ジョイスのはなし「なぁハンター……」
俺が物心ついてすぐぐらいの頃に弟のハンターが生まれた。産婆さんに抱きかかえられた「何か」が気になって、産婆さんの腕の中の「それ」を一所懸命に見上げて、背伸びもした。すぐに産婆さんは俺にもよく見えるように屈んで、ぎゃあぎゃあ泣いている赤ん坊を見せてくれた。
「ほら、ジョイス。可愛い弟だろう」
可愛い弟? そんな表情で父を見上げると、父さんはほほ笑みながら、今日からお前は兄になるんだぞ、と言った。
産婆さんは立ち上がって、母さんのところへ赤ん坊を運んで行った。しばらくして、母さんがベッドから声を掛けてきた。
「ジョイス、おいで」
母さんの隣に寝かされた赤ん坊は、真っ赤でまるまるとした顔で、すやすやと眠っていた。
「今日から、ジョイスはお兄ちゃんだねぇ……。弟のお名前、一緒に考えようね……」
小さな弟。今日から俺はお兄ちゃん。弟の寝顔を見つめながら、俺は素直にうん、と頷いた。
はじめは、母さんからも父さんからも大事に扱われる弟を見ていて、腹が立ったし、頭にも来た。だって今まで親は俺の事を大事にしてくれていたから。もうお兄ちゃんなんだからしっかりしなさい、なんて言われて嫌だった。弟はあうあう言いながら小さな手をいっぱいにのばして、小さな指で俺に掴まる。俺はお前のことなんか嫌いなんだぞ、と言ってみても、あへへ、って笑うだけ。変な鳴き声を上げて、更に俺に掴まってくる。やだやだ、と言っても親も笑うだけ。
だけど、いつだろう。親が目を離した隙に、ある出来事が起きた。俺がたまたま弟の方を見ると、弟は母さんを追おうとしてテーブルから落ちそうになっていた。俺は咄嗟に駆け寄って弟を抱き上げた。多分わあーっと声を出していたのだろう、振り返ると肝を冷やした母さんがいて、腕の中の弟は何が起きたのか分からず泣き声を上げていた。その時、俺は「親と一緒に弟を守らなきゃ」と固く心に決めた。
そうしたら弟が可愛くて仕方がなかった。手がかかるけど、お前も赤ん坊のころはこうだった、なんて親から聞かされてしまえば、それは仕方のないことなのだと割り切れた。
大きくなると男兄弟、わんぱくに遊びまわり、それはそれは親を困憊させた。喧嘩もしたし、仲直りもした。父さんの雷と母さんの涙は、いつも俺たちに反省をさせた。だから俺たちは親友のように仲良くなれた。
「兄ちゃん、兄ちゃん!」
元気よく呼びかけてくれたハンターは、満面の笑みで俺を見上げていた。
地主さんのお屋敷に奉公に出された頃から、ハンターは成長と共に俺の背に追いついていき、やがて俺よりも背が高くなった。俺は背よりも体格が良くなって、ハンターよりも腕っぷしはいい方だった。以前はハンターが俺を見上げていたのに、今では俺がハンターを見上げている。身長差は著しいものではなかったが、やはり話す時には目線を合わせるために上を向く。
大人になり、すっかり見上げて話すことに慣れていたが、近ごろ長く話していると首が痛い。
職にあぶれて困っていたところに、トレローニさんからの誘いで新米水夫として乗船することになった。トレローニさんも初めての航海、船員集めの前にこちらに声を掛けてくれた。船のマストは高い。ただでさえハンターとの会話で首が痛くなることもあるのに、更に上を見上げなければならないのか……。しかし、職を探していた身であったし、何よりもずっと手紙でのやりとりを絶やさず常に俺たち兄弟を気にかけてくれていたトレローニさんの誘いを無下には出来ない。俺たちは仕事を引き受けた。首が痛いなんて私情は挟めない。
船上では初めは俺たち二人はお互いだけが味方だった。トレローニさんは船のオーナー、たとえ旧知の知り合いとはいっても贔屓には出来ない立場、おいそれと話なんか出来るわけがない。水夫たちにどやされ怒鳴られて肩身が狭くて、俺たちとにかく仕事をこなしていくしかなかった。でも時折グレーが、分からない所を教えてくれたり手伝ってくれたりと、何かと手助けしてくれた。味方になってくれた時は安心したし、嬉しかった。
晴れ渡った空の下、強く吹き付ける海の風を肌で感じ、束の間の休息に深呼吸をする。その時に見上げたハンターの笑顔は、すごく晴れ晴れとしていて、仕事の辛さなんか忘れてしまえそうになった。俺が、この笑顔を守らなくちゃいけないんだ。
なぁ、ハンター……、そんな悲しそうな顔をしないでくれよ。
元気で、明るくて、可愛い……小さなころのハンターが目の前に浮かぶ。
ジムは本当に元気いっぱいだ。時々見かけるといつも楽しそうだった。うんと小さいころから海に出ることにあこがれていた。
子供の頃は楽しかった。兄弟なのに親友みたいに仲良しになれて、幸せだった。何にも心配していなかった。大人になったら、どんなことにも気を付けなくてはいけなくて……、ただ、まっすぐに生きていたかった。
二人で、どこまでも、いきたかった。
――お前を置いて逝きたくないよ……。
ああ、俺、ずっとお前のこと、見上げてばかりだったな。さいごの、この瞬間まで……。