呼び戻すように目元を擦る。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですか?」
さっきまで一緒に居た人と、もう一人聞き慣れた人の声。左右の耳から聞こえた情報に驚き、雨竜は慌てて周りを見渡した。見た事もないくらい近くで見つめる宗雲。自分は仮面カフェのソファに横たわっていた様で、そのVIPルームの入り口には険しい顔の戴天が立っている。
肩にかけていたブランケットが、ぱさりと床へと落ちる音がやけに大きく聞こえた。テーブルに置かれたスマホは18時を既に越していて、会社の就業時間が過ぎた事に気が付き、状況を理解した雨竜の顔はあっという間に青ざめて、なんと言うべきかと唇を小さく震わせた。
「えと……あの…」
はっはっと荒くなる息の合間に言葉を紡ごうとするもすぐに詰まってしまう。苦しそうに上下し始めた肩を見つめて、宗雲はそっとその肩を撫でた。
「身体はもう大丈夫か?」
静寂を裂いた声はひどく優しく。いつも鋭いはずの表情も見た事もないくらい柔らかかった。
「……っ、はい…」
頷けばその表情は一層柔らかく、口角を上げて笑っている。
「そうか」
背を撫でていた手がもう一度そこを往復して。宗雲がソファから立ち上がるのと一緒に背中から離れていく。さらりと軽く指先で前髪を払って頬を撫でる。
「もう、無理はするな」
二人にしか聞こえないくらいの小さな声で紡いで、宗雲はVIPルームの扉へ近づいていく。
「あの、…!」
お礼を言わなければ。追いかけるように声を掛けたが言葉は出なかった。それなのに宗雲はまるで何が言いたいのかわかっているとでも言いたげに、少し振り向いて、一度大きく頷いた。
「報恩謝徳…有難う御座います」
終始黙って見ていた戴天が口を開いた。弟を助けてもらった礼を述べるが、宗雲の表情は先程とは一変し、いつもの厳しい顔になっている。
「先程の事、忘れるな」
地を這うような低い声で紡ぐと、宗雲は足早にその場を離れていった。
「あの、申し訳ありません」
宗雲を追い、出口を向いていた戴天に雨竜は慌てて声をかけた。その様子からは兎に角謝らなくてはという焦りが見える。
「いえ、私の方こそ雨竜くんの体調が悪い事に気が付かず…エージェントさん達が知らせてくれなければ大変な所でしたね」
助けてくれたのは宗雲さんなのだが。頭に過ぎった言葉を雨竜は、あえて口にはしなかった。先程の二人の様子。あまり良い関係とか言い難いようだ。以前から娯楽地区の方へはあまり行かないように言われていたのを思い出し、ウィズダムシンクスの面々とあまり関わりを持ってほしくないのかもしれないと考えた。宗雲さんもそのつもりでエージェントさんから連絡が行くようにしたのかもしれない。
「雨竜くん、まだ調子が悪いのですか?」
ぼんやりと考えている様子に、戴天が問う。
「あ、いえ…少し考え事を。…もう大丈夫です、社長」
顔をのぞき込まれてハッと顔を上げた。
「……今は二人ですから、兄さん、と」
その目はどこか笑っていないように見えて。
「はい、兄さん。…もう大丈夫です」
目線を反らし、床に落ちていたブランケットを拾い小さく畳んで立ち上がる。そこには横たわっていた自分の身体の後が薄っすらと残っていて。随分長い時間休んでいたんだなと苦笑いが漏れた。
それと同時に、あの人はその間ずっと側にいてくれたんだと。休んでいる間に膝を貸してくれていたんだと思い出し、恥ずかしさのあまりにぽっと頬が火照るのを感じて、隠すようにブランケットに顔を埋めた。ふわりと香る優しく甘い残り香に、身体を撫でてくれた温かい手を思い出す。
久しぶりに、よく眠れた。隣りに居てくれると何だか安心するような気がして、胸の奥がじわじわと暖かくなっていく。ずっと寝ていただけだけれど、幸せだったなと噛み締めて顔を上げた。
「…宗雲さんに、お礼を言いそびれてしまいました」
ブランケットをエージェントへ返した時に、ポツリと漏らす。
「今度会えたら私からも伝えておきますよ。時々パフェを食べに来られるんです」
彼女がそう伝えると、雨竜は嬉しそうに頬を綻ばせた。
「僕も……また、おじゃまします。ご迷惑おかけしました」
深々と頭をさげて、雨竜は戴天のあとを追う。口に出しはしないが、ここに来れば会えるかもしれないと、期待しているように彼女には見えて。店から駆け出して行く彼の姿も、いつもよりほんの少しだけ幼く見えるような気がした。